第19話 筋肉

 老舗娼館の一部屋で絶叫が響き渡った。


「よし。これでしばらく安静にしていれば大丈夫です」

 ごま塩頭の医者はポケットからハンカチを出して額の汗を拭い、看護師の女性に患部を固定するように指示を出した。


 セシリアの左足をベッドに押さえつけていたのは女将さん、右足を担当したのはウルスラ、左腕はビアンカ、右腕は看護師だった。


 整復処置が済んだら、セシリアのみならずそれぞれ脱力した。


 医者が処方箋を書いている横で看護師が細心の注意を払いながらセシリアの手首に包帯を巻く。


「亜脱臼なので、しばらくは安静にするように。痛みは一週間くらいは続くでしょう」

「そんなに?」

 一週間もこんなに痛いなんて耐えられそうにもないと訴えると、お転婆は程々にとやんわり受け流された。


「大人しく捕まっているだけでよかったのに余計なことするからでしょう。まったく」

 女将さんは細い腰に手を当てて、鼻息荒く言う。


 旦那さんと会った時に、すでにスエロスを呼びに行っていると告げられていた。

 この時間ならビアンカも在宅しているので一緒に出張ってくるのは自ずと知れたことだった。


「そうよ。あなたは人質を代わるだけでよかったのに、余計なことをするから」

 ビアンカも追い討ちをかける。


 ビアンカが男の気を引き、ナイフがセシリアから離れれば元軍人のスエロスが屋上から狙撃して終わる予定だったのだが、確実に体を離した方が狙いやすいだろうと思い、つい手が出てしまったのだ。


 だが、余計なことと言われてしまえばそれまでだ。


 そのせいで、こんなことになっているのだから。


 包帯を巻き終え、処方箋はウルスラが受け取った。


「痛みが酷いようならもう一度診療所の方へ来てください。では、お大事に」


 医者と看護師は退室し、女将さんも見送りのために一緒に出た。



 『ラ・ヒメナ』の建物の最上階にある部屋には、質の良い紅茶の香りが漂っていた。


 娼館の支配人室は貴族の書斎かと見紛うような豪華で落ち着いた室内だった。


「実のところ、お二人がいてくださって助かりました」

 この娼館の経営者であり総支配人であるゴメスは、寄木細工のテーブルの向かいに座るガルシアとレザイーに告げた。


「騒動があって被害があっても、行政はまともに動いてはくれないものですので。ですが、都の官吏の方と外国語のわかる学者さんの証言は無視できないでしょうからねえ」


 歓楽街での騒動は付きものなので、憲兵もいつものこととあまり捜査をせずに、書類上で済ませてしまうことが多々ある。


 被害があって、訴えたところでまともに話も聞いてもらえないのが実情だ。


「今回は捜索隊も絡んだ事件ですから。こちらの方でも官庁に報告を上げます。もちろん地元の当局にも鋭意で対応するように申し送りします」


 今回、都の官吏が関わったことで、事は公になる。明るみに出ることで、事件を書類上だけのことで済ませるのではなく、損害の請求もしやすくなるのだ。


「それには、先生にもまたご尽力いただくようになりますが」

「僕は構いませんよ」


 フランソル国とイスペリエ国の言葉がわかり、あの場にいたレザイーは貴重な証言者でもある。

 そして、これからの取り調べでもそのスキルに頼ることになるだろう。


「本当にお二人がいてくださって良かった」

 ゴメスは改めて頭を下げた。


 ノックがして、女将さんが入ってきた。

 医者の診察は終わり、見送ってきたとのことだった。


「さっき、すごい声がここまで聞こえたぞ。容体は?」

「亜脱臼ですって。一週間くらいかかるみたい」


 空いている椅子に女将さんも座ると、すぐに紅茶が運ばれてきた。


「まあ、あれくらいで済んでよかったと思いますよ。先生があの時止めに入ってくださらなかったら、あの子はもっと無茶をしていたはずですからねえ」

 女将さんは優雅な手つきで紅茶を一口飲み、ほうっと溜息をついた。


 スエロスが男の手を狙い撃ち、男はナイフを落としたが、レザイーがセシリアを制止しなければ確保までその手でしていただろうと言う。


 レザイーとしては制止という心持ちで彼女を抱き止めたのではなかったのだが、この人達にはそう見えたようだ。


 訂正すべきかと思ったが、ゴメスが話を続けたので言い出せなかった。


「しかし、少しばかり鈍ったんじゃないか? ビアンカのところで甘やかされているのかもな」

「筋肉は大分落ちていましたよ。まあ、この方がいいんでしょうけど」

 ゴメスも女将さんも言葉はきついが、安心しているのが目尻に浮かぶ。


「筋肉、ですか?」

 実際に抱き締めた体は華奢だった。なので、筋肉という不釣り合いな単語に引っかかってしまった。


「セシリアはうちに来た時、腹筋が割れていたんですよ。毎日筋トレは欠かさなかったって言ってました」

 その当時を振り返り、女将さんは呆れたように懐かしむように小さく笑った。


 海賊船でのことは昨日セシリアから聞いて知っていたので、ガルシア程は驚かなかったが、上陸してからもトレーニングを続けていたとは。


「女衒にやめろと言われたそうなんですが、道中で盗賊に襲われましてね。でも、あの子達で撃退できたそうで、それから何も言われなくなったそうなんですよ」


 それで助けられた女衒も、それ以降は彼女達のことに口出しできなくなってしまった。


 それから少女達の買取先が見つかる度に、あの時はありがとうと感謝をされたそうだ。


 娼婦に向かないと言われたのは、どうやら性格の問題だけではなかったようだ。

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