第23話
みさ緒の腕の傷はかなり良くなっていた。
エドワード医師の治療は完璧だったし、きよをはじめとする屋敷の使用人たちは親身に看病してくれた。
恭一朗や祥吾もこれまで以上にみさ緒を構ってくれたうえ、伯父の琢磨は横浜からわざわざ駆けつけてくれた。
その琢磨から『大事なみさ緒』と言ってもらえたのが嬉しくて、思わず涙をこぼし苦笑されたこともあった。
襲われて刺されたことは衝撃だったが、みさ緒にとっては、自分が冴島家の家族の一人として大事にされていることを実感できた出来事でもあった。
とはいえ、傷自体はよくなったものの痕が残ることになってしまった。
肘から手首にかけて15センチほどの赤い筋が、生生しく盛り上がっている。
だが、みさ緒には、傷痕が残ったことより心の傷の痛みの方がつらかった。
あのとき襲ってきたのは、確かにりよだった。
りよが、刃物を振りかざして襲ってくるとは今でも信じられない。
思いつめた目をしていた。
はっきりとは聞き取れなかったが、天罰とかなんとか恨み言をいいながら突進してきた。
どうでも傷つけてやるという強い意志が、りよを突き動かしているようだった。
りよに一体何があったのだろう、と思わずにいられない。
村一番の名家のお嬢様。
村で浮いた存在だったみさ緒にも同級生として普通に接してくれたし、みさ緒がいじめにあって泣いたときには、高価なハンケチをあたり前のように差し出してくれた。
そんな心優しい人だった。
みさ緒の思い出の中のりよと、あの日襲ってきたりよとはどうしても結びつかなかった。
「みさ緒、どうした? ため息ついて。傷が痛むのか?」
いつの間にか恭一朗が帰っていたらしい。心配そうにみさ緒の顔を覗いている。
「あ、いえ。あの、大丈夫です。恭一朗さま、お帰りなさい」
声をかけられてふと我に返ると、恭一朗の顔が間近にあって驚いた。どぎまぎして顔が赤くなってしまった。
「うん? 顔が赤いね。熱があるのかな」
恭一朗がみさ緒の額に手を当てて、熱を測ろうとしている。
「あ、あの、大丈夫です。熱はありませんから」
みさ緒は急にソファから立ち上がると、自分の部屋に逃げ込んだ。
頬に両手を当ててほっと息を吐く。顔が熱いし、胸の鼓動も早くなっているようだ。
もっと恭一朗と話したかったのに逃げて来てしまった。
「あ…失敗。残念だったな…」
最近、どうも恭一朗に対して自然に振舞えない。特に恭一朗がみさ緒に接近してくると緊張する。
(どうしたんだろう、私…)
すると、ふいに巴の顔が浮かんだ。
(あ、そうだった…。巴様は恭一朗さまと結婚するつもりって言ってたっけ…)
恭一朗と巴、二人の将来のことが頭に浮かぶと、いつも体の力が抜けていく気がするのだった。
銀座で襲われてみさ緒が傷を負って以来、祥吾は
外出の楽しさを覚えてから、屋敷に籠ってばかりいるのもつまらないと感じているのだが、かと言って一人で出かけて行く勇気もなかった。
自動車が街中を走るようになってから交通事故が多いと聞いている。
道に不案内な者がふらふら出歩くのも危険だろう。
手持ち無沙汰に窓から庭を眺めていると、きよから声をかけられた。
「みさ緒様、お屋敷の周りを散策してみられてはいかがです? こちらのお屋敷は広いですから、ぐるっとひと周りするだけでも結構距離がございます。念のため誰かをお供につけましょうか?」
一人で屋敷周りを歩いてみると、なるほど結構な距離がある。きよが言ったとおりだった。
辺りは静かなのだが、風の匂いがしたり、遠くから学生の声が聞こえたりして、みさ緒はいつの間にか育った村の景色を思い出していた。
ざわざわと木々の触れ合う音、さわやかな風の匂い、そして遠くに聞こえる子供たちの遊び声…子供の頃、寺の裏山に立って風に身を任せて雲を眺めているのが好きだった。
誰一人遊びに誘ってくれないのも気にならなかった。
(あの頃は、冴島家に来ることになるなんて想像もしなかった…)
そんなことを考えながら歩いていると、少し先の道端に西洋人らしき婦人が倒れ込んでいるのに気がついた。
みさ緒は慌てて駆け寄ると声をかけた。
「あの、大丈夫ですか? えっと…メイ アイ ヘルプ ユー?」
みさ緒は少し前から英語を学び始めていた。
きっかけは、エドワード医師の一言だった。
「みさ緒さん、英語を話せるようになりたくないですか?」
「英語、ですか?」
「そうです。もし英語が話せるようになれば世界が大きく広がります。大丈夫。英語は、私が教えましょう。その代わりに、みさ緒さんは私に日本語を教えてください」
みさ緒は戸惑ったが、エドワード医師はいいアイデアだと言って盛んに勧めてくる。結局、英語のレッスンなるものが開講されることになった。
恭一朗に相談したところ、何ごとも経験だねと笑いながら頷いてくれたからだ。
片言の英語で話しかけてみると、婦人の方は片言の日本語で返事をしてくれた。
「ありがとうございます。困っています。靴が壊れて転びました。足が痛いです。立てないです」
見れば、婦人の片方の編上げ靴の
みさ緒は、婦人の編上げ靴を脱がせ、自分の草履を婦人に履かせると肩を貸して立ち上がらせた。そして、自宅は近くだという婦人に肩を貸しながら、足袋のまま歩いて送って行った。
屋敷に戻れば、手助けしてくれる人手はあるが、行って戻って来るにはちょっとした距離があって時間がかかる。しかも男の使用人が手伝うとなると婦人が
しきりに遠慮する婦人に、みさ緒は、田舎で育ったので苦にならないのだと笑いながら話しているうちに婦人の自宅に着いた。
婦人の使用人に送られて屋敷に戻ると、散策に出たみさ緒の帰りが遅いといって屋敷では騒動になっていた。
みさ緒が無事に戻って、きよは今にも泣き出さんばかりだ。
「みさ緒様…。お帰りなさいませ。ご無事でようございました。ほんとうによかった…。屋敷周りの散策をお勧めしたものの誰もお供しないままで、本当に…心配いたしました」
あの事件以来、みんな敏感になっている。婦人を送ったりしたことで、いつの間にか結構な時間が経っていたようだ。
きよは責任を感じて生きた心地がしなかったらしい。青ざめたきよの顔を見て、みさ緒はみんながどんなに心配していたかを理解した。
「きよさん、みなさんも。ごめんなさい。心配をかけてしまいました」
素直にあやまると、足を挫いて動けなくなっていた婦人を助けて家まで送ったてん末を話したのだった。
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