第2話 精製
原材料が少ないので、あっという間に終わった。
水蒸気が冷却され液体となって出てきたが、100mlのビーカーの半分も満たせていない。
蒸留装置を片付けている間に、精油と芳香蒸留水に分離するのを待つ。
ビアンカとウルスラ、社長は庭の四阿でお茶を飲みながら今回の香木を入手した経緯を話している。
装置を片付けるのを手伝っているセシリアとアミルは、工員から葉部や木部での精製もできることを聞いた。
原料が確保しやすいし花部よりも抽出ができるのではないか、と。
だが、落葉や枯れ枝では難しいと言われて落胆する。
あの木は国のものだから、たとえ枝一本でも持ち出しには許可が必要になるのだ。
「やはり挿し木の成長を期待するしかありませんね」
まだまだ先の話になるとアミルが諦念を込めて言うと、セシリアも溜息が出た。
あの挿し木はまだ『2』だ。
植物の成長が数字で見えるセシリアは、それがまだようやく発根したばかりの不安定な状況だということをわかっている。
葉部や木部の精製ができるようになるまでしばらくかかるだろう。
「いっそのこと、社長に買い取ってもらえばいいんじゃないですか、あの建物」
「わあ、社長さん、そんなにお金持ちなんですか?」
「ビアンカさんの頼みなら、借金してでもしてくれますよ、きっと」
「ぞっこんなんですねえ。でも重めだな」
工員とセシリアが笑い出し、アミルも頬を緩める。
軽口たたきながら装置を片し終え、その頃にはビーカーの中は二層に分離していた。
スポイトで上澄み(精油)を慎重に取り出し遮光瓶に移して栓をして、残りの芳香蒸留水も別の瓶に詰め替えた。
ビアンカ達を呼びに行き、テーブルの上に精油の入っている小瓶と芳香蒸留水の瓶を並べて置き、細長く切った試香紙に一滴ずつ精油を垂らす。
「ああ、やっぱりいい香りね」
鼻先で試香紙を振り、ビアンカがうっとりと呟く。
「芳香成分もあまり変質しないようだな」
熱を加えても香りにさほど変化がないことを社長は確認する。
「この香りがこのまま続くかしら」
花の時はあまり変わらなかったが、精油になってからどのように変質するかをウルスラは気にしている。
「冷浸法とは違い、やはり香りは際立っていますね」
蒸した方が青くさいが雑味がないというアミルの言葉に、同じく冷浸法の香りを知っている社長が頷く。
「芳香成分としては、リナロールが多いでしょうね。ゲラニオールとシネオールも含まれていると思います。あとわずかにネロールも」
工員の男性はぶつぶつ言いながらメモに書き込んでいる。
セシリアは難しいことはよくわからないが、とにかくいい匂いなのでスーハースーハーと香りを嗅ぐ。
甘くさっぱりとした芳香は五月の晴れの日に相応しく、屋敷の庭は日常を忘れるような多幸感に包まれた。
残りの落花は有機溶剤法で試してみるために工場に保管されることになった。
明日は日曜日で工場が休みなので、月曜日に精製をすることになったのだ。
「月曜日、仕事休もうかな」
昼食後のお茶をしている時にセシリアはぽつりと言う。
自分の担当している区画は調査も終了しており、あとは維持管理を任されているだけなので一日くらい休んでも差し障りはないと踏んでいる。
差し障りは給料に影響があるくらいだが、お小遣いが少し減るだけだ。
「それなら、僕も。資料収集といえば融通利かせてもらえますので」
アミルはずる休みを決意したようだ。
毎日定時に出勤している行政官とは異なり、調査員は出勤簿で出退勤を管理されている。
学術調査員のアミルなどは、事由を明確にして言伝を頼めば職場に出勤しなくとも出勤扱いになるのだ。
壁面タイル装飾にロスメリッサ(ロースメリーザ)に関する一文もあり、実地調査を名目にするとのことだ。
「私は月曜日はちょっと無理ね。夜には公演があるし、練習しなくちゃならないから」
「では、私が同行します。公演に行く前には帰って来られるはずですから」
社長がメロメロになっているビアンカがいてくれるのが一番だが、だめなら代わりにしっかり者のウルスラがいてくれると別の安心がある。
世知に疎い専門ばか二人だけでは心許ないので、何かあった時に機転をきかせることのできる人がいてくれるのはありがたい。
工場はここから馬車で二時間程のモルビサル山脈の麓のレスタバルにある。
十時に始めると社長が言っていたのでそれに間に合うように逆算して待ち合わせをした。
「楽しみですね、工場見学」
「この時期はまだタンジェリンの圧搾もしていると仰っていたから、時間があればそっちも見学させてもらいましょう」
セシリアとアミルは期待に目を輝かせる。
「あの二人のこと、よろしくね。浮かれてるから心配だわ」
ウルスラにこっそりと耳打ちして、ビアンカは眉を下げた。
「ええ。それより、念のために月曜日の衣装とか決めておきましよう」
もしかしたら、帰って来ても疲れて打ち合わせできないことになるかもしれないので、時間のある時にできる準備をしておきましょうとウルスラは席を立った。
この時には、その杞憂がまさか現実のものになるとは屋敷の誰一人として思ってはいなかった。
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