第5話

「……さ緒」

「……みさ緒」

 遠くで誰かが呼んでいる声がする。


「みさ緒」

 今度ははっきりと名前を呼ぶ声が聞こえた。ぼんやりとした視界に誰かが覗き込んでいるのがわかった。


「みさ緒、気が付いたか。大丈夫か?」

 知らない顔が、そう問いかけている。


「いやっ!」

 

 押しのけるようにして跳び起きると、男物の上着がみさ緒の体から滑り落ちた。ぐずぐずに着崩れた着物を隠すように掛けてくれていたらしい。


 見回すと、ここはまだ自分の家だ。どこにも連れて行かれてはいないらしい。みさ緒は慌てて着物の乱れを直して、這うようにしてこの知らない男から離れようとした。

 早く逃げないと、と思うのに体がガクガクしてうまく動けない。


「さっきの男なら、追い払った。大丈夫だよ、もう心配ない。私は、みさ緒を迎えに来た者だよ」

 と、言った。


(うまいこと言って、また新手の人さらいか)と警戒の目を向けていると、その新手の人さらいかもしれない男が続けた。


冴島商会さえじましょうかい冴島恭一朗さえじまきょういちろうといいます。君の従兄にあたる。君のお母さんの名前も知っているよ。弥生さん、だね」


「これで信用してもらえたかな」

 冴島恭一朗が優しい目をして微笑んだ。


(あぁ、本当の迎えが来た。フミおばあちゃんが教えてくれたとおりだった)

 体中の力が抜けて、みさ緒はその場にへたり込んでしまった。


 住職が、フミからの預かりものだと言って渡してくれた封筒には、通帳の他にフミの手紙が入っていた。その手紙には、住職も知らないことが書かれていたのだった。

 

 それは、みさ緒を迎えに来る人物のおおよその輪郭だった。


『誰が迎えに来るか今の時点では判らないので、みさ緒に名前まで伝えることはできない。ただし、迎えに来る人は必ず「冴島家」または「冴島商会」から来たと名乗るから、それ以外の相手には決してついて行ってはいけない』


「怖い思いをしたね。でも、もう大丈夫だ。あの男は何の悪さもできないうちに、私たちに追い払われた。みさ緒は何も心配することはないんだよ」


(何の悪さもできないうちに……。あの坊主頭におもちゃにされる前に救ってくれたってこと、なんですね)

(よかった……)

 みさ緒は激しく泣き出してしまった。

 

 ひとしきり泣いたあと、みさ緒がちんと鼻をかんでいると、


「恭一朗様、戻りました」

 と、もう一人男が入ってきた。

 恭一朗は振り返って男に頷くと、今度はみさ緒に向かって言った。


「ここで他所者よそものが長居していると目立ってしまう。早く出発したほうがいいだろう。準備ができたらすぐに出ようか」


 待っていた迎えなんだから、もう考える必要はない。

 あの日、住職に話を聞いてから、みさ緒はいつ迎えが来てもいいようにと荷物はまとめてあった。

 急いで身の回りのものが入った風呂敷包みを取ってくると、小さな卓の上にあったフミの位牌を大事に胸に抱えて、準備ができましたと恭一朗に言った。


 恭一朗は、先ほど戻ってきた男を小林と呼んで車をこちらに回すようにと言っている。


「さ、乗って」


 みさ緒が生まれて初めての車にぎこちなく乗り込むと、その隣には恭一朗が座った。小林の運転で車が走り出す。いよいよこの村を出て行くのだと思ったとき、住職の顔が浮かんだ。

 

 住職はフミから頼まれた遺言だと言って大事なことをみさ緒に伝えてくれた。それ

なのに挨拶もできないまま去るのかと思うと、自分が恩知らずになったような気がする。みさ緒はどうなったかと、きっと心配するだろう。


 そんなことを考えながら、窓の外に顔を向けてぼんやりと見るともなしにいると、いつの間にか車はもう村の外れ辺りまで来ていた。


「みさ緒、外を見て」


 恭一朗の声にハッとして目をやると、住職が目立たないように木の陰に隠れて立っていた。車がごくゆっくりと近づいて、恭一朗は車の窓を開けて住職に向かって丁寧に頭を下げた。

 住職が合掌してそれに応えると、恭一朗はみさ緒の顔が見えるように、少し体をずらしてくれた。

 もう胸がいっぱいになって何も言えず、涙だらけの顔でみさ緒も頭を下げると、住職は大きく頷いて片手を挙げた。


(幸せを祈っている。元気でな)


 そう言っているようだった。



 車はスピードを上げてどんどん村から遠ざかって行く。後ろを振り返ると村の景色が小さく小さくなって、そして滲んで見えなくなった。村に特別いい思い出があるわけではなかったが、それでもフミとの日々の暮らしは、つつましいが温かだった。


(さよなら)


 心の内でみさ緒は村に別れを告げた。




 ようやく少し落ち着いて、みさ緒が車の中でそっと恭一朗の横顔をうかがうと、恭一朗は整った顔立ちをしていた。


 肌はやや浅黒く、意志の強そうなきっぱりとした目元、すっきりした鼻筋、きりっと引き締まった口。背も高いから、この辺りでは珍しい洋装もよく似合っている。板についている、とでもいうのだろうか。

 「男らしい」とまとめるのも少し違う気がする。精悍せいかんという言葉の方がぴったりかもしれないと思う。

 それでいて、近寄り難いとか、冷たいとか感じさせないのは、恭一朗の目がとても優しい光りをたたえているからだろう。

 みさ緒は、恭一朗のこの優しい目のおかげで自分は落ち着くことができたんだ、と思った。



「あの、これからどこへ?……」

 みさ緒がおずおずと恭一朗に尋ねると、東京にある冴島の家に向かっているという。


(東京……。これから私はどうなるんだろう……)

 また新たな不安に襲われたが、車はもう東京に向かって走り出している。

 これから未知の世界で生きていくことになるのだ。


(それに……)

 すべてはフミがお膳立てしてくれたことだ。

 今はただ、フミが信じた恭一朗を信じることだ、と言い聞かせた。

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