10・天球の魔導師  The Responsibility

 サーシャには確信がありました。


 この虹色の空間はアパートのようなもので、自分が今いる場所は各時空間、各世界という部屋を繋ぐ廊下なのではないか、ということをです。

 そして一番問題視していたのは、巨人がどこへ向かっているのかということと、出口となるワープホールに再び巡り会えるかの二点でした。


 巨人の掌の上で、サーシャはあれこれと思考を巡らせました。


 しばらくするとその先にワープホールらしきものが見えました。見間違えようもありません、木の葉状に開いた、紫色にゆらめく外観です。

 すると巨人は右腕を上げて、ワープホールの前で手を開いたのです。サーシャは喜びながらも、冷静さを失いませんでした。


(もしこの穴の先の世界が可能世界かマルチバース的なありようだとすれば、そもそも一つの可能世界から他の可能世界に行くのは因果が断絶しているため不可能……けどもしそれが可能だとしても、他世界との到達関係には限度があるはずだ……。より高く遠くの世界に到達するにはより大きなエネルギーが必要となる。突き飛ばされた程度なら、少なくとも分析的形而上学の範疇で考えれば類似度としては到達距離はハピタブルゾーンからは抜けないだろう……)


 意を決してワープホールを抜けると、そこは森の奥の廃墟でした。ホールは開いたままになっており、閉じる様子はありません。

 穴の虹側を覗いたところ、既に巨人はおらず、どこかへ行ってしまったようでした。


 改めて廃墟を見直すと、埃っぽさ自体はありましたが、建物自体は石木造りの立派なものでした。内部から察するに、洋風の大邸をホテルに改築した趣きがあります。

 部屋は等間隔に幾つにも分かれており、鋳造した金属の部屋番号と鍵がついています。

 恐らく当時はカーペットが敷かれていたであろう軋む床材の廊下を渡り、磨いた大理石が隙間なく並ぶ、緩やかなカーブをえがいた左右対称の階段を降りてメインフロアに出ると、サーシャが思った通りにフロントデスクの反対側に、部屋の番号が記された鍵が壁に並んでいました。

 閉じられた正面玄関の隙間からは外のつる植物が入り込み、枯れ果てた観葉植物を押しやって鬱蒼と生い茂っています。

 フロントの天井一面は明かり取りの窓が半球状に設けられ、温室のようになっています。降り注ぐ柔らかな陽光がまるで沐浴でもしてるように暖かくフロア全体を照らしていました。

 廃墟になる前まで毎朝利用されていただろう新聞ラックに手を伸ばし、新聞の日付を見ると、二千三十七年六月十五日と記されています。

 サーシャは鍵を取り、何かめぼしいものでもないかと宿屋中を歩き回りました。


   *


 客室や地下を調べると昔の物が幾つも残っていました。食べ物は缶詰方式のものが幾つかありました。水もペットボトル方式のものが同じく。ついでに客が残したのであろう釣具とバケツも。

 早速サーシャはフロアの中央でジュラルミンケースを取り出し、多次元パターン分析装置とドローンを接続、起動しました。

 この装置はドローンが撮影した風景から、人間の文化習俗の情報の山という複雑な多次元構造の中にある繰り返しパターン……すなわち単一の「構造」が、何によってどのように構築されているか読み取り、分析するものです。

 この装置は脱構築主義科学が高度に発達した二十二世紀では学者なら必須と言って良いほど重要なデバイスでした。

 サーシャは客室の割れた窓からドローンを外に飛ばし、分析結果が出るのを待ちました。

 電気は通じていませんでしたが、携帯式の太陽光発電機があったため当面はしのげそうでした。


 暇つぶしに再びホールがある二〇二号室に向かったサーシャは、虹色の海に黒い液体が浮かんでいるのを発見し、これをバケツとロープで掬い上げました。


 装置の場所へ戻ると、既に幾つかの分析結果が出ていました。

 ですが、おおまかな内容は昔読んだ歴史の教科書と同じでした。

 この国はかつて隣国と旧連邦共和国の関係に長い時代あり、脱退後はこの国が西の旧経済圏に加盟したこと、それに反発した近隣の大国がミサイル攻撃を行ない、世界はあくまでもこれを正体不明の誤射だと認識し、引き続き旧軍事同盟にも加入をした結果……そこまで読んだあたりで、分析装置が黒い液体にも反応を示しました。

 しかし妙なことに、黒い液体について記されたデータは不規則で異常な部分が幾つも含まれていました。誤作動を疑いましたが、そもそもが異質な液体です。何か分かるかもしれないとサーシャは考え、分析結果が最後まで出るまで待つことにしました。


   *


 ワープホールで暇つぶしに釣りをしていたサーシャは、そろそろ結果が出たかな、と思いフロアに戻りました。

 そこでは思ったとおりに丁度、機械が分析を終えたところでした。


 サーシャが装置の分析データを解読のためにバイナリ化したところ、規則性があるノイズが含まれていることがわかりました。

 これはステガノグラフィー、即ち隠匿された暗号なのではないかと考え、ノイズ部分を抽出し再度装置に掛けました。これを画像変換すると文字列になりました。もちろんそのまま書いてある訳ではなくその文字列自体も暗号化してありましたが、これは比較的単純で、装置だけでも総当たりで解けました。そうして得られたこの文字列の内容が復号規則のパターン表……つまり暗号鍵です。


 鍵はキリル文字にラテン文字、漢字にアラビア文字からアムハラ文字、ヒンディー文字に西夏文字などなどなど……ですが、これには規則性は見出せませんでした。

 ノイズを含んだ結果データと、ノイズ以外の部分データも調べてみましたが、いずれも記号との関連性はありません。


 そこで今度はバケツの黒い液体に小型のテスターで電気を流したところ、液体が複雑なパターンで発光しました。


 分析をしてみると、表面に六進法の規則的な記号の羅列が観測できました。

 このデータも同じくバイナリ化し特徴分析を行なうと、恐らく他の部分とは規則性が異なるバイナリデータが検出されました。これの正体は埋め込みビットであり、これを発光パターンに再変換します。

 そしてノイズを取り除いた発光パターンの高波長域部分を鍵に従って抽出してバイナリ化、これをまた鍵に従って先ほどの発光データと重ねると、字の書かれた低解像度の荒い画像データが得られました。

 サーシャの手はそこで止まりました。


 読めないのです。


 見たことのない、どの言語体系とも異なる、おそらく五文字だと思われるこの一単語が、サーシャの知識では読めなかったのです。それはサーシャだけでなく、これまで用いてきたデバイスにも登録のない文字に、サーシャは打ちひしがれてしまいました。

 手持ちの観察キットでわかったのはここまでです。


 サーシャはしばらく考え込みましたが、これ以上どうすればいいか考えつきませんでした。

 完全などん詰まりです。


 喉が渇いたサーシャは無意識に手元のコップの中身を口にしました。

「⁉︎」

 とてつもなく酷い味にサーシャは思わず盛大に吹き出し、激しくむせてしまいました。

 そうです。水の入ったコップと、黒い液体が入ったコップを間違えてしまったのです。

 砂を噛んだような食感に、滞留して膿んだ空気のような臭い……言霊の死骸でしたから、その味の酷さは当然のものと言えました。

 むせた時の反動で、頭に付けていたカチューシャ型の心的現実安定化装置が外れ落ちてしまいました。

 そこでサーシャはあることに気づきます。


 謎だった文字列がラテン文字の一単語に書き換わったのです。


 『安らかに』


 その時です、サーシャは全てのパーツが組み合う感覚を頭に覚えました。

 心的現実安定化装置は脳内の概念を切り出して人工的に加工し、新たに書き込む仕組みです。それは元いた世界では必須の仕組みでありましたが、いわば「異常であることが正常」なこの世界では、逆に混乱を招く物となってしまっていたのです。

 画像の文字列は、装置によって「意味不明なものに見せられていた」というわけです。


 しばらく考えた後にこれが何であるか、サーシャの中で答えが出ました。


 それは心の遺伝子(くさり)でした。


 サーシャは両手を組み合わせて祈ります。

 神にではありません。

 この死せる言霊に対してです。


 どうか安らかに……


 サーシャはそう心で呟きました。


 その瞬間です。

 突如黒い液体が形を成してことだまの死体が現れると、死骸のお腹が膨らんで二つに割れるや、中から大量の紙のページが現れ、ことだまの死体が平たく潰れて四角く伸び、表紙と裏表紙になって一冊の本が出来ました。

 宙に浮く分厚く重い本に、サーシャは警戒しましたが、他にすべきこともなかったので手に取ってみました。

 恐る恐る開くと、そこにはこの世界で既に失われていた「魔法」の使い方が綿密に書き込まれていました。

 サーシャにはその字が読めました。文字自体は意味不明です。しかしながら、字を目で見ていると、内容が心に直接伝わってくるのです。

 それはコミュニケーションの本源でした。言葉は想いを伝える記号の羅列です。本自体が、魔法によって、記号を通さずにサーシャの心に語りかけているのです。

 サーシャは、もはや記号の助けを必要としませんでした。

 ことだまと、互いに心を開きあっているからです。

 サーシャがこの世界では忘れ去られた魔法技術の復活に成功したのは、そう遠くない時間のうちに達成されました。


 そして、魔法を使って宿屋を清掃改築したサーシャは自らを天球と名付け、疎外され社会的に弱者となった女性を受け入れるシェルター、「園」を経営し始めたのでした。


   *


 ケンたちが気がつくとそこは列車の中でした。列車と言っても客車ではなく、無機質な金属板で四方を囲まれ、開閉できる扉が前後にあるコンテナ貨車です。


 扉を開け、列車の連結部から外の様子がうかがえましたが、一面灰色の地平線が広がる以外には何も見えませんでした。ここはニュクストルが作り出した高次元領域の空間である「回廊」と呼ばれる場所です。


 同乗しているのはケンとハル、それと娘のレナ、もとい、見習い魔女のカーランフィルの三人でした。

 列車は線路もなしに、この灰色の空間を突き進んでいました。

 その列車の何万と連なる貨車に──結界内にいた数十万人の難民と破壊されずに残った機械たちも一緒です──は乗っていました。一体この列車は何両あるのか、想像もつきません。


 ニュクストルは思念伝達の魔法で貨車に乗る全ての人々へ語りかけました


「もはや事態は一刻を争う状況です!」

「私たちは遂に、あらゆる手段をもって戦うべき時がきたのです!」

「武器を取り、戦いましょう!」

「敵の魔女は卑劣で臆病な悪人です!」

「その魔女から家族を、大切な仲間を守らなければいけません!」

「拉致された人々を救出しなければいけません!」

「私自身も武器を取って戦います!」

「これは最終決戦です! 今こそ力を合わせ、あの忌まわしい魔女に、正義の鉄槌を下しましょう!」

「私たちが鋼の津波となれば、必ず魔女に勝利できるのです!」


 貨車に乗る住人たちは大歓声を上げ、ニュクストルを賛美し、魔女への憎悪を改めて滾らせました。


 その一方です。ケンはこう言いました

「そうだった……魔女は殺さねば! レナ、早く魔女なんてやめるんだ! そうしないとレナ自身が危険だ!」

 レナは反論します。

「魔女はやめない! 私は皆の希望を背負ってるの!」

「希望⁉︎ どういう意味だッ⁉︎」

「ニュクストルが全ての元凶なの! 全部アイツの自作自演で、お父さんは戦わなくていい戦いをさせられてるんだよ!」

 二人の口論に、ハルは隅で怯えたままです。人が砲弾でバラバラになる瞬間を見て以降、もはやハルには何かに反応する気力など微塵も残っていませんでした。

 ですが突然、ハルは何かを思い出したかのように大慌てで立ち上がり、貨車の扉を開けて別の車両へ、そのまた別の車両へと走り抜けながら移動してしまいました。


 その時です。なんと突如として天球の魔導師がケンたちの乗る貨車に姿を現したのです。

 つばの大きい黒い三角帽子に、黒のマントで全身を包んだ姿は、まさに万人が思い浮かべるであろう典型的な魔女の姿でした。

「天球様!」

 カーランフィルが歓喜混じりに叫びました。

「天球⁉︎ お前が魔女を率いてる、教祖だな⁉︎」

 ケンが瞬間湯沸かし器のように声を荒げました。

「待って! 違うの天球様は教祖なんかじゃないの! 聞いて!」

「いいや、こいつが女性たちを洗脳して魔女にしているという報告書を確かな筋から得ている!」

「だから全部、逆なんだよ!」

 天球に殴りかかろうとしたケンを娘が止めました

「やめてお父さん!! これ以上何かしようとしたらもう許さない!」

「あ……すまないレナ……けど俺はこいつこそ……」

「けどじゃない! 本当にやめてもらえる⁉︎」

 レナの一言に、ケンは黙り込むしかありませんでした。

「カーランフィル、彼は斜陽によって強力な洗脳を受けているようです。まずはそれを私が解きましょう」

 天球はそういうと、右手を自分の顔の近くに置いて複数種の印をゆっくりと組みながらケンに語り掛けました。

「ケンよ、斜陽の光に照らされた紅き兵士よ」

「ケンよ、紅き血に染められた戦士よ」

「ケンよ、あるべき場所へと帰り給えよ」

「ケンよ、いるべき人のもとへ帰り給えよ」

「ケンよ、黄昏を背に置いて、己の影に道を歩めよ」

「ケンよ、汝に罪はなく、罰はなく、義務はなく」

「ケンよ、汝は非力な匹夫にあらず」

「ケンよ、恐れることなかれ、汝の宝を思い出せ」

「ケンよ、愛する者の元へ帰り給え」


 その瞬間、ケンの目から涙がこぼれ、それまでの記憶を鮮明に思い出し、まるで、今までずっとこもっていた洞窟から抜け出し、初めて陽の光を浴びたかのような気持ちになりました。そして呼び覚まされた記憶はドミノのように次々と繋がり掘り起こされ──

「そうだ……俺は……俺は、無意味な戦争だったと分かってたのに……魔女を殺した……レナの仲間を、俺は……あぁ……」

 ケンは自分の行ないを遂に思い出し、大粒の涙をいくつもこぼしました。


 膝から崩れ落ちて泣くケンの肩をレナは優しく抱きしめました。

 レナもうっすらと涙を浮かべます。

「すまなかった……本当に、本当にすまない……ありがとう、ありがとう、愛してるよ……」

「いいんだよお父さん。もう大丈夫だから」


 天球は言います。

「あなたの父は、他の方々と違って洗脳に耐性があるのか、比較的浅い暗示でしたから、この程度で済みました。よかったですね、カーランフィル」

「ほ、本当にありがとうございます!」


 カーランフィルは心からそう思いました。


「天球……お前はどうして俺を助けてくれたんだ?」

「お初お目にかかります。私の唯一討つべき者はニュクストル……それ以外のものには魔法によって自由意志の救済を届けたいと考えているからです」

「それにあなたには、呪いをかけてしまって大変な目にあわせてしまいましたから……」

「呪い……? あ! お前、あん時の財布の持ち主かよ⁉︎」


 その時です。ハルが出て行った方とは逆側の扉が勢いよく開いたと思ったら、あの男が姿を見せました。

 ジンです。

 なんと彼は数千両は離れていた列車をここに来るまでずっと駆けてきたのです。

「ここにいたかッ!」

 息を荒げてジンが言いました。

「おいケン! こんなとこで道草食ってる場合じゃ……って魔女⁉︎ それも天球じゃねーか!」

「あなたがジンさんですね」

「なぜ俺の名を!」

「お話は色々な方からうかがっておりますから……」

「ふふん、まあ確かに俺は結界の中でもトップクラスの技量を持ってるからな」

「それでそっちのガキはあれだな?俺の戦車をフリザンテマの刀でぶった斬りやがったやつだな?」

「俺の娘だ。レナという名前がある。もう一度でもガキとか抜かしたらお前の汚いケツごとこの車両から蹴り落としてやるからな」

 ケンはジンの振る舞いにイラつきながら言いました。

「チッ 悪かったな。だがそれならこっちこそ俺は愛しい部下を大勢失ってて魔女を許せねえんだ。……ここはまあお互い様といこうか」

「それよりさっきのニュクストル様のメッセージだ。遂に始まるぞ。最終決戦だ。負けそうになるとヤケクソで攻めに出るのは素人の勇み足だが……何か深い作戦があるのかもしれんな……列車の目的地は部隊集結地だろう。時間がねえが仕方ない。到着前にお互い身の振り方をなんとかしなければ」

 ケンもうなずきました。


 ケンは娘にどうするか尋ねました。父さんと一緒に帰るか、ここに残るか──ですがカーランフィルはピシャリと言いました。

「行き先がないのはお父さんの方でしょ」

「俺のことはいい。仲間たちと一緒にいられるのがお前の幸せなら、父さんは他には何も望まないよ。ただ……」

 そう言ってケンは少し口籠もってしまいました。

「? どうしたの」

「……戦いにいくんだろ? お前のあんな姿……思い出しだけで涙が出てくるんだ……どうか無事でいてほしい。ニュクストルは化け物だ。勝てる見込みはあるのか……?」

 ケンは涙をこぼしながら、天球に尋ねました。天球はこれに淡々と、或いは冷静に答えました。

「ええ。何も問題ありません」

「そうか……。……なあ、もし娘になにかあったら、その時は今度こそ貴様を戦車で容赦なく撃ち殺してやるからな、覚悟しろ」

「構いません」


 またしても突然、今度は反対側の扉が開きました。

 ハルです。目は見開かれ、息を荒げています。その右手は十一歳の弟と固く繋がれていました。

 ケンが心配した声で言いました。

「ハル! どうしたんだ、それにその子は……」

「お、弟です! 本当に本当に心配で……」

 ハルはその場で泣きながら弟を抱きしめました。そして顔をあげるや、驚いた声で言いました。

「セレスティアさん⁉︎」

「な、ハル、お前天球と知り合いだったのか⁉︎」

 驚くケン、ジンも話しかけました。

「はぁん、なるほどなあ? こりゃあ驚いたぜ。ハル! お前、天球、もといセレスティアとかいうどエロマブイねーちゃんと同棲してたってことだな⁉︎」

 気色の悪い怒り笑顔を満面にジンが言いました。ハルは引きながら思わず言ってしまいます。

「同棲じゃなくて、お隣です! っていうかどうやってそんなことを……」

「結局ほぼ一緒じゃねーか!ガキが色気付きやがって……俺の情報収集力を舐めるなよ。それよりなんでもない避難民だったセレスティアと、魔女の教祖である天球が同一人物だったとはなぁ……? 一体いつから結界を抜けたのやら……まあいい。おいハル! それにケン! とにかく俺がお前らに言ってやりたいのはな! 得をするのはいつだってお前たちみたいな顔のいい奴だってことだ! 俺を見てみろ。俺はいつまで我慢すればいいんだ? 言ってみろ!」

 ジンはハルに大股で近づきました。そんなジンを大人げないと天球とケンは引き留めました。

「なんだよお前ら!」

 ケンが言います。

「ジン、モテなくて苦しいのは分かる。自分の顔に絶望もするだろう……だけどお前は大人なんだ。大人の役目は何だ? 子どもを守ることだろ⁉︎」

「……それはそうだが……」


 そこで天球は、園で起きたこと、そのあらましを皆に伝えました。


 それを聞き、ケンが話します。

「なるほどな……やっぱりこの戦争には、意味なんてない。俺はもう軍を辞めるよ。ジン、お前もそうしないか?また酒でも飲んで魔女について話そうぜ。俺たちは戦友、仲間、友達だろ?」

「俺は! ……それでもニュクストル様を信じてる。理屈じゃないんだ。この気持ちは」

「……忘れもしねえ。【大断罪】の日だ……魔女どもが暴れ回った、あの悪夢の中で唯一生き残った俺は、あてもなく彷徨っていた。三ヶ月だ。三ヶ月も俺は死臭で埋もれた街々と食べ物のない荒野を孤独に耐えながら歩き回ったんだ。そこをニュクストル様に助けられた……俺は本当に感じたんだ……天使というものを……」

 恍惚とした表情で過去に浸るジンに、天球は言いました。

「ジン、あなたは極度の過労と不安定な精神のせいで、ニュクストルという詐術師の欺瞞に気づく余裕がなかったのです」

「ハルを含め、あなたをはじめとする兵隊や難民は皆強力な洗脳を受けており、それまでの様々な宗教に対する信仰心をニュクストル個人への崇拝へと向かわせているのです」

「そんなことは知ってらあ!」

 ジンが鋭い目つきで反論しました。

「洗脳されている自覚があるのですか?」

「当たり前だ! 洗脳でもしなきゃ、あんなデカい土地に住んでるとんでもない人数の避難民が、一斉にニュクストル様を崇拝なんてしないだろ!」

「仰るとおりです。では、あなたはどうして洗脳されていると知りながら、尚もニュクストルを崇拝するのですか?」

「ニュクストルの目的は、大量のMRCPを自分に集中させることでよりよきものになることです。だからハルのような難民も容赦なく戦闘に参加させますし、避難所でしかない魔女の聖域を最後の戦場に選んだのです。より多くの犠牲者が出るように」

「は、な、バカな、よりよきものってのはお前たち魔女の宗教がでっち上げた神話だろ⁉︎」

「よりよきものは実在します。それは時空間に囚われず、遍在し、MRCPの臨界点に出没するのです」

「それじゃあ、ニュクストル様はよりよきものになってどうするつもりなんだよ」

「元いた世界領域に帰るためです」

「は……?」

「ニュクストルはこことは別の世界領域で二十二世紀に生まれた人間ですが、ワープホールを使ってこちらの側にやってきた科学者です」

「別の世界領域ってなんだよ……さすがに馬鹿にしすぎだろ……誰がそんな話信じるんだ?」

「魔法は信じるのにこれは信じないのですね」

「魔法は目で見てきたからな。だがお前の話は突拍子もなさすぎだ。信じない以前の話でしかない」

「では逆に、ジン、あなたはニュクストルの目的をなんだと思っていますか?」

「そりゃもちろん、魔女を倒して世界を平和にすることだろ」

「しかしあなたは既に気づいていますよね? ニュクストルが軍事的に無意味な判断を下し続けていることを」

「……」

 ジンは、それは確かに否めないという表情をしました。

「ニュクストルについてもう少し込み入った話をしましょうか」

「私たちがいるこの世界は、一つの可能世界の中に、三つの領域があるモデルで説明できます。それが世界領域です」

「世界領域の一つは人の目では見えない形而上世界、そこは道徳の神によって統治されています。二つ目はここ、魔法が出現する半形而上世界、そして最後の三つ目が、ニュクストルがいた形而下世界。無機の王が支配する物理法則の世界です」

「三つの世界があるのではなく、一つの可能世界の中に三つの領域があるのです。だから可能世界と違い、世界間の移動が出来るのです」

「ニュクストルは形而下世界に帰ろうとしています。ですが、それを行なうには大量のMRCPを用いてよりよきものになるしかありません」

「そしてMRCPは高次元領域では被害者からは離れ、加害者の側に集積する特性を持っています」

「だからニュクストルは、戦争の犠牲を厭いませんし、結界の外の難民を放置し続けているのです」

「俺に何を話しても無駄だ。理屈じゃないんだって言ってるだろ」

 そこで静観していた娘のカーランフィルが探るように言いました。

「ジン、あなたもしかして……斜陽……ニュクストルに恋してる……?」

「……」

 ジンは動かず、一言も発しませんでした。ですがしばらくの沈黙が続いて──ジンは小さな声で言いました。

「悪いかよ……」

「え?」

「惚れた女のために戦っちゃ悪いのかよ⁉︎」

 ジンが大声で捲し立てるように言います。

「そうだよ好きだよ大好きさ! あんな可憐な女に命を救われたんだ! 好きにならない方がおかしいだろ⁉︎」

「そんなに好きだったのか⁉︎」一同が驚きます。

「そうだよ‼︎ みんなして俺が好きな女の悪口ばっか言いやがって! 少しは俺の気持ちも考えてみろってんだ‼︎」

「その、なんだ、本当にすまなかった……さっきも酷いことを言って」ケンが謝りました。

「いやいいんだ。いい年こいて一人の女に入れ込んでる俺が馬鹿なだけさ」


 天球がハルに話しかけます。

「ハル」

「え、あ、はい!」

「あなたはどちらにつきますか?仲間を裏切って私と共に魔女の味方になるか、あるいは今まで通りニュクストルの味方につくか」


 冷たい眼差しで、天球はハルに選択を迫りました。

「言い方を変えましょうか? ここで欺瞞と虚飾のために魔女と戦って死ぬか、私と一緒に魔女の側について生き残るか」

「天球、少し待て。ハルにはハルの考え方があるはずだ」ケンとジンが天球を制止します。

「わかりました。確かに性急すぎましたね……。申し訳ありません」

「それに今の聞き方は一方的すぎる。もっと中立な言い方があるだろ?」

「私は事実を述べただけです」

「その事実の言い方が恣意的なんだよ」とジンが言うと、天球は冷徹な声色で言いました。

「では聞きます。今から難民に武器を持たせて戦うニュクストルと、難民を避難所に集めて身一つで戦う魔女たち、一体どちらが信用に値する人々だと思いますか?」


 ジンは目を見開いて、反論する言葉を探しました。しかしいくら考えあぐねいても──虚しいまでに何も思いつきませんでした。


「僕は……」

 ハルが考えます。弟の未来、人間の未来……そして自分の未来を。まだ十六歳の少年が、です。

 少しずつ心拍数が上がり、呼吸が浅くなってくるのを、ハルは感じました。そこにケンが言います。

「ハル。大丈夫だ。お前の経験と勘だけでいい。加速されていない思考で、大人の機嫌もうかがわないで、純粋にお前自身の望みを言うんだ」

「ちょっと待て!」

 ジンが間に入りました。

「なんで天球が今俺たちに催眠術をかけてないって言えるんだよ! ハル、目を覚ませ! いやもちろん俺が言える立場じゃねーけどさ、お前この女に惚れてるだけなんじゃねーのか⁉︎」

「ぼ、僕はそんな……」

 頬を赤くしてハルは否定しました。天球は表情を変えずに言います。

「私は催眠や洗脳を使いません。それは人間の魂に対する著しい侮辱だからです」

「はん、信じられんな」

 ジンが言いましたが天球は気に留めるそぶりも見せず補足するように誰にともなく言います。

「恐らく、ニュクストルはこの先にある【霊殿都市】に総攻撃をしかけるでしょう」

 ジンが反応します。

「霊殿都市……ニュクストル様も言ってたな。拉致された女共が何十億という規模で収容されてる場所だろ」

「いいえ。霊殿都市は私たち魔女の軍事的な中枢ではなく、ニュクストルの手から逃れた人々が暮らしている避難所でしかありません。霊殿都市の一部区画は確かにニュクストルが言うような女性だけの街がありますが、それ以外は人々は自由に好きなところに住んでいます。ニュクストルの造った結界は地上の有限な土地に造られたのでそうはできませんが、霊殿都市は体積が無限ですからそういう土地の使い方ができるのです」

「私たちは今から霊殿都市を守る為にあなたたち鉄鎚騎士団を殺してでも全戦力で止めます。例えハルであろうと、敵になった以上、私は容赦をしません。」


 しばしの沈黙を挟んで、遂にハルは話し始めました。


「……僕の望みは、弟が無事に大人になって、幸せに生きること。そのために僕は生き続けたい。僕は……ニュクストル様の兵隊をやめる」

「よく選んだ。お前は立派なやつだ。ハル、お前は誰よりも偉い」

 ケンはそう耳元で囁きながら、ハルを抱きしめました。

 ジンもケンとハルに言います。

「ありがとうな。こんな俺を最後まで相手してくれて」

「いいよ……それじゃあなジン」

「ジンさん……どうか無事に」

 そして天球が言いました。「各々、答えが出たようで何よりです。それでは行きましょうか。もう時間もありませんので……」


 ジンは思わず涙が出て、目を拭いました。手をどけた時には既に、貨物室の中には自分以外の姿はありませんでした。


 長い列車は緩やかにブレーキをかけ、目的地に着きました。


 難民や兵士がぞろぞろと列車を降りていきます。同じようにジンも列車から降りながら、一人静かに呟きました。

「惚れちまった弱みってやつだな……」

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