第10話

 祥吾は、今は冴島商会の仕事の大半は恭一朗が支配人として仕切っているとも説明してくれた。


「恭兄さんも大したもんだよ。本当に尊敬しているんだ」

 あの偉大な琢磨の跡を継いでいるのに全然ひるむところがないという。恭一朗の商売についての鋭さは、琢磨譲りだなどと熱心に語っている。かなりの恭一朗信奉者のようだ。

 なるほど、冴島商会の仕事がそういうことなら、この豪壮な建物も、普段の生活から西洋風なのも納得できる。

 みさ緒は、ふと、さっきの恭一朗と祥吾の会話を思い出した。琢磨はほとんど横浜の別宅に居るといっていた。

「伯父様が、もう一線から退かれるなんて早すぎるような気もしますけど?」

 まだ若々しくお見受けしたので、とみさ緒は軽い気持ちでつい口にした。すると、祥吾は今までの快活な口ぶりとは打って変わって、急に曖昧な返事になった。


「どうなんだろう……。  あ、そうだ。僕、久しぶりに会ったみさちゃんが、あんまり綺麗だったから嬉しくなった」

 慌てて話題を変えると、赤面するようなことを言い出した。

 

 そう聞いても、みさ緒にしてみれば

(何のこと?)

 でしかない。今まで、誰からもそんな風に言われたことはなかったし、みさ緒にとっては自分の容姿がある意味、やっかいものでもあったのだ。

 自分が西洋風の顔立ちをしているせいで誰にも相手にされない、独りぼっち、と子供心に感じていた。そのことを素直に話すと、祥吾は驚いた顔になって言った。


「そうか。それでさっきミシャって呼ばれるのを嫌がったんだね……。なんか、ごめん。でも、みさちゃん、すごく綺麗だよ。これは本当だから。自分じゃ気付いてないかもしれないけれど。僕、太鼓判を押す。銀座を歩けば誰もが振り返るんじゃないかな。巴もかなりな美人だけど、みさちゃんに比べると、いささか旗色悪いかな。巴をけなしているわけじゃないんだけどさ」

 

 銀座も巴さんのことも知らないし、私が美人だなんて、正直祥吾さんはどうかしているんじゃないかしら、と思う。でも、フミ以外にこんなに褒めてもらったのは初めてだった。これも身内のなせる魔法なのかも、とみさ緒は思った。




 それにしても、恭一朗の忙しさは想像以上だった。みさ緒が冴島家に来た翌日以来、ほとんどまともに顔を合わせていない。

 あの日、恭一朗は、みさ緒が恭一朗の父である琢磨に面会して挨拶したときに同席し、その後に甘いお菓子で傷心のみさ緒を慰めてくれたのだったが、その後は親しく言葉を交わす時間もなかった。

 恭一朗は、この屋敷にいるときには常に来客があったし、そうでなければ冴島商会の仕事で出かけていた。政府の役人や軍との打ち合わせ、横浜の港に出かけて船の運航状況や積み荷の確認、あるいは欧米の会社との商談に臨んでいるらしかった。


 祥吾から聞かされたところによると、恭一朗は帝国大学の卒業生であり、銀時計を授与されているという。この銀時計は首席であることに加えて、その人格が認められた学生にのみ贈られる名誉だそうで、ここでも祥吾は恭一朗の信奉者らしく熱弁をふるってくれた。憧れの恭一朗の後を追って自分も帝国大学に入学した、ということらしい。

 

 結局、みさ緒が恭一朗と話すことができたのは、あのお菓子の日から十日以上経ってからのことだった。


(冴島商会の支配人とは、なんて忙しいのだろう……)

 思わずため息がでる。

 

 それでも、忙しい恭一朗と話がしたかったのには理由があった。フミが残してくれた通帳のことだ。今は、冴島家で一切合切いっさいがっさい面倒をみてくれているから、みさ緒の暮らしにお金は要らない。ただ、住職の言葉が気にかかっていた。


『つましい暮らしの中で、フミさんがどうやってこの金を貯めたものか……。フミさんの言う迎えとやらに関係があるのかもしれんが……』


(この通帳のお金が冴島家と関係あるのなら、どうしたらいいか恭一朗さまに相談してみよう)

 とみさ緒は考えたのだった。出処の判らないお金をいつまでも持っているのは、どこか気持ち悪い。



 みさ緒の話を黙って聞いていた恭一朗は、それはおそらく冴島から出た金だろうと言った。

 フミは年に一度外出しただろう、と聞く。

「そう言えば、昔お世話になった方のお墓参りに行く、と言って出かけていました」

「ここに来ていたんだよ。みさ緒の成長ぶりなんかを知らせてくれていた」

 そのときに、琢磨が二人の生活のための資金を渡していたのだという。

「フミは、みさ緒のために貯めていたんだね」

 生活はどうしていたのかと聞く。

「おばあちゃんは、仕立物が得意だったので、近くの町にある呉服屋さんの縫物を引き受けていました。他には、その町で大きな宴席があるときに台所の手伝いに出たりしていました。『フミさんがいると段取りよく回るから助かる』って重宝がられていたみたいです。それから、裏の庭で野菜も作っていたから」

 質素かもしれないけど食べることに困りはしなかった、と答えた。


「そうか……。フミはこの家で女中頭をしていたからね。それは役に立っただろう。フミらしい……」

 恭一朗は懐かしそうにそう言った。


 通帳の金については冴島の家に返す必要はない、と言った上で

「そのお金はフミがみさ緒のために残したのだから、みさ緒が持っていればいい。といっても、みさ緒は冴島家の家族なんだから普段の生活にお金は必要ないだろう。食事はもちろん、着るものでも何でも、みさ緒の入用いりようは冴島家がすべてみるのは当然のことだ。みさ緒が自分でお金を支払う場面などないよ。その通帳のお金は、みさ緒が絶体絶命の時、自分自身のために使うといい。だから大事に持っておくことだね。その時は、私たちに遠慮など要らない」

 もっとも、絶体絶命なんてあったら大変だ、と恭一朗は笑って言った。

 

 恭一朗に礼を言って、みさ緒は支配人室から退出した。恭一朗は来客前の時間を、みさ緒の話を聞くために空けてくれたのだった。

 恭一朗さまに相談して良かった……。みさ緒の中で恭一朗は兄のような存在になりつつあった。



 

 

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