第14話
冴島家の朝は早い。十数人いる使用人が早朝から動き始める。
田舎では灯火を節約するために、日が昇ると起きて働き、日が沈むと休むという生活をしてきたから、みさ緒は早起きが全然苦にならない。
「きよさん、おはようございます!」
みさ緒は恭一朗とバルコニーで話をしたあの夜以来、機嫌がいい。
恭一朗はみさ緒が仕立てた着物を気に入った、と言ってくれた。心を込めて縫った気持ちが伝わったと実感できて、頑張った甲斐があったと高揚した気分になっていた。
「みさ緒様、おはようございます。お早いですね。どうなさいました? 前掛けされて」
「ここでの生活にも大分慣れたので、何かお手伝いさせていただきたいと思って今日は、張り切ってます!」
「まぁ、みさ緒様。そんなお気遣いはご無用ですよ。手は足りております」
「そんな……。きよさん、何か無いでしょうか? 何でもしますから」
「みさ緒様、ありがとうございます。お気遣い嬉しゅうございます。……ですが、みんなそれぞれ持ち場が決まっております。各々の持ち場で、ちゃんと仕事は回っておりますから大丈夫なんですよ」
それに、と言うと、きよはちょっと声を落として続けた。
「正直申しますと、みさ緒様は言ってみれば
そのみさ緒様に自分の持ち場をウロウロされたんじゃ、気が気じゃありませんよ。お怪我でもされたら大変です」
あら、ウロウロだなんて言ってしまってすみません、でも本当に大丈夫ですから、といつものようにケラケラと明るく笑って断られた。
「みさ緒様、お庭にでも出てみたらいかがです?
そう言われてしまってはしょうがない。追い出された格好になってみさ緒は庭に出た。
冴島家の庭は、庭職人の植五にすべてを任せている。今日も庭では植五の
みさ緒はこの庭が大好きだ。
なぜかとても落ち着く。幼かったせいで記憶はほとんどないが、ひょっとしたら二歳までこの屋敷で育ったことが関係しているのかもしれない。
「おはようございます」
みさ緒が挨拶すると
「おはようございます。いい天気でござんすね」
職人は手を止めて挨拶を返すと、慌てて言った。
「あ、お嬢さん。危ないですから、そこの
「怪我?」
「カラタチは、長くて太い
カラタチの枝が積んであるという大きな山は
「なるほど厳重ですね」
感心してみさ緒が言うと
十五年ほど前の大変な出来事以来、厳重にしているのだ、と教えてくれた。
「大変な出来事?」
みさ緒が聞くと、職人が話し始めた。
――――――――――――
その頃、こちらのお屋敷には小さいお嬢ちゃんがいらっしゃって……。お庭が大好きでしょっちゅう
「坊ちゃん、お帰りなさい。今、学校からお帰りで?」
「ただいま」
そう挨拶していると、突然フミさんの大きな悲鳴が聞こえてきたんです。
「危ないっ! 誰かっ!」
切羽詰まった大声にびっくりして振り返ると、小さいお嬢ちゃんが鞠を追いかけて走ってきて、もう今にもカラタチの枝の山に突っ込みそうになっていました。
あんなところに突っ込んだら大怪我です。悪くしたら失明、そうでなくても、お顔に大きな傷でも残ったら一生台無しです。
もう駄目だっ、と思わず目をつぶりました。
すると、まだ近くにいた坊ちゃんが飛び込んでいったんです。鞠とお嬢ちゃんを抱き止めていました。
間一髪、間に合ったんです。
お嬢ちゃんは大好きな坊ちゃんに抱かれてニコニコしてましたよ。無傷でした。
「坊ちゃんっ」
慌てて近寄ると、坊ちゃんの右腕と背中は、もう血で真っ赤で……。
坊ちゃんはお嬢ちゃんとカラタチの間に身を投げ出して盾になったんです。無数の棘が肌を切り裂いて大変なお怪我でした。
フミさんも腰を抜かしてるような塩梅で。
大事な跡取り息子さんに怪我させたとあっちゃタダじゃすみません。あたしら一同覚悟を決めていました。
植五の親方が旦那様のところに謝りに行くとき、事故があった場所の一番近くにいたあたしも一緒に行くと言ったんですが、親方に叱りつけられました。
「ここは、この植五がお引き受けした仕事場だ。ここであったことは全部俺の責任だ。でしゃばるんじゃねぇ!」
って具合です。
旦那様の前で、親方もフミさんも土下座して頭を床に擦り付けて謝ったそうです。謝って済むことじゃないが、どんなお咎めもお受けしますって申し上げて。
すると旦那様が坊ちゃんを呼べと言いなさって……。
「怪我したそうだな?」
「はい。学校の帰り道に無茶なことをして怪我してしまいました。申し訳ありません」
「この二人は、お前が庭で怪我をした、責任は自分たちにあると言っているが?」
「怪我したのは学校の帰り道です」
坊ちゃんはそう言って、庭で怪我したのではないと頑として言い張ったそうです。
すると坊ちゃんをじっと見ていた旦那様が
「そうか……。恭一朗、傷の手当はちゃんとしてもらえよ」
そう言うと、土下座している二人に向かって
「聞いたとおりだ。恭一朗は庭で怪我したんじゃないと言っている。帰り道の怪我なら本人の責任だ。植五の親方、フミ、これからも励んでくれ」
そうおっしゃったそうでして……。
戻ってきた時、親方は目が真っ赤でしたよ。
これからは今まで以上に、命懸けでこのお庭の手入れをさせていただかなくちゃならねぇってね。
旦那様が腹の大きな胆の据わったお人だってことは知っておりましたが、一人息子さんの怪我にそんなお裁きされるとは驚きました。
坊ちゃんは、ご自分のしたことで誰かに責任を取らせることになるのを嫌われたんじゃないか、ってことでした。憶測ですが……。
旦那様は、そんな坊ちゃんのお気持ちを察したんでしょうねぇ。
本家筋のご機嫌取りで、旦那様の次は本家から社長を出すべきだ、なんて言ってる
―――――――――――――
話し終えると、植五の職人はちょっと鼻をすすり上げて、この話になると今でも胸にぐっとくるものがありまして、長話になってすみません、と仕事に戻っていった。
最後まで、みさ緒があのときの女の子だとは気付いていない様子だった。
話の途中でみさ緒は思わず声を上げそうになった。心臓は今も早鐘のように鳴っている。
十五年前と言えば恭一朗は確か十二歳のはずだ。みさ緒は二歳……。
恭一朗が負ったという怪我の傷痕は、先夜目にしたばかりだ。確かに酷いものだった。着物の袖から見えたのは腕の傷痕だったが、背中にもあのような傷痕が広がっているらしい。
あの夜、恭一朗が傷の原因を語らなかったのは、みさ緒を思いやってのことだったのだろうか……。
『お嬢ちゃんは大好きな坊ちゃんに抱かれてニコニコしてましたよ。無傷でした』
『坊ちゃんの右腕と背中は、もう血で真っ赤で……』
『あぁ、これ? この傷は……子供の頃の……勲章なのかな』
みさ緒の頭の中で二人の言葉がグルグルと回っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます