よくできた話


 *


(普通の料理くらいはできても、ケーキの作り方なんて分からないぞ?)


愛結がいない間に、チョコレートケーキの準備を進める辰実。パンの作り方なら愛結から教わり、ある程度はできるようになったのだが未だ焼き菓子なんてものは作れるに至らない。店主から簡単だと言われて作ってみているものの、そもそもやり方が合っているのかという疑問に行き着く訳であった。


彼は今、炊飯器の前にいる。


(普通は30分くらいで焼けるものだろう?)


パンを焼くオーブンは家にあるのだが、店主はそれでなく炊飯器だと言うのだ。素直に従って混ぜた生地を炊飯器に流し込み、スイッチを押して1時間。双子の赤ちゃんが泣いて何かを求めるのにも対応しつつ、時間を潰しながら待っているのだが一向に完成の気配がしない。


(焼けはしているんだろう、待ってみなければ分からないな。)


一度気になって蓋を開けてみると、ドロドロだった生地が溶岩みたいにゴポゴポ声を上げている。安心して蓋を閉め、未だ真偽を疑ってしまう店主の言葉を嘘ではないと飲み込みながらも、辰実はリビングのソファーで横になった。この2時間は察してくれたのか双子も泣いたりせず、静かに寝て過ごしてくれたのである。


(そう言えば義父さんってどういう人だったんだ?)

(貴方と違って、おしゃべりな人よ。殆ど無かった休みの日はいつも「世界ではこんな事が起こってる」とか、仕事の合間に立ち寄ったお店の話をしてくれた。)

(大人でもためになりそうな話じゃないか、俺も聞きたかったな。)


愛結がどうして聡明な女性になったのか?…数少ない記憶の中にも、確実に父の姿はあった。


 *


「デザートを作ったんだ。」


家事は夫婦でなるべく折半している。愛結が食事を用意する事があれば、辰実が食事を用意する事だってある。愛結からすればこの日、辰実が夕食後のデザートを用意していたのは珍しい事であった。


取り立てて飾りの無い、誰が見ても「チョコケーキだ」と分かるその一切れにはちょこんとホイップクリームが添えられている。明度の低いチョコレートの色合いとの対比が美しい。


「ありがとう。」


チョコケーキ好きー、と愛結は大人の丁重さを削って喜ぶ。冷蔵庫で温度を下げたアールグレイをグラスに注げば、どこにでもある家のどこにでもある夫婦の時間に彩度が重ねられたような気になる。


「この前、パパと行ったバーの話をしたじゃない?」

「ああ」

「そのとき食べたチョコレートケーキの事が思い出せなくて、最近ずっと引っ掛かってる。」


引っ掛かっているのは、その時食べたチョコレートケーキの事だけでは無かった。それでも言葉に出さずにいた所で双子の娘がぐずり始めたのは辰実にとって運が良い。2人ともが母乳を欲しがっている間に言葉を探す時間ができる。ようやくダイニングテーブルに愛結が戻ってきたところで夫婦の会話が続く。


「記憶は憶えてなくても、味覚はもしかすると憶えているんじゃないかな?」

「そうだったらいいのにね。」


ケーキを食べるために用意したフォークは銀色。はっきりと光って見えた思い出の話ではない、そこにあるのに本当は大切な事だったのが言わずとも分かっているからこそ、思い出せない事に少しの引っ掛かりを感じているのだ。



「こんな事になるんだったら、もっとパパとの時間を大切にしておけば良かった。」



愛結が何とか覚えてくれていた小さい時の思い出と、バーの店主が覚えていた内容が合致していればこの一口で奇跡が起こる。100%か0%かの極端な確率を確かめるために愛結を思わず急かそうとしてしまうが、アールグレイを口にして彼女の一口目を待つ。水で薄めた分、先日より飲みやすく口を乾かさなかった。


ようやっと待った一口目。フォークで食べやすい大きさにケーキを切った愛結は、ゆっくり口に運ぶ。しっとりとした食感に併せて、ビターチョコのほろ苦い風味が舌に拡がっていく。勿体ぶるように冷蔵庫でケーキを待たせていたのは、このチョコレートの味と生地のしっとり感を強くするためだと理解するのは、焼き菓子もパンも作り慣れた愛結には容易な事。



「本当に…、大切にしておけば良かった…。」


ケーキの3分の1を口にし、ようやくチョコレートの苦みも甘みも馴染んできたであろう頃合いで、愛結の声が震えて湿った。それまで静かに食後を過ごしていた愛結は突然涙を流す。頭で思い出せなかった事、抜け落ちていた思い出の部分が味覚を切欠に埋まっていく。


我儘を言って父を困らせた事への後悔よりも、その時そう遠くないうちにいなくなってしまう父との思いでを忘れてしまった事に対しての後悔を一口一口と愛結は噛み締める。


「辰実はもしかして知ってたの?」

「君が話していたチョコレートケーキの事なら、サッパリ分からん。…俺はただ、チョコレートケーキの話を聞いて作ってみようと思っただけだ。」


「私がいくら作っても再現できなかったのに、凄いね。」


(そりゃあそうだろうな、あの作り方は俺や店主のオッサンみたいに「ケーキなんてどう焼いたらいいか分からない」の手合いでないとやらないからな。)


心の中でほくそ笑む辰実。愛結の思い出を復元するに至った話は美談でもない、それだけに言う程のものでは無かった。



 *


「そのチョコレートケーキの事を教えて下さい。」

「構いませんよ。…奥様が思い出せなくてお困りなのでしょう?」


そんな所です、と辰実は答える。店主は乾いたグラスを片付けた後、右の人差し指で丸眼鏡を整えた。


「内緒にして頂きたいのですが、あれは私がこっそり作ったものだったんです。…だからメニューにも載っていないんですよ。」


話を聞きながら、辰実は愛結のためにケーキを作ろうとして頓挫した事を思い出す。生地の用意から焼くまで、時間が異様にかかる感覚にハードルの高さを感じた。勿論、一度超えてしまえばどうという事は無い。


「ベーキングパウダー150gにココアパウダー大さじ3杯、グラニュー糖12gと牛乳100cc、ビターチョコ2枚に卵1個。これらを全部混ぜて炊飯器に流し込み、スイッチを入れてしまえばあとは昼寝している間に完成します。時間は結構かかりますが、手順は至って楽でしょう。」


(これなら、俺にも作れそうだ。)


「ありがとうございます。」


感謝の言葉で乾いた口を、カクテルで潤す。氷とともに汗をかいている途中のグラスに注がれた一口は、上品な紅茶の味がする。少なくとも辰実の感覚ではそうだった。


「…そう言えば倉田さんが言ってました。10年以上も前の事なので正確に一言一句を覚えていませんが。」

「何を言っていたんですか?」


「我儘もロクに聞いてやれず仕事ばかりで娘に構ってやれない父の事を、娘は忘れてしまうだろう。けれどもし、そんな娘の事を大切に思ってくれる人がいたなら、その彼が父の事を思い出させてくれる。…みたいな事を言ってました。」


義父は、愛結がどういう性格だったのか分かっていたのだろう。図らずも彼の思惑通りになってしまったものの、辰実はこれを「義理の息子になる男がどういう人物なのか知りたい」という彼の好奇心ではないかと勘繰ってしまう。


「会話をした事はありませんが、初めて義父と話をできたような気がしました。」

「本当に、よくできてます。」


辰実は2杯目のロングアイランドアイスティーを頼む。ふと甘い物が食べたくなって、バニラアイスも一緒に注文すれば、手早く店主は用意してくれた。


「しかし、美味しいですねコレ。しっかり紅茶の味もする。」

「ロングアイランドアイスティーですか。…実はそれ紅茶を使ってないんですよ、なのに紅茶の上品な味がすると言う不思議な話ですよね。」


ウォッカ、ジン、ラム、テキーラ等を使い、紅茶の味を再現したカクテルである。言われなければ紅茶が入っていないのも分からない。


「驚きましたね、でも本当は紅茶の味なんて分からないんです。」

「そうでしたか、実は私もなのですよ。」


辰実が恥ずかしそうに言った途端、店主は大笑いする。


「本当に、よくできてます。」

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あんまり覚えてないの うましか @Pudding_Bugyo

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