第二章
第1話 水蒸気蒸留法
イスペリエ国 グレイディアス地方
丘の上に聳える
花は枯れると花びらが一枚ずつ散るのではなく、椿のように花ごと落ちる。
足元に広がる、小指の爪程の白く先端に向かって紅くなる花を拾って籠に入れる作業は数分で終わった。
セシリアはしゃがんでいた体勢から立ち上がり、固まった足の筋肉をほぐすように足踏みした。
以前は一区画満遍なく苔むしていた鷲甕の間は今は清掃され、床石の御影石が等間隔に敷き詰められていたことがそれによって判明した。
昨日は建築学の調査員がここを調べていたが、セシリアとしては学術的なことも興味があるが、走っても転ぶ心配がなくなったことの方が嬉しいので掃除をしてくれたことに感謝をしている。
せっかく右手首の亜脱臼が治ったのに、滑って転んでまた医者の世話になるのは御免だった。
仕事部屋に戻り、棚にあるファイルと瓶を取り出した。
茶色い遮光瓶の中には吸湿紙が入っており、そこに籠に入れた落花を移し替える。
ここは国の所有物で全ての持ち出しは禁止だが、植物の落葉落花は廃棄物になるので種苗などが含まれていなければ建物外に持ち出しても罪には問われない。
念には念を入れて、都の植物学の教授にも事情を説明して持ち出しの許可をもらっている。
落花を集めた瓶はこれで三本になる。
準備に手間取ってこんなに遅くなってしまったが、ようやく今週末に水蒸気蒸留での精製に挑戦する。
同じく興味を持ったビアンカが、後援者の一人である香水工場経営者に話をつけてくれ小型の蒸留装置を貸してもらえることになったのだ。
機材はすでに届いているので、明日の土曜日に作業をすることになっている。
ノックがあった。
執務室はドアがないので壁が叩かれ、返事をするとアミル・レザイーが顔を覗かせた。
「お疲れ様、セシリア」
「お疲れ様です、アミル先生」
アミルは一歩部屋に足を踏み入れるなり、まだ残っている花の香りを大きく吸い込んだ。
「いい香りです」
セシリアは落花を詰めた瓶の蓋をぽんぽんと叩いてこれが今季最後です、と残念なお知らせをした。
「明日、ですね?」
「はい。もう設備も整いましたので」
二人は顔を見合わせてにやけた。
アミルもまた、明日の水蒸気蒸留を試みることを楽しみにしているのだ。
「少し早めにお屋敷に向かいます」
セシリアが頷いた時、サン・ホセ教会の十七時を知らせる鐘が鳴り響いた。
セシリアの終業時間である。ちなみにアミルはシエスタを取っているのでまだ勤務が残っている。
慌てて机の上を片付けて、アミルに見送られて元総督府を後にした。
翌日の土曜日、珍しく朝食の席にビアンカがいた。
バレナスという伝統舞踊の最高位の踊り手である彼女は、舞台があるのは夜なのでいつもは昼夜逆転した生活をしている。
だが今日は、支援者である香水工場の社長が来るので彼女も早起きをしているのだ。
朝食を終えたらアミルと、香水工場の社長と工員がやって来た。
庭には前日に持ち込まれた機材が置いてあり、その組み立てをしていく作業をセシリアとアミルも手伝った。
「ほう、これが『ロースメリーザ』ですか」
五十代前半の口髭を蓄えた社長は、落花を集めた瓶の蓋を開けてその香気に目を閉じた。
「この香りで思い出したが、東の大陸の半ばにある国で売っているのを見たことがあったな。宗教儀式用と聞いたので買わなかったんだが」
この花は、ミシュル教徒が礼拝前に身を浄める時に甕などに浮かべる花だ。
売られていたのもその儀式用に抽出された精油だったと社長は言う。
「確か、冷浸法(アンフルラージュ)だったと思うが、やはり原料が豊富にないとその製法は難しいしなあ」
時間もかかるしと言って、口髭を撫でる。
「有機溶剤を使う方法(アブソリュート)もあります。ただそうなると工場でないと」
工員の男性が口を添える。
有機溶剤法と呼ばれるもので、有機溶媒を使用し、芳香分子をワックス状の凝縮物に抽出して、アルコールで揮発させる方法だ。
オイルの抽出率が低い植物の精製に用いられていると、工員は説明した。
「そうだな、では、今日は半分だけ使って様子を見ることにして、もしうまく抽出できなければアブソリュートを検討してみよう」
社長の提案に皆んなで頷いた。
抽出量などを把握するために天秤を使って軽量をしてきっちり半量にしてから、蓋付きの寸胴のような容器の中にロースメリーザの落花を入れて火をつける。
寸胴からは管が伸びていて、冷却槽の中でぐるぐるまきになって通っている。
そこにじょうろで水を注いで、管に流れてきた蒸気を冷却するのだ。
冷却槽を通った管はビーカーに繋がっていて、蒸留されたものが流れてくる。
その水分は時間が経つと、精油と芳香蒸留水(フローラルウォーター)に分離する。
そうなるまでには時間がかかるのだが、火をつけて蒸されて立ち上る蒸気だけでも一同は甘くて爽やかな芳香に魅了されていた。
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