第18話

 恭一朗が倒れたと屋敷に連絡が入ったのは、昼過ぎのことだった。


 冴島商会の海外との貿易の案件で奔走していた恭一朗は、深夜に帰宅し早朝に出かけるという生活を一か月近く送っていたのだ。


 昨日の夕方になって、ようやく取引条件が合意に至り、今日の午前中に契約を交わすことになっていた。

 契約書に署名した後の細かい事務は部下に任せて、久しぶりに早く帰宅しようとしていたときに高熱で倒れたとの知らせだった。


 横浜港は日本が発展するのに呼応して貿易取扱量も増大し、西洋諸国との間で人の往来が激増した。それに伴って様々な病気が国内に入り込み、感染症の流行はたびたび起きていた。


 恭一朗の高熱も流行性感冒インフルエンザかと心配されたが医師の診察では疲れによるものらしい。


 流行性感冒インフルエンザは、過去「お染風邪そめかぜ」と世間で俗称された大流行時に、著名な政治家三条某をはじめ多くの犠牲者を出していた。


 頑健な恭一朗だが、さすがにこの一か月の猛烈ぶりは体にこたえたようだ。充分に休養して、しばらく安静にしていれば良くなるでしょうとの医師の言葉に一同ほっとしていた。



「きよさん。恭一朗さま、大丈夫でしょうか?」

 みさ緒が心配そうな顔で聞いた。


「ごゆっくりお休みになれば回復するでしょうというお医者様の診立てですから大丈夫ですよ。先ほどお部屋に参りましたら、『倒れたなんて大げさなんだよ。少しふらついただけなんだ』って苦笑いされていらっしゃいました。ですが、やっぱりお疲れのご様子ですから、しかり休養を取っていただかないと……」


「そうですよね……。でも、よかった。大事おおごとにならなくて。本当によかった……」


「お熱が下がるまでは、しばらく静かに寝ていていただかなくちゃなりませんね。食欲がおありのようなら、あとで何か召し上がれるものをお持ちしようと思っています」


「あ、じゃそれは私が……」


「いえ、恭一朗様の熱が下がって病状が落ち着かれるまでは、みさ緒様も恭一朗様のお部屋には入らない方がよろしいと思います。万が一ってことがございますから……」


「……わかりました」


「一日、二日で落ち着かれると思いますよ。お若いですから」

 きよは、みさ緒を安心させるようにそう言うと、恭一朗の部屋に入って行った。




 みさ緒は寝返りばかり打って、ため息をついていた。

 なかなか寝つけない。


 昨日も今日もきよに止められて恭一朗の様子を見に行くことはできなかった。


 恭一朗が冴島商会の支配人として仕事に忙殺ぼうさつされていることは、みさ緒もよく知っている。この屋敷に来た当初、恭一朗と話をする時間がなかなか取れないことに驚いたものだ。支配人である恭一朗の決断や指示、判断が必要な事柄が次から次へと押し寄せているのだろう。


 だが、その激務を恭一朗は涼しい顔でこなしている、と思い込んでいただけに、恭一朗が倒れたことは衝撃だった。


 きよは、『若いからすぐに治りますよ』と言っていたが心配でならない。



 眠れないまま、どれほど時間が経っただろう。


「ガタン」


 大きな音がした。恭一朗の部屋からのようだ。


 みさ緒は慌てて起き上がると恭一朗の部屋に向かった。また具合が悪くなったのかも知れない。この時間だと使用人はみな自分たちの部屋で寝てしまっている。


「恭一朗さま、みさ緒です。どうされました?」


 声をかけて恭一朗の部屋の扉を開けると、恭一朗が起き上がっていて驚いた顔でみさ緒を見た。


「あ、みさ緒。ごめん。起こしてしまったか」


「いえ、ちょうど目が開いていて……」

 言葉が続かなかった。

 恭一朗のやつれた顔に胸が詰まった。


「熱も下がったみたいだから、一度着替えようと思ってね」


 寝汗がひどかったのだろう。


「あの、起き上がったりして…大丈夫なんですか?」


「大丈夫だよ」

 笑いながらそう言うと、みさ緒はもう部屋に戻っていいよと続けた。


「あの、着替えるならお湯と手拭いをお持ちします」


「いいよ、自分でするから。そんなことみさ緒にさせられないよ」


 そう言われたが、みさ緒は聞こえないふりをして下に降りて行った。



 恭一朗は湯と手拭いを受け取ると

「みさ緒、ありがとう。悪かったね。おやすみ。もういいよ。後は自分でする」


「……」


「どうした?」


「あ、あの…背中は、お拭きします。手が届かないと思いますので……」


「ああ、いいよ。大丈夫だから」


「でも…私、何のお役にも立っていなくて……。せめてこんな時ぐらいは何かさせてください」


「いいんだよ。みさ緒は元気にこの屋敷にいてくれるだけで。何かしてもらおうなんて思っていない」


「そんなの……いやです」


 恭一朗はしばらく黙っていたが、みさ緒はかたくなに部屋から出て行こうとしない。仕方なく、じゃあ頼む、とベッドに起き上がったまま寝巻の袖を抜いてみさ緒に背中を向けた。



 背中を見た途端、みさ緒は息を呑んだ。


 知っていたはずなのに、まるで心臓をギュッとつかまれたように痛い。


 無数の傷痕が恭一朗の背中一面に広がっている。かなり酷い。釘でひっかいたような、突き刺したような傷痕だった。


 植五の職人が話してくれた十五年前のあの出来事、幼いみさ緒を助けようとして、恭一朗がカラタチの棘で大怪我をしたときにできたものだ。


 腕の傷痕は以前に見ていた。だが、背中の傷は想像していた以上だった。



 傷痕から目をらすことができずにいるうち、みさ緒は自分でも気付かないまま指先で傷痕に触れていた。


 ――『大好きな坊ちゃんに抱かれて、お嬢ちゃんはニコニコしてましたよ。無事で  した』

 ――『坊ちゃんの腕と背中はもう血で真っ赤で……』

 ――『あぁ、この傷? 子供の頃の…勲章…なのかな』

 

 職人と恭一朗の言葉が蘇ってくる。


(これだけの傷を負ってまで私を助けて…)


 みさ緒は恭一朗の背中にそっと両手をえると、その肩に顔を寄せて目を閉じた。


 恭一朗の匂いがする…。このまま時間が止まればいい……。



「…みさ緒?」

 戸惑ったような恭一朗の声にハッと我に返った。


「あっ、私…何を……。ごめんなさい。本当にごめんなさい」


 慌てて離れようとしてみさ緒の足がもつれた。

 危うく床に転ぶところを恭一朗が抱き留めてくれた。


(あ…)


「大丈夫か? みさ緒、ありがとう。もういいよ。後は自分でする。おやすみ」


「あ、あの、いえ。ごめんなさい、私、ぼぅっとしてしまって…。本当にごめんなさい」


 逃げるようにして恭一朗の部屋を出た。




(私、いったい何を……)

 恥ずかしくてたまらない。恭一朗に何と思われただろう。


 恭一朗には今まで二度救われている。村に迎えに来てくれたあの時、坊主頭に襲われて危うく凌辱おかされかけたところを助けてくれた。そして、ずっと昔…幼い頃の私を身を挺して守ってくれたことを知った。


 命の恩人…そう強く意識していたのは確かだ。


 だけど、

(なぜあんなことをしてしまったのか……)

 自分に驚いている。


 あのとき…いつの間にか、恭一朗に触れていた。


 恭一朗がこの世でただ一人の人、のように思えたのはなぜだろう。




 そこまで考えたとき、ふいに巴の顔が浮かんだ。

『子供の頃から恭兄さまのお嫁さんになるって決めているの』

 巴の言葉を思い出して、急に体から力が抜けた。


 明日からどんな顔をして恭一朗に会えばいいのだろうと思うと憂鬱になった。

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