第20話

 恭一朗に、あんなはしたないことをしてしまった夜以来、みさ緒はどうにも意識してしまって恭一朗と顔を合わせるのが気まずい。

 幸い、と言っていいかどうか、回復した後の恭一朗は相変わらず忙しく、せいぜい見送りの挨拶をするぐらいで済んでいた。


 ただ、そんな時でも、みさ緒は変に緊張して声がかすれてしまい、発声の練習をした方がいいかしらと思うくらいなのだが、恭一朗はあっさりしたもので、いつも通りの落ち着いた様子だった。


(私ったら、もう…。恭一朗さまが何事もなかったように振舞ってくださっているのに。しっかりしなくちゃ)


 恭一朗のそんな態度に感謝しながらも、一方でそれが少し寂しい気持ちもある。一体どうだったらいいのか、どうなることを望んでいるのかと、みさ緒は矛盾している自分に呆れていた。



 鬱々としたみさ緒の気分を吹き飛ばすように明るい声が聞こえてきた。


「みさちゃん、いる?」

「祥吾さん、いらっしゃい」


「今日も、出かけませんか?」

「あ、私はどちらでも…。祥吾さんについて行くだけですから……」


「なんだ、張り合いがないなぁ。出かけるのは楽しくない?」

「あ、いいえ。あの、楽しいです。知らない世界を覗いているようで…。それに祥吾さんと一緒だから、安心だし」


「お守りするのは僕の務めです、姫。なんてね。今日はね、ソーダファウンテンに行こうと思ってるんだ」

「ソーダ?」

「ソーダファウンテン 。銀座の資生堂薬局の中にあるんだけど、ソーダ水やアイスクリームを出してくれてね、食器から何からすごく凝ってるから、みさちゃん絶対気に入るよ」

「へぇ、薬局の中に…。珍しいんですね。あの、祥吾さんにお任せします」



 先日来、祥吾に連れられてみさ緒は外に出かけている。


 これまでの二回は、カフェに連れて行ってもらった。カフェと言っても給仕にきれいな女性を揃えて酒類を出すようなところもあるそうだが、祥吾に連れられて行くところは、ブラジルから輸入したコーヒーが売りのカフェ で、給仕は男子ばかりだった。


 もちろん、外出するについては祥吾が恭一朗に了解をもらっている。

 恭一朗からは、一緒に出掛けるのは構わないが、不特定多数の大勢の人がいる場所にみさ緒を長時間連れまわさないこと、という条件が付いていた。


 資生堂薬局では、店内で製造しているというアイスクリームを食べた。アイスクリームはもちろん物珍しく美味しかったのだが、実はコーヒーはあまり好きにはなれなかった。

 祥吾には内緒だが、どちらかといえば男性が好む味、男性が好む店の雰囲気だと感じた。

 それでも、みさ緒は祥吾と一緒に歩く銀座の街並みが好きだった。

 西洋風の大きな建物が建ち並び、広い通りには電車の線路が敷かれて自分が育った村とは別世界、まるで異国にいるようでこれが同じ日本かと思うくらいだった。


 今日も祥吾と並んで銀座を歩いていると、いきなり若い娘がぶつかってきた。


「あっ」

 とっさに体をひねったが、左腕に激痛が走った。血が流れ出ている。


(刺された)


 みさ緒を刺した若い娘は、自分がしてしまったことに驚いたように一瞬立ちすくんだが、すぐにひるがえって走って逃げようとしていた。


「みさちゃんっ」

「君!待てっ」

 祥吾が怒鳴る。


「祥吾さん、待って! 大丈夫だから…。追わないで!」

 みさ緒が必死で祥吾を止めた。


「えっ、だって、みさちゃん…。犯人を捕まえて警察に…」

「大丈夫だから…。お願い」


 ……あれは、りよだった。


「あんたのせいで埜上の家は……天罰よ!」

 そう言って思い切りぶつかって来たのだった。


 祥吾がみさ緒に気を取られているわずかなすきに、りよは逃げ去っていた。


 地面には、血の付いた包丁が一丁。りよが落とした凶器だろう。


 みさ緒の腕の傷は深く、血が止まらない。傷口からぼたぼたとしたたり落ちる血で地面が赤く染まっていく。


 すると、西洋人の若い男性がいきなり近付いて来たかと思うと、手際よくみさ緒の傷の手当を始めた。驚いている二人に、自分は医者だと名乗った。


「ありがとうございます。ご親切に。僕は冴島祥吾といいます。失礼ですがあなたは?」

「私はエドワード・カーターです。日本政府の招きで来日しています」


 みさ緒は下を向いてずっと黙ったままだ。ショックが大きかったのだろう。


「送りますよ。車を待たせてあるので」




 怪我をしたみさ緒が祥吾とカーター医師に付き添われて帰ると、屋敷中が大騒ぎになった。しかも、みさ緒が刺されて怪我をしたことに皆驚いていた。


 きよが心配して話しかけても、みさ緒はずっとうつむいたまま何もこたえない。祥吾が話しかけても同じだった。


 その間、カーター医師が改めてみさ緒の傷を消毒したり包帯をしたりして、丁寧に手当てをやり直してくれていた。現場では応急処置しかできなかったのだ。

 みさ緒は黙って、されるがままになっている。暗い目をしてずっと俯いたままだった。


 

 間もなくして玄関に車の停まる音が聞こえたかと思うと、大きな靴音を立てて人が入って来た。恭一朗だ。


「みさ緒」

「みさ緒」

 大声で名前を呼びながら歩いてくる。


「恭一朗様、こちらでございます」

「あぁ、きよ。知らせてくれてありがとう。みさ緒が怪我をしたって?」


 きよの案内で、みさ緒たちのいる客間に恭一朗が入って来た。


 祥吾は慌てて立ち上がると、

「恭兄さん、本当に申し訳ありません。僕が付いていながら、みさちゃんに怪我を…」

 祥吾が謝罪する声は恭一朗には全く聞こえていないようだった。


 恭一朗は足早にみさ緒に近づくと、片膝をついてみさ緒の顔を覗き込んだ。


「大丈夫か、みさ緒」

「……」

「痛むのか? 傷の具合はどうなんだ?」


「恭兄さん、みさちゃんはずっと黙ったままで…。何も」

 話そうとしないんです、と祥吾が言いかけたとき、みさ緒は恭一朗の肩に顔を伏せて泣き出した。


「みさ緒…どうした…」

 恭一朗はそう言うと優しくみさ緒の背を撫でている。


(みさちゃん…)

 祥吾はみさ緒の変化に驚いていた。うつろな表情をしてずっと黙ったままだったのに、恭一朗の顔を見たとたん泣き崩れた。みさ緒ばかりではない。こんな様子の恭一朗も初めて見た。どんな時でも冷静な恭一朗が、周りが全く目に入らないほど慌てている。みさ緒のことが心配で、ただみさ緒しか見ていないようだった。

 

「傷が痛むのか? 大丈夫か?」

 恭一朗が優しく問いかけると


「りよさん…」

 みさ緒がつぶやくように言った。


「え?」


「りよさんだったんです、刺したのは」


「りよさんって、たしか村の…?」

 恭一朗が聞き返すと、祥吾が横から口を挟んだ。

「みさちゃんにぶつかって来て刺したのは、若い娘でした。捕まえようとしたんですが逃げられてしまって…」


「何かの間違いなんです。りよさんがこんなこと…」


 そういうと、みさ緒はまた泣き出した。


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