第9話
「みさ緒ちゃん、よく来たね。祥吾です、みさ緒ちゃんの従兄の」
「みさ緒です。初め……まして」
「えーっ!初めましてって……。みさ緒ちゃん、覚えてないの? ひどいなぁ。小さい頃、よく僕の後をついて歩いてたのに。全然何も?」
恭一朗は、隣でクスクス笑っている。
「もしかしたら、覚えてないのは僕のことだけ? 恭兄さんのことは? 僕のことだけ忘れてる、ってことはないよね?」
「安心しろ、祥吾。みさ緒は僕のことも、父さんのことも覚えてなかった。この屋敷のこともね」
「恭一朗さま」
みさ緒は、それ以上言いつけないでください、と懇願するようにちらと恭一朗を見ると
「ごめんなさい。先ほど伯父さまにもそういわれました。『覚えてないのか』って」
「いや、琢磨おじさんや恭兄さんのことはともかく、僕らはよく一緒にいたんだよね。年も近いし。四つ違いなんだよ。そうだ、僕、みさ緒ちゃんのことをミシャとかミーシャって呼んでたんだけど、それも覚えてない?」
「……」
「ま、いいや。その内思い出すよ」
祥吾はそれ以上詰めるのをやめた。これからみさ緒とは、頻繁に会えるのだ。
「それはそうと、恭兄さん、琢磨おじさんがいらっしゃってるならご挨拶しようかな」
「あいにく父さんは、もう横浜に戻ったよ」
「そうなんですか。残念だなぁ。最近は滅多にこちらに来ないでしょ。久しぶりにお目にかかれると思ってたのに……」
「悪いな。僕もこれから出かけるけど、ゆっくりしていってくれ。みさ緒の相手をしてあげて」
「はい。行ってらっしゃい、恭兄さん。ゆっくりさせてもらいます」
茶目っ気たっぷりにそう言うと、きよさん、僕にもコーヒーください、と声をかけた。
祥吾は明るくてよく笑う。冴島一族なら、上流階級の人たちとの付き合いが多いだろうが、
とはいえ、やはり育ちの良さはにじみ出るもので、どことなく品があった。
みさ緒が見るところ、背が高いのは恭一朗も同じだが、その他はあまり似ているところはないように思う。祥吾は色白で優しい顔立ちをしていた。
「ねぇ、みさ緒ちゃんのこと、昔みたいにミシャって呼んでもいいかな?」
「あ……」
みさ緒の顔が曇った。
「どうしたの? 嫌?」
「嫌っていうか……」
西洋人風なのが抵抗がある、と正直に言った。
「そう。わかった。じゃ、みさちゃんて呼ぼう。いい?」
「はい。嬉しいです」
「じゃ、決まりだ。僕のことは、『祥吾』でいいよ」
「え、そんな言い方できません」
「遠慮は要らないよ。巴、あ、もう一人の従妹、僕の叔母さんの娘なんだけど、巴は僕のこと『祥吾』って呼んでるよ。年下のくせに生意気なんだ」
と笑っている。
結局、祥吾さんと呼びたいとみさ緒が言い張って、決着した。
祥吾は、みさ緒を迎えに行くことになったとき、本当は自分も一緒について行こうとしていたのだと言った。
「でも、学業優先するようにって恭兄さんに言われてしまって……」
残念だったと祥吾が言う。
みさ緒は、今さらながらほっとした。却ってよかった、と思う。
もし、あの坊主頭に襲われているときに祥吾も居合わせていたら、恥ずかしくて、今頃こんなに打ち解けて話すことはできなかっただろう。あの嫌な出来事を、あまり多くの人に知られたくなかった。
どうやら祥吾は気の置けない人らしいとわかって、みさ緒は思い切って聞いてみることにした。
「あの、冴島商会って、どんな仕事をしているんでしょうか?」
「貿易だね。とてつもない規模の卸問屋ってところかな」
西洋、つまり欧米各国と日本の間の取引を繋いで利益を挙げる商社だという。冴島商会は、琢磨の祖父の代に設立されたが、商売をここまで伸ばしたのは琢磨だと言う。今やこの国で何本かの指に数えられるほどの売上げを上げているらしい。
「琢磨おじさんのあだ名知ってる? BULL(ブル)とか鷹、鷹狩りなんて言われてさ。ブルって雄牛のことなんだけど、どっちも襲い掛かられる感じだよね」
さっきお会いした伯父様の雰囲気とは違う、とみさ緒が意外な様子で言うと、商売は競争だから抜いた抜かれたの世界だよ、と事も無げに祥吾が言った。
「僕はすごく尊敬している、琢磨おじさんのこと。共存共栄、といえば聞こえはいいけど、皆が損しないように仲良くやりましょうという考え方の連中もいてさ。そういう連中は、事前に話し合いをしたいわけ。でも琢磨おじさんは、一線を画すというか、何が一番国のためになるかっていうその一点で冴島商会を動かしているから……。それでいて膨大な利益を出すだけの才覚があるから、まぁ
時流に乗っただけなどと言う者もいるらしいが、世の中の動きを先読みして実行する力はずば抜けている。もちろん法を犯すようなことも一切していない。
悪い噂やあだ名は
なるほどそういうことなら、さっき会った琢磨の、人を圧するようなあの威厳もわかる気がする。厳しい世界を自分の商才をもって命懸けで勝ち抜いてきた人のものだ。鷹だの何だのというあだ名でさえ、人を
みさ緒はひとり納得した。
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