第21話

 少し落ち着いたみさ緒を、きよに部屋に連れて行かせて、恭一朗はようやくカーター医師に気が付いたようだった。


「恭兄さん、みさちゃんが刺されたときに応急手当をしてくれたエドワード・カーター医師です」

 祥吾が改めて紹介し、恭一朗が英語で礼を言おうとすると


「日本語、大丈夫です。初めまして。エドワード・カーターです。政府に招かれてアメリカから来ている医師です」


「冴島恭一朗です。このたびはみさ緒が大変お世話になりました。ありがとうございます」


「私が近くにいて、みさ緒さん…ですか? ラッキーでした」


「おっしゃる通りです。おかげで迅速に手当てしていただくことができました」


「そして私もラッキーでした。有名な冴島商会の冴島恭一朗さんと知り合うことができました」


「あ、いや…。カーターさん。お引き留めするのも申し訳ないですから、お礼には改めて伺います。普段はどちらに?」


「横浜に住んでいます。アメリカ人はじめ多くの友人がいますから。礼なんていりません。医師としてすべきことをしただけです。明日また様子を見に来ましょう。刃物の傷は最初が肝心ですから」


「それでは申し訳ない。かかりつけの医師もいますから…」

 恭一朗は遠回しに断ったつもりだったが


「大丈夫です。気にしないで下さい。それに…えっと…一度乗った船…いや違うな。乗りかかった?…そう、乗りかかった船ですから最後まで乗せておいてください」

 カーター医師はそう言うとにっこりと笑った。






(やってしまった)

(やってしまった)

 震える手を合わせながら、りよは胸の中で繰り返していた。


 この宿舎ももうすぐ出ていくことになる。学校の友達には縁談が決まったので学校を辞めて実家に戻ることになった、と言ってあるが実は違う。経済的な理由で学校を続けられなくなってしまったのだった。


 数か月前、実家の埜上のがみ家に坊主頭で体の大きな男が手下らしき数人の男と一緒に乗り込んできた。話が違うとか、金を返せとか、どうにも腹が収まらないとか、すぐにでもあの小娘を連れてこいとか散々騒ぎ立てた挙句、埜上家にあった金目の物を持ち去った。


 母が言うには、父がみさ緒に頼まれて仕事の世話をしたのに、約束を違えてみさ緒はそこに行かずに逃げた、と。それで、その世話をした先の坊主頭あるじが逆上して乗り込んできたということらしかった。



 だが、それだけならまだよかった…。


 坊主頭に財産の一部を持ち去られたと言っても、代々続く家だから、体面を保つだけのものは充分残っていたはずだ。


 だが父は、減らしてしまった財産を何としても元通りにするのだと言って相場に手を出した。最初はうまくいっていたらしい。だが相場の恐ろしさ。素人が調子に乗って大きな賭けに出たところで、裏目に出た。

 結局、大きな損失を出して、埜上家はすべてを失うことになってしまったのだった。


 りよが実家の埜上家に起きたわざわいを知って呆然としていた頃、学校の友達から思いがけない話を聞かされた。


『先日、お父様に連れられて初めて冴島家の薔薇の茶会に行ってきましたの。そしたら、ほら、この間りよさんが三越呉服店の前で声をかけていらした方がいたのよ。りよさんのお知り合いなんでしょ。素敵な方ねぇ。冴島みさ緒さん、注目の的でしたわよ』


 驚いた…。

 確かに三越呉服店の前で会ったみさ緒は、裕福な生活をしている様子だった。あのとき、みさ緒は親戚の家に世話になっていると言っていたと思う。


 父を騙すようなことをして、自分はどんな手を使ったか「冴島みさ緒」とは…。


 みさ緒のせいで埜上家は失くなってしまったと思うと悔しくてならなかった。

 因果応報いんがおうほうを思い知らせてやりたい、仕返しかえししてやらないと埜上家が報われない、そんな思いに取り憑かれてしまっていた。


 友達から冴島家の場所を聞き出すと、襲う機会をうかがって、日々辺りをうろついていたのだった。


 そして…ついに機会がきた。みさ緒が楽しそうに若い男性と歩いているところを襲ったのだった…。



 だが…こんなはずではなかった。気持ちが晴れない。

 すっかりき物が落ちたように、自分がしでかしたことの恐ろしさに打ちのめされていた。

 あの時、みさ緒は追いかけようとした連れの男性を必死で止めていた気がする。

 襲ったのが私だと判っただろうになぜだろう…。


 今さら遅いが、みさ緒の怪我の状態が心配になってきていた。

 腕のあたりを深く刺した手応えがあったが、どうなったか…。

 みさ緒がとっさにけていなければ脇から胸の辺りに刃先が深く入っていたかもしれない…。そうなったら、恐らく死んでいただろう。


 りよは、浅はかだった自分を責めていた。






「みさ緒が刺されて怪我をしました」


 恭一朗は横浜の別邸で琢磨に告げていた。横浜にカーター医師を訪ねた帰りのことだ。

「何だと! 一体誰に?! 大丈夫だったのか? 傷の具合は?」


「包丁で腕を刺されたのですが、幸い近くにいたアメリカ人の医師がすぐに手当してくれたので、傷自体は徐々に治っていくと思います。ですが、傷痕は残ると思います」


「そうか…。傷跡が残るか…可哀そうに。で、襲ったのは、例の…あれか?」


「いえ。全く別の筋です。村でみさ緒の同級生だった娘に襲われました」


「娘に? なんでまた…」


「逆恨みです。まぁ…かわいそうな事情があるにはあるのですが…。横浜ここ羽衣楼はごろもろう亭主絡ていしゅがらみで娘の実家が破滅したんですよ」


「あのえない男か」


「はい。娘は知らなかったようですが、娘の父親というのが裏で羽衣楼の亭主と組んで金貸しをしていまして…。借金を返せなくなった家の娘を羽衣楼に世話して、手数料を稼いでいたようです」


大方おおかた、仕事を世話してやるとかなんとか恩に着せて羽衣楼に連れて行ったんだろう。悪い男だな」


「みさ緒もフミを亡くして一人になったところを言いくるめて羽衣楼に売る手筈になっていたようです。間一髪、助け出しましたが」


「おぅ、小林から聞いてるよ。手加減なしで叩きのめしたそうだな、羽衣楼の亭主を」


「迎えに行ったとき、まさしくみさ緒を組み敷いて悪さをしかかっているところだったんですよ。少し遅かったら、どうなっていたか。叩きのめされて当然です。みさ緒に執着している様子もありましたから、あの後、小林に調べさせたんですよ。それで、娘の父親とのつながりが判りました」


「羽衣楼は、先代の頃は料理屋だったんだよ。それを、今の亭主が買い取って娼妓宿しょうぎやどに商売替えしたというわけだ。狙いが当たって随分繁盛しているようだ。西洋人の客でにぎわっているみたいだな」


「詳しいですね」


「年の功だよ。それで、娘の方はどうするんだ? 刺したのは判ってるんだろ? 警察に届けるのか?」


「いえ、みさ緒が『何かの間違いだ』と言ってきかないんですよ」


「そうか…。まぁ、お前に任せる。ところで、さっきから気になっているんだが、アメリカ人がいたって? みさ緒の近くに。大丈夫なのか?」


「私も気になって調べてみましたが、今のところ例のほうとは関係ない人物のようです」


「わかった。近々みさ緒の見舞いに屋敷に行くよ。大事にするよう言ってくれ、みさ緒に」


「伝えておきます。ありがとうございます」


「うん。しかし、お前も気が休まらないことだな」


「……?」


「大事なものができると心配の種も増えるんだよ」

 意味ありげな目で恭一朗を見ると、にやりと琢磨が笑った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る