9・斜陽の魔女 Collapse of Vorstellung
人物
・ユーヴォ:空間解剖学の第一人者。娘と共に研究を続けている。
・サーシャ:ユーヴォの娘。母の助手をしている優秀な科学者。
博士は行き詰まっていました。
世界中で頻発している災害を、どうやって止めたらいいか皆目見当もつかなかったからです。
その災害の名は【表象融合災害】。
【表象】とは、人間の頭に思い浮かぶイメージのことです。
例えば、人が物を見た時にその物の見た目が脳の中にイメージできるようになります。
表象とはそうした心的イメージを指す哲学用語です。
当然、単なるイメージに過ぎないものである表象は、普通頭から外には出てきません。
この表象が、頭脳を飛び越えて現実の出来事と混ぜ合わさることで起きるのが表象融合災害です。
知覚と表象の両者は通常、実在する現実から虚構である表象へという一方通行の関係でしたが、その自然法則が破られたのは二十二世紀初頭の地球においてでした。
表象融合災害では、人の手足は肉ではなく野菜になり、顔は仮面と同化し、自動車は鉄ではなくプリンででき、干からびた吐瀉物はダイヤより価値があるとされ、夢の中で起きた自然災害は現実に起こり、子供が悪夢として見た宇宙生物の侵略が実際に発生して世界中が対策不能の甚大な被害を受けていました。
随意筋の動作は訓練によってどれだけ自由になっても、神経の感覚は自由になれません。
同じく、肉体は操作できても感性は操作できません。
同様に、思い浮かぶ表象も意識だけでは止められません。なぜなら表象は前意識的な現象だからです。それだというのにイメージは脳から漏れ出し、現実を侵食して日常を食い荒らしていきます。
災害の規模の大きさとコントロールの不可能性、そしていつどこで何が起きるか全く予測がつかないランダム性。
表象融合災害の恐ろしさはそれらにありました。
実際、大西洋のとある島に住んでいた青年が、自分の強烈なめまいを地震の揺れだと勘違いした結果、大西洋と地中海では夜中に巨大な地震を伴った大津波が広範囲に発生し二百六十三万人もの犠牲者が出ました。
またロシア東部やドイツでは数個の隕石が落ちる夢を何者かが見た結果七万人以上の人が死亡する事故も起きました。
ユーヴォ博士の専門分野は【空間解剖学】です。
高次元物理学から分岐した新興学問であり、物質と精神、言語空間、可能世界、環世界、表象世界や空間の構造、世界そのものから世界同士の連関についての謎を学際的に研究することを旨としていました。
二十二世紀初頭時点では世界にまだ六人しか研究者がいない、超新興の──言い換えればアヴァンギャルドな──学術分野です。
*
白を基調とした壁面タイルに無数の付箋が貼り付けられている研究室は、棚から溢れた本が椅子の周りや机の上に石柱のごとく何本もそびえたつように平積みされていました。
物理的隔離された薄暗い実験室には無数の実験器具が並び、水場と隣接してある作業台の周囲を複雑な実験装置が何台も取り囲んでいます。床には水で洗い流す際の滑り止めの細かい凹凸が施された緑色のシートが広がっていました。
長い髪を団子状にまとめ、青いブラウスと黒ズボンに白衣をまとった姿のユーヴォ博士は、息抜きに淹れたコーヒーに沈む砂糖とまだら模様のミルクを、薄く小さいスプーンでかき混ぜながら、改めて思案をめぐらせました。
表象融合災害とは精神世界と物理世界の短絡現象による後者の変質です。
これは脳内の化学変化が周辺環境へ伝播する事でもありました。それは同時に、物質の根本原理は何かという問いと不可避的に衝突する話でもあります。
「感覚質の空間化、量化でもある……」
博士は誰にともなく呟きました。
表象融合災害が示唆するのは、物質が個々の粒子の組み合わせではなく、宇宙をまんべんなく満たす一種類の物質が、局所的に様々な振る舞いをする事で粗密を含めた多様な状態を表現すること、即ち「超弦理論」との関連が可能性として考えられる点です。
もし個々別々の多様な粒子で世界ができているなら、目の前のリンゴと脳内の電気信号は、外部の物質世界から内部の精神世界への知覚の生起という一方通行の関係しか持ち得ません。
(それどころか逆に、意識が物質を操作するなら、自由意志は身体にどうやって宿るのか?といった問題にも繋がります)
表象融合災害ではこの因果関係が反転して成立します。つまり、我々が錯覚と呼ぶ「そこに存在しない筈のリンゴ」を幻視した時、そこにはそれまで存在しなかったリンゴが現実に実物として現れるのです。
また夢で見ている内容も、寝ている間に現実に生起しました。
自分が刃物で刺される夢を見た瞬間には、実際に傷を負う事になります。
ある男性は従軍中に地雷で右脚をなくしましたが、両脚で自由に走り回る夢を見たところ目覚めた時には右脚が元通り治っていたのです。
表象融合災害の発生には、知覚か無意識に生じる知覚像のどちらかの成立が必要でした。知覚とは、人が五感で得る「まさにここにある」という感覚のことです。
指をハサミに見立てて紙を切ろうとしても、それは想像であって知覚ではないので指はハサミにはなりません。
ですが、夢の中で指がハサミになったら、今度は現実の指もハサミになるのです。
認知バイアスによる具体的な妄想や、見間違えを代表とする一瞬の錯覚(パレイドリア)、そして現実と区別のつかない夢といった、偶然的な経験情報に依存するという、発生する内容のコントロール不可能性の点が表象融合災害の災害たるゆえんといえました。
*
しかしこの災害は単純な自然災害の側面だけではありません。
表象融合災害に伴って、これとは別に人災的な側面も多分に含まれています。
例えば、妄想や幻覚を投薬治療中の精神病患者が、クリニックから出て街中を歩いていると、尾行していた覆面をつけた男たち数人から執拗な暴力を振るわれ死亡するという凄惨な事件が起きました。
これに類する事件は世界中で活発化し、アジアでは精神科病棟が放火され、逃げ遅れた患者と職員合わせて百四十七人が焼死するという恐ろしい大事件まで発生しました。
一例目のような障害を抱えた患者一人を狙った事件は特に酷く、わずか三週間以内で確認できただけでも六千二百件以上も発生しました。
この事件の『異常性』は何よりもまず、災害発生初期の混乱期に起きたものではなく、「精神病に由来する妄想では表象融合災害は起きないと判明した後」に起きた事件だということです。
というのも、脳機能が本来とは異なる活動を示している場合、脳内に形成される表象空間はいわば「存在しないペンでパピルスに絵を描こうとする」ような状態であり、災害化するには論理的整合性と表象空間の崩壊状態の維持といった要素が足りないからです。
前述したような暴行事件は単に精神病患者に対する偏見のみで起きているのではありません。社会の階層が極限まで分断化された二十二世紀初頭では、情報格差がどうしようもないほどに断絶しており、風の噂や無根拠な風説の流布、本ではなくネット上の言論にしかアクセスできない貧困層の男性が、よりにもよって「災害を未然に防ごう」という大義的な予防意識に駆られて──もちろん社会に対する言語なき不満の憂さ晴らしという面こそが主たる動機ですが──起こしているという側面もあるのです。
*
明晰夢を意識的に見ることができる百人の協力者で行なわれた実験では、睡眠後のアンケートの結果、夢の内容や規模に関係なく平均して五十六パーセントの確率で多種多様な表象融合災害の発生が確認されました。
こうした観察と仮説から得られた結論は、次のとおりです。即ち、表象融合災害とは人の内的な意識活動である脳内の表象空間が崩れ、それに伴って現実空間までもが滲んだ絵の具の様に秩序を保てずカオス化することでした。
これらに対し、ユーヴォ博士をはじめとする空間解剖学者らは【連想断片化処理】と【再固定化措置】という二つのアプローチをとりました。
【連想断片化処理】とは、最新の脱構築主義工学の心理操縦技術を応用したものです。
普通、人の意識作用は単一のイメージのみを思い浮かべるわけではなく、近接した他のイメージも同時に想い起こします。これが連想です。脳内の表象空間は連想機能によって各要素が密結合した状態で想起されるのです。
それに対して連想断片化処理は、脳の各部位に電極をつけ、擬似的な情報信号を送ることで、心的イメージで充填された表象空間内の滑らかで曖昧なグラデーションを、人工的な「概念」の単位で外部から切り分けて裁断、整理していく作業を行なうのです。
これは多様かつ複雑な感覚情報と意味情報を、座標と言葉(記号)によって標本化、単純化することで、表象の位置と意味の連接をパッケージング(保護)する作業でもあります。
これらはちょうどパレットの上に幾つも出されたカラフルな絵の具の塊を、その色ごとにペインティングナイフで丁寧に区切っていくようなものでした。
それと同時に施される【再固定化措置】とは、連想による表象空間の異常変化を予防することです。脳の意識活動を監視し、表象空間に異常──例えばアイスクリームでできたコンピュータが電子レンジの代わりになったりするような──が起こる予兆となる脳波活動が検出されたら、即座に逆位相の擬似信号を送ることによって異常の発現を妨害、連想断片化処理によって作られた標本を組み立てて得られた表象空間プリセットを即座に信号によって脳内に生起させ日常の表象空間へと固定化することで変化に抗う作業であるといえました。
心的な表象空間の変化によって外的な空間の物質のありようが変化してしまうなら、そうした変化を機械の協力の下、予防して正常なものに再規定し直すこと、それが連想断片化処理と再固定化措置なのでした。
連想断片化処理装置と再固定化装置を一まとめにした【心的現実安定化装置】は予想以上の結果を出しました。
再び明晰夢を意識的に見ることができる協力者百人に対して、装置を頭に付けた状態で眠ってもらうと、災害の発生率は二パーセントにまで減少したのです。
この実験結果は世界中にニュースとして報道され、災害に苦しむ世界中の人々に希望を与えました。
しかしながら根本的な問題がまだ残っていました。
博士の作った装置はまだ一つの言語にしか対応しておらず、世界中で使用するには圧倒的に言語情報、特に辞書からだけでは得られない生活に根ざした慣用表現の網羅的データが不足していたのです。
また論理対応する言語構造がSVO型に偏りすぎており、言語の種類によっては根本からシステムの改変を迫られるという致命的な弱点もありました。
更にそもそも、世界の九十億人全員にこの複雑な装置を提供するとなったら、果てしないほどの大金と時間が必要であることは明らかでした。
当然、ユーヴォ博士は周囲の賞賛とは裏腹にこの実験結果を受けてもまだ研究に納得していない様子でした。
「表象融合という現象は、この宇宙が超弦のような一種類の物質で構成されている事を示唆している」ということは先に記した通りです。
表象融合災害は当初、脳を構築している超弦が、特定のパターン(この場合は知覚作用)を表現した時、それにつられて周囲の超弦もそれを「模倣」(或いは伝播)した結果、発生するのだと考えられていました。
しかし本来、リンゴの振る舞いをする超弦と脳内の振る舞いをする超弦は全く異なるものです。後者は「脳の化学反応」の振る舞いであって、リンゴの振る舞いではないからです。
では何が起きているのでしょうか。
博士は考えました。
恐らく、脳は物質の物理的振る舞いと内観の知覚的振る舞いの交差点という意味で特異なのだ、と。
つまり、原因は不明ですが「ある時点でのなんらかの出来事をきっかけにして、物質と知覚の両者を繋ぐ未発見の媒介物質がこの世界に出現し、それが脳内の表象空間から影響を受けて、現実で表出するのではないか?」と博士は考えたのです。
それではなぜ、存在する筈の実体世界と、単なる脳内の現象でしかない内観世界とが、等価のものとして交換関係にあるのでしょうか。
そこで博士はある一つの大胆な仮説を思いつきました。
博士は、「太古の昔、内観世界は実体世界と同じく元々現実に存在するものだったのが、時代が下っていくにつれその地位を簒奪され、脳髄という小さな牢獄に追いやられたのではないか」と考えついたのです。
この災害は今現在突発的に起きているのではなく、記録にも残らないほど昔から何度も起きていた……そしてもしそれが事実だったら……。
更に博士は考えます。
「生物の進化とは遺伝子によるものではなく、表象融合によって起きたのではないか?」と。
*
人間とその他の生物に本源的な違いはあるのでしょうか? 様々な疑問と発想を繰り返し練って試行錯誤を重ねていたある日、突拍子もないことから歴史的な大発見がありました。
なんと博士の助手を務めていた留学生の男性が睡眠中に【謎の空間へのワープホール】を夢の中で見て、現実に表出させるという偉業を達成したのです。
すぐさまワープホールは政府から依頼された科学アカデミーの調査員の手によって助手の家ごと厳重に隔離、保護され、陸軍によって警備が施されました。当の助手はというと普段は研究室内で寝泊まりしていたため、特に生活に支障はなさそうでした。
ベッド脇のワープホール──
このニュースは一瞬で世界中に広まりました。
このワープホールの出現とその調査によって、空間解剖学は一気に予算が増加、文字通り飛躍的に進歩し、新興学問でありながら瞬く間に研究者の人口も増えていきました。
一体このワープホールをはなんなのでしょうか?
研究者たちはこぞってベッドルームに集まり、その場で群衆になりながら研究や議論を重ねていました。
月桂樹の葉に似た形の裂け目は常に揺らいでおり、正確な寸法は測れませんが、タイムラプス撮影によって得られた平均寸法値は縦一・七メートル、横は七十八センチ、奥行きは数ミリの厚さでした。
このことから裂け目は高次元多胞体の三次元断面であると考えられました。裂け目は宙に浮いており、地球の運動に置いていかれることもなくベッドの隣で安定して定立しています。
裂け目の内部に広がる空間の空気組成は地球と同じでした。放射線量や気圧、重力も同様です。どうやら幸運にも穴の空いた宇宙船のように空気が抜けていく心配は今のところなさそうでした。
また未知の細菌や化学物質、ウイルスなども発見されませんでした。
恐らくこの偶然と呼ぶにはあまりにも整い過ぎた環境は、夢を見た助手が無意識のうちに穴の向こうも地球上と同じ環境を持つものだと想像したためにこうなったのではと学者たちは推測しました。
裂け目自体は常に怪しく紫の光を放っています。
中を覗き込むと、内部空間が広がっており、上方はレーザー測距がエラーを出すほどに果てしない闇の空間が広がり、下方は百八十五・六メートルの深さに虹色に輝いて渦巻く波の海水面がどこまでも広がっています。
海には所々重油のように真っ黒な液体が混ざっており、それがどこからともへともなく流れていました。
また他の空間解剖学者のレポートによれば、海は少なくとも一千メートル以上の深さがあるとのことでした。
オルバースのパラドクスを援用すれば、この空間が虹の光で埋め尽くされていないということは、この空間が終端部を持つ閉じた空間だと推測されます。
また先ほどの気圧や空気組成の点から見ても、空間の上部は開いておらず、どこかで天井にぶつかることが予測されました。更に重力が地球と同じという点からも、この空間が有限の質量をもっていることが推測されました。
何人かの研究者は、この裂け目から見える内部空間もまた目には見えないほど巨大な高次元多胞体の三次元断面に過ぎないと主張しています。
そんな中、一人だけ異論を唱えたのはユーヴォでした。
ユーヴォ博士に曰く、この裂け目は無次元量の対数スケールで展張している心的な表象空間に繋がっており、多胞体断面モデルでは海の海流と風のない空の気象を説明しきれないか、根拠が不足するとのことでした。
表象空間とは種々の記号を任意に配置することで脳内にイメージを想起させる空間のことです。想起させる側を【外的表象空間】、想起される側を【心的表象空間】と呼びます。
このワープホールは、本来ならば絶対にアクセスできない心的表象空間の中に入れるという前代未聞の機能を持つ、物理と精神の架け橋と言えるものでした。
しかし謎は数多くあります。それは特に大きく分けて二つです。
まず、この穴の先は誰の心的表象空間なのか?という問題。夢を見たのは助手の男でしたが、夢の内容とワープホール内の景色は大きく違っており、もっと岩や木、鮮やかな草原といった自然に豊かな情景と、ホテルのような大型施設が出てきたそうですが、実際のワープホールから見える景色は飲み込まれそうなほど広大無辺で殺風景なものでした。
そしてもう一つは、空間内を流れる液体はなんなのか? という問題です。
一つ目の疑問はさておき、まずは虹色の液体が無害なのかの実験です。第一の発見者である助手の男は健康診断では異常な知見は見られませんでした。
安全性の実験は、水質調査機を取り付けた金属製のカゴの中に培養肉を入れ、回収用のロープを繋げて行なわれました。
水面に投下後、三十秒待ち、引き上げると、培養肉には何の異常も見られずカゴとロープも無事でした。
もし虹色の液体が、光速に近い速さで飛翔する質量のある素粒子の濁流だった場合、培養肉はカゴごと跡形もなくぼろぼろになっていたことでしょう。
またカゴや培養肉、特に水質調査機のプローブに虹色液体で“濡れた”形跡が見られなかったことから、揮発性が極めて高いものの、基本的には無害な液体であることが予想されました。
科学者たちは胸を撫で下ろし、早速空間内に満ちている虹色の液体を金属製のバケツと瓶で回収することが決まりました。
しかしここでも新たな問題が現れました。
バケツを投下し回収しても、何も入らないのです。いえ、入らないのではなく、バケツを貫通して漏れ出してしまうのでした。
ざるで水をすくうように、一度入った液体が、持ち上げるとそのままバケツを通り抜けて全てこぼれてしまうのです。
「原子…いや素粒子レベルでばらけた液体だと……?」
博士たちは驚きを隠せませんでした。なぜなら物質は普通、原子レベルでばらけてしまうと散逸してしまうからです。
その上バケツを貫通するということはこの虹色の水はニュートリノのように原子や分子とほとんど相互作用せず、なおかつ素粒子レベルの細かさでありながら、気化も蒸発も散逸もせず謎の引力によって一つところになみなみと流れているということを意味していました。
掬う手段がないならば、海底はどうやって虹色の海を維持しているのか……少なくとも水深が無限に広がっているとは考えられませんでした。
そこで学者らは複数の容器や道具を揃え、どれが液体をすくえるか順番に試していきました。
その結果、特注で造らせた、中空構造で内部に水を入れた厚さ二センチの超微細化結晶粒マグネシウム合金を容器内面に、厚さ八センチの放射線シールド用鉛合金を間に、厚さ二センチの超微細化結晶粒タングステンを外面にそれぞれ鍛造して結合させた重量四十八キログラムの金属製容器を、投下後にモーターウインチによって八秒以内に引き上げると、ごく少量ではありますが虹色の液体を引き上げることができると判明しました。
他のパターン、例えばスポンジやとりもち、吸蔵合金の類は試材全てが透過、静電気や強磁力による吸着も試されましたが、これもうまくはいきませんでした。
ポンプで吸い上げる方式も考案されましたが、百メートルを越す管を全て合金で造るのは、予算上不可能でした。
しかし、唯一の成功例である重金属のポットにも問題がありました。それは、制限時間内に掬い上げるだけならまだしも、長時間安定して保管できるわけではなかったことでした。
学者たちはまたしても行き詰まってしまいました。
肝心の液体が得られても、保存できなければ研究のしようがありません。これでは半減期が数ミリ秒しかない人工元素と同じです。万策尽きた学者らは諦めモードでワープホールを眺めていました。別の何人かはここまでのレポートをまとめています。
しばらくするとどうでしょう。
虹色の波に紛れて、黒い液体が混ざっているのが見えました。
その時、ユーヴォ博士の脳内に閃きが走りました。
博士は大急ぎでロープを取り、アルミバケツを掴んでワープホールへと投げ込みました。
ハイスクール時代の野球で鍛えた左肩は健在で、バケツは見事黒い液体の近くに着水するや、中に黒い液体を収めることができました。
「ぃよっしゃあああーーーッ‼︎」
博士は絶叫して歓喜しました。
他の学者たちも称賛の声をあげます。
黒い液体はバケツから漏れ出ることもなく、ロープを引き上げると黒い液体が確かに回収できたのです。
虹色の液体と違い、この黒い液体は粘液質で、それまで悪戦苦闘し続けた虹色の粒子も微量ではありますが含んでいました。
この作業は黒い液体が流れてくる度に何度も繰り返され、ついに一リットルが回収されるや、二百ミリリットルずつ厳密に封印されて各々の研究所へと運び込まれました。
*
ワープホールを後にし、科学アカデミーの第二十六号研究棟の駐車場でトランクを開けて容器を確認した博士はショックを受けました。
超高圧の水素原子すら完全に密封できる封印容器に入れたはずが、輸送の途中でおよそ百ミリリットルも漏れ出していたのです。博士は肩を落としながらも助手の留学生の男と共に研究を開始しました。
そして試験の結果、驚くべき物性がいくつも確認できました。
虹色の液体を含んだ黒い液体の比重は水と比べ重く、一対十七・九六にも及びました。これは水銀よりも重く、ウランに迫る比重です。
そして、この液体はどのような高熱条件下でも蒸発しませんでした。
また虹色の液体を含んだ黒い液体をよく観察すると微妙な生物的構造が含まれているのがわかりました。具体的には、希釈王水で軽く溶かしたカエルの脚のような構造物です。
これは難解になりそうだな、と考えた博士は、自分と同じく空間解剖学を研究している長女を研究所に呼びました。
*
昼過ぎの曇り空、有名な高級車ブランドのエンブレムが銀色に煌めく車高の低い青色の自動運転車が、白い防錆塗料で塗られた研究所の駐車場に停まるや、運転席のドアが開きました。
車内からは、白いカチューシャに似たコンパクトタイプの心的現実安定化装置を装着した、長い黒髪をなびかせる、黒のタートルネックに黒のタイトパンツ、上着に薄いブラウンのトレンチコートをまとった女が出てくるや、研究所を訪れました。
彼女の名はサーシャ。ユーヴォ博士の長女です。
ユーヴォ博士は研究棟一階のソファとガラステーブルが置かれた開放感のあるロビーでサーシャを待っていました。
「急に呼び出してどうしたの?」
「悪いね、とりあえず研究室までついてきて」
そういうと博士は足早にサーシャを研究室へと案内しました。
*
「これって……もしかして?」
「そう。例の虹色の液体」
研究室内で博士が自信満々に見せた液体は、容器の中で光を生っぽく反射するだけの黒い液体にしか見えませんでした。
「何これ……重油?」
「違うって! 世界で一番最初に回収された虹色の液体だよ!」
そう言ってユーヴォ博士はサーシャに大急ぎで書いたレポートを読ませました。
「……なるほど、そういうことだったんだね」
コピー用紙四枚だけのレポートを読み終えて、サーシャは続けます。
「とりあえず着替えてくるから待ってて」
そう言うとサーシャは実験用の白衣に着替えゴーグルを携えて、研究室に戻ってきました。
「これは初めて見るね……」
サーシャが言いました。深さがある長方形のガラストレーの上に黒い液体を広げると、黒い液体の全てが流体ではなく、どちらかというと少しだけかき混ぜた生卵のような、まとまりのある部分とない部分を含んだ有機的な液状物であることが分かりました。
博士は黒い液体をよく観察するべく、塊状になっている部位から解剖用メスとピンセットで五ミリ四方程度の切片を採取、プレパラートに収め、デジタル顕微鏡で観察しました。サーシャはクライオ電子顕微鏡で分子構造を把握すべく試料をチェンバーにセットし観察を始めました。
ディスプレイを見ながら、サーシャはつぶやきました。
「どう……なってるんだこれは?」
電子顕微鏡で確認したところ、どの部分にも分子が確認できなかったのです。分解能を最大まで上げても同じでした。
これは驚きを通り越してもはや恐怖を感じさせる結果です。当然、デジタル顕微鏡では言わずもがなでした。
まるで凹凸のないフラクタル図形か、数学における無数の点からなる直線のように、どこまで拡大しても、見えるのは【灰色の何か】だけで、分子の構造的なパターンは皆無でした。
更に原子間力顕微鏡を用いても結果は同じで、最大まで拡大しても原子は見当たりませんでした。原子分光器でも同様です。
実験用切片を超高圧力実験にかけたり、プラズマアークで加熱したり、極超低温状態にしても、黒い液体が焼けたり凍ったりするだけで、肝心の虹色の液体は操作する度に剥がれ落ちて目減りするばかりでした。
散々手を尽くし、遂にユーヴォ博士と娘のサーシャは息を上げながら椅子に座り込んでしまいました。
しかし、幾つかの確からしい事実は得られました。
まず、虹色の液体は何を用いても基本的には全ての容器を貫通してこぼれ落ち、電子顕微鏡でも視認できないという特性から、原子よりも細かい、素粒子かそれ以下の大きさしか持たない物質の集まりであり、何らかの理由で黒い液体としか相互作用をしない物質だということ。
もう一つは虹色の液体は黒い液体の混入物としてしか取り扱えないという事実から、黒い液体は同じ素粒子スケールの物質でありながら、虹色の液体と違い相互作用によって容器に収められるということ。
そして、虹色の液体は相互作用を起こさない物質であるにもかかわらず、蒸発せずに肉眼では虹色の液状物質として認識できるということ。
この三つの事実から、ユーヴォ博士は次の仮説を立てました。
「虹色の液体も黒い液体も、どちらも言語的制作物なのではないか──?」
*
サーシャは一瞬、母親が何を言ってるのか理解できませんでした。
「存在するけど目には見えない。見えるようにするには全く別物の形相を得ねばならない……例えば言語はまさにそうでしょ?あとは……過去と未来の時間もそう」
「母さん、話が突飛すぎ。もう少し噛み砕いてくれる?」
「ああ、ごめん」
博士は椅子に座り直し、前屈みになって口もとの前で両手を突き合わせながら語りました。
「まず忘れちゃいけないのは、ワープホールもそこから見える空間も、全部表象融合災害の産物だということ」
頭に装着された黒く小さなヘッドホン型の心的現実安定化装置を指差しながらユーヴォが続けます。
「それで、私たちは色んなイメージを五感を通して得ているけど、それをそのまま見るのは、もはやこの時代においてはとんでもない誤解だと気づいたの」
「ああ……言われてみれば確かに」
「私たちが作ったデバイスは言語に基づいて脳内の風景を解剖、分解して再構築し、再び言語的な齟齬が生じない範囲でそれっぽく演出してるだけ。あくまで自分自身の心象風景しかカバーしていない。だから他者がいる当の現実自体は……もはやどうなってるか予想もつかない。ただ一つ言えるのは、切片を得る手段として私たちは言語、概念をモデルとして選択したということ」
「うん」
「だからまずもって、見えてる世界が本当にその姿なのかは根本から疑ってかかる必要がある。穴ではないものを穴と認識し、海でないものを海と認識し、有機的構造物ではないものを有機的構造物と思い込んでるだけかもしれない。だけど、災害のよく知られた特性として、成立する以上は論理的整合性がとれている必要がある。意味不明で曖昧な物体だと、不安定なまま安定化できずに消えてしまうから……ワードサラダも最小単位はワードな訳だし」
娘のサーシャも繋げるように頷きながら言いました
「表象融合災害が異なる論理同士の衝突事故とも言われるのはそのせいだね。母さんらしくない随分迂遠な言い方だけど、大体わかってきた」
「そう、私たちは今も昔も、そして今後は更に、言語に依存して世界と触れ合わねばならない。不可逆的に。それは道徳的責任や信頼、コミュニケーション、思考のワークフレームに限らず、目で見ている物質も、それどころか空間や、さらに過去と現在と未来の時間まで、その全てを言語で表さなきゃいけなくなってるということ」
「その中にはもちろん、あの虹色の液体と黒い液体も含まれている……やっと理解できた。それで最初の話に戻るんだね」
「言語は存在する。定義論だけど、在ると言える方が何かと便利。だけど残念ながら捉えられない。捉えられるようにするには全く別物にならざるを得ない。それが声や身振り、文字や記号。それと同じ性質を持つのは時間の概念。過去も未来も実在するわけではなく経験されるだけ。その上私たちが感じ取れるのは「今」という瞬間だけで、過去の「今」と現在の「今」、そして未来の「今」だけで、今以外の領域にある過去や未来のそれ自体は、言語的に後づけして「制作」せざるを得ない」
ユーヴォは姿勢を直し、続けて話します。
「前置きがだいぶ長くなっちゃったけど、ここからが本題」
「「海」の正体は言語的制作物ではないか? って話だよね」
「そう。私はあの海は、表出する前の言葉、つまり言語そのものだと思う。」
「根拠は?」
「なんとなく。 ……と言いたいとこだけど、そうじゃなく一応根拠もある。それは三つ」
「その前に確認を。言語の定義が必要。言語とは「意思疎通のため規則的に表出される感情と情報の体系」あたりが妥当かな。そしてその特質は、「知覚されるけど実体を持たない空間化された質的なもの」だと言える。その上で考えると……言語的制作物とは、要するに創発された固有名詞の開集合だと言える」
「なるほど。それで?」
「一つ目はあのワープホールの中の空間は表象融合災害によって実体化してしまった、閉じた形而上空間ではないかということ。少なくとも地球上のどこかというのはあり得ない。これは言語も同じ。言語はそれぞれ特有の秩序を持っており、それと同時に無限に近い巨大な閉集合を形成している」
「二つ目は虹色の海は同じく災害で実体化した、形而上空間内に滞留している表出する前の言語ではないかということ。素粒子は見えないけどそれは粗密の問題であって、虹色の海は可視光を反射し得るほど超高濃度に集積した言語素粒子の海だと考えられる」
「三つ目は黒い液体だけが虹色の液体と相互作用し、更に黒い液体だけが私たちの世界と相互作用しうるということ。私の予想としてあれは……言霊の死骸なんじゃないか?という──」
「待って」
サーシャが頭に手を当てて言いとめました
「知らない単語。コトダマって何?」
「未開宗教に普遍的に見られる、言語が持つとされる霊的なパワー……とでも言えばいいのかな。例えば『止まれ!』と言ったら、殆どの人が立ち止まると思うでしょ? そこから発展して、言語には力があると考える信仰体系を言霊というの」
「へえ……それで言霊の死骸というのは?」
「そのままの意味。死語の実体化物。既に力を失った言葉」
「なるほど……同じ言葉同士だから唯一相互作用し得ると。じゃあ、私たちがいる形而下の世界と相互作用し得る理由は?」
「そこはまだ仮説未満の状態なんだけど……多分、言霊の死骸は言葉の力がまだ死体に多次元の位置エネルギーとして残っているから、形而下と相互作用が可能であり、なおかつ液化言語を吸着できるんだと思う。そして死骸の残留エネルギーは時間と共に半減期が訪れるため、保管しても目減りしていく、のではないかな……その反対に、虹色の言語の海は形を得ていないから形而上的な触れ得ないものになってる……とか」
段々と歯切れが悪くなっていく博士の対し、サーシャは言いました。
「だいぶ煮詰まってきたみたいだね。一旦休んで考えを整理してみたら?」
「そうする……なんだか考え疲れたわ」
そう言って博士は仮眠室の方へ向かいました。
「それじゃあ私は……現物でも見に行ってみようかな」
そう言い残し、サーシャは駐車場に戻りました。
*
銀色に輝くジュラルミンケースを手に提げて、サーシャは現場を訪れました。
建物は依然として警備が張られています。チェックをクリアし、中に入った──と言っても単なる民家なのですが──サーシャは初めてベッドルームのワープホールを直接見ました。
サーシャが気になったのは、ホールの裏側はどうなっているか、ということです。というのもワープホールはどちらの面から覗き込んでもなぜか空間内を同じ方向で見ることになるという不思議な性質をもっているからでした。
早速回収用ロープを取り付けたドローンをケースから取り出して起動し、ワープホールをくぐらせました。ドローンを操縦し向きを回転させて背面方向の風景を確認すると、そこに黄金色の人が立っていました。
その人は立っているようで座っていました。
あそこにいるようでここにいました。
大きいようで小さい、不思議な人型の何か。
ただひたすら、眩いほどの黄金色に輝いています。
サーシャはこの異様な存在に息を呑み、ドローンを近づけようと思って回収用ロープを伸ばそうと振り向いた瞬間です。サーシャは男に押され、その勢いで穴に落ちてしまいました。
サーシャは見間違えようがありませんでした。その男は、母であるユーヴォ博士の助手の男だったのです。
幸いにも、サーシャは回収用ロープを手につかんでいたため、下方百メートルくらいの高さで留まることができました。
サーシャは怯えた目でホールの方を見上げました。とにかく急いでロープを手繰って上へと向かいたいところですが、もう片腕はジュラルミンケースを持つので塞がっていました。
男が言いました。
「お、お前ら親子がい、いけないんだ。ホールを創ったのはぼ、僕なのに、後から来て勝手にどんどん調べていってみんなからちやほやされて……僕が創ったのに‼︎」
助手の男は涙目でそう叫んで癇癪を起こすや、なんとロープを束ねていたリール──かろうじてベッドに引っかかっていたおかげで落ちるのを免れた唯一の部品です──を、穴へ思い切り蹴り落としたのです。
サーシャは絶叫と共に着水しました。
身体はその落下速度を変えることなくどこまでも沈んでいきます。
一面が虹色でした。それ以外は何も見えません。目に染みることもありません。
いくらもがいても、虹色の水は手や腕、口の中を貫通してすり抜けていくだけです。
呼吸もできませんでした。
完全に充填された液体の中には気体の酸素が全くないからです。
その時、光の巨人が手を伸ばすや、サーシャを掌の上に乗せて引き揚げました。巨人の掌は、虹色の液体で濡れています。
(こいつも黒い液体と同じ……虹色の液体と人の身体の両方と相互作用してる)とサーシャは息を荒げ咳き込みつつも大急ぎで呼吸しながら考えました。
上を見上げると、こちらを覗き込む助手の身体が金色に輝いているのが見えました。謎の巨大な手がサーシャを掬い上げる光景を見ていた助手の男は、怖がったと思いきや錯乱状態に陥り、部屋から出て行ってしまいました。
しかしその後、サーシャはそのまま行方不明になりました。
ですが奇妙な変化が一つだけ。
まるで巨大な錐でくり抜いたような深い穴が虹色に輝く海面に空いていたのです。
*
助手の男だけが部屋から出てくるのを、防犯カメラをチェックした警官はしっかりと確認しました。助手の男は身柄を拘束され、警察署に連行されていきます。
この事件は世界中で報道されました。救出計画が企図され、食糧と様々なサバイバルグッズを詰め込んだバッグが何度か投下されました。
もし虹の海に相互作用する海流が有れば、同じ場所へ漂着する可能性があったからです。
そして突如現れた「海の穴」の正体は何なのかが、学者たちの間で議論が交わされました。
折りたたみ式のドローン(展張させると翼が二メートルに達します)をロープで吊るし、ワープホールの地点を原点として飛行調査すると、そこから往復限界距離である周囲二百キロメートルの範囲にわたって、無数の穴と凹凸とアステロイド回転体をX軸で割ったような山が無数に見つかったのです。それらは常に細かく動いており、時折山が伸びたり縮んだりして、不変なものは一つとして見つかりませんでした。
その不気味な虹色の地形は「山脈」と名付けられました。
カメラは可視光以外では何も見えません。
使い捨てドローンを山と穴とにそれぞれ突入させましたが、一切相互作用せずにそのまま通り抜けるか、どこまでも深く潜っていくだけでした。
生物を載せた場合でも結果は同様でした。
博士はアイデアを次々と出しては、片端から試していきました。固定観念を捨てて、可能な限り自由な発想を保とうと努力しました。ですが唯一固執していた考えがありました。
「あの海と山脈には必ず意味と法則性がある……それさえ解ければ娘は見つかる……」
博士はそうずっと呟き続けていました。自分の正しさを誇示するものではありません。むしろ折れそうになる自分に大丈夫だと暗示をかけるかのようでした。
博士は何日もワープホールの前から動きませんでした。
ドローンで録画された無限に続く水平線を眺めながら、博士はメモをとっていました。そこには幾つもの解釈やアイデアが記されています。
初期の言語海仮説は早々に破棄されました。
外見的に似たモデルの重力場説や、形而上流体仮説、論理展開空間仮説……そのどれもが漸近線のように、上手く説明がつくように見えながら、惜しくも答えに辿り着く手前で遠ざかってしまうのでした。
博士はもう一度最初の解釈から見直しました。
つまり、閉じた空間、有限な海と空という空間解釈です。
空間解剖学的に考えると、あの空間は、平坦であり、ユークリッド的で、果てがありません。つまり、ドーナツ型空間は否定されます。
娘が落ちたということで重力は存在します。少なくとも何らかの引力は付近にあるわけです。
揚力が発生する事実から、大気も存在します。ドローンの遠征調査結果から考えて、大気は満遍なく遍在しているようでした。
虹色の海からは可視光は出ていません。ソーラーパネルを翼面に並べた観測ドローンを飛ばす計画は挫折しました。では何が光って見えているというのでしょうか?
小型プロペラ機(と言っても吊り下げながら組み立てる全長四メートルの機体ですが)を、滑走路がわりにロケットアシストで発進させ、回生型固形電池の残量全てを片道に使って飛ばしたところ、虹色の山脈は一万七十八キロメートルまで広がっており、映像では更に奥の果てまでも続いていることがわかりました。
また同時に観測装置をつけた気球を別方向へ飛ばしたところ、山脈は更に百九十八万六千三キロメートルまで続いていることがわかりました。
食糧の投下は一週間に一度のペースで行なわれました。無意味かもしれませんが、これだけが博士にとって唯一心を安定させる行為でした。
ある日、ふと博士は、ホールの裏側はどうなっているのかが気になりました。
娘がなぜドローンをホールに入れていたのか、博士はずっと疑問でしたが、「ホールの裏側に広がる光景を確認したいから」だったのだとようやく理解できたのです。
早速博士も同じように小型のドローンに回収用ロープをつけて、ホールの中へと飛ばします。
そして機体を反転させて裏側を見たところ、博士は一瞬身体を大きくびくつかせてしまいました。
巨大な、それでいて天高く伸びる山を背に、人型の「何か」が、存在していたのです。
博士はドローンのカメラを何度も調整しました。しかし映像がどうしてもおかしくなります。光の人は遠いようで近く、大きいようで小さく、とにかく不安定にしか映らないのです。
博士は何か急に空恐ろしくなり、大急ぎでドローンを回収しました。
その瞬間です。博士は背後に気配を感じ、全身を翻しました。
幸い、そこには誰もいませんでした。
博士は胸を撫で下ろしドローンを回収すると、急いで端末を起動し、レポートを書くや、学会に報告しました。
内容はもちろん、「黄金の人(El Dorado)」についてです。
*
この報告は世界中で持ちきりの話題になりました。
ユーヴォ博士の娘にまつわる悲劇的なエピソードも相まって、世界中でこの黄金の人型存在はその正体をめぐり激しい議論が交わされました。
意見の多くはやはり、黄金の人こそが神そのものだという主張です。
他の人々は、穴から落ちた人が特殊な環境のせいで変化した姿だとか、単なるブロッケン現象だとか、そもそも捏造動画だとか思い思い自由に主張しあっていました。
ある日のことです。
博士はコーヒーショップでラテを飲もうとしたところ、カードが使えず、購入を断念してしまいました。
どうやら実験用に買った機材が高額すぎたために、カードの利用に制限がかかってしまったようです。
その時、博士の中で何かが組み上がりました。
博士は大急ぎで車を出し、路肩に駐車させるや、筆記具を持って一心不乱にノートに書き込みました。
今までの自分の考えは、あまりにも卑近過ぎてあることを見失っていたのです。
「あの忌まわしい空間の全てが説明できた‼︎」
博士は叫び、研究室に戻りました。
その数日後です。
ユーヴォ博士の新しい論文は、前回の論文を大きく上回る勢いで世界中に論争を巻き起こしました。
論文の題名は
【人類の倫理的判断の舞台裏:形而上下間変換における道徳的責任媒介粒子(MRCP)の振る舞いについての論考】
博士は論文内で主張します。
「この世界はMRCPの唯心論的有心物質の一元論的世界だ」と。
それはこの世界──人や物、惑星そして宇宙全体と、広大な虚空の全て──が、素粒子よりも細かな、極小のMRCPが一切の隙間もなく充填されることで形成された四次元時空間から成り立っているというものです。
しかも形而下のみならず、形而上世界であるあの虹色の海が広がる空間までも、同様にMRCPによって成り立っており、その上、道徳的責任が可視化された結果だと主張したのです。
MRCPとは何なのでしょうか?
それはMoral Responsibilty Carrier Particle (道徳的責任媒介粒子)の略語であり、ユーヴォ博士の造語に他なりません。
博士はまず観測事実を述べました。
ワープホールはその穴と、内部の空間内の一部を常にモニタリングカメラが観察しています。
娘が転落する事件の直前、空間内の観察装置はある瞬間を収めました。それは、虹色の海に突如として大きな山が出現したのです。それから数分後、助手だった男が部屋に入るや、娘を突き飛ばし、最後にリールを蹴り落として部屋から出て行きました。娘が落ちるのと共に山の隣に大きな穴ができました。
山と穴は今でも残っています。
博士はこの一連の出来事が、偶然発生したとは考えませんでした。
博士は空間の定義づけを一旦後回しにし、冷静に一連の出来事を見直しました。
改めて考えてみると明らかなように、ワープホールの向こうの世界は、私たちが住む現実世界とは大きく乖離した、自然法則すら異なる異次元の世界です。それだというのに博士をはじめとする空間解剖学者たちは、現実世界の要素を無理に適用し、まだ観察も調査も不十分なまま、空間の定義づけにこだわり続けました。博士は、それは間違った態度だったと自己反省したのです。
そして幾つかの事実から、もっとも確からしい仮説を立てました。
あの虹色の海が広がる空間は、自分たちが住む形而下の世界の舞台裏、即ち形而上世界──しかも肉眼で見えるように変質した──なのだ、と。
なぜ変質したのでしょうか?それはおそらく、表象融合災害によって本来なら接続不能なはずの形而上世界と形而下世界とが無理に繋がった結果、ほとんどは失敗して霧散するはずが、その論理的不整合をも無理矢理修正する形で開通できてしまったため、物理法則が保たれないにも関わらず、果てしない虹色の海と暗い空が存在するという異常な状態になったのではないかと考えられたからでした。
これは表象融合災害と瓜二つの状態です。いわばワープホールは、形而上空間を形而下に引きずり落とした災害だと言えました。
話は「舞台裏とは何か?」という最初の疑問に戻ります。
あの山と穴は何なのでしょうか?また空間の奥にある邃大無辺の山脈はどう関係しているのでしょうか?
博士はそれを、人間の道徳的責任によって変動する、MRCPの可変的地形だと考えました。博士はそこでMRCPの挙動について理論を展開します。
MRCPの正体は【心を持った極小の超球】です。スピンや対称性といった素粒子が持つ各要素は未だに観測できていないので、いわば幽霊粒子の状態ですが、幸運なことに異常空間の効果のおかげで肉眼ではマクロ的に捉えられます。
MRCPは周囲に反応する心を持ち、「超紐の振る舞い」や「モナドの表象」のようにその場その場で表現系を変えることによって様々な粒子のように振る舞うという性質があるとされます。
特にその挙動は、人が倫理的に望ましくない行為を行なうと山型に伸び、倫理的に望ましい状態になると逆さまの山、つまり穴になり、倫理的な判断状況がないか善悪が相殺し合っている時は平坦になる、というものでした。
この法則が全人類に適応されている──その結果として、あの深遠邃大な山脈の連なりが形成されているのです。
しかしそれでは事実に反します。
というのも、映像では「山と穴ができてから事件が起きた」からです。
博士の論文はその事実について、更に一歩踏み込んだ予想を立てます。それは
「まさに動画の通り、人類はあの虹色の凹凸の生起をなぞるようにして生きている」
というものでした。
すなわち、形而上の出来事は形而下の出来事に優先し、それどころか規定するということです。
論文には動物実験の結果が記されていました。人間の意思と形而上の現象、そのどちらが先に生起するのか、カメラで空間を撮影しながら、実験は始められました。が、生きたマウス、生きたモルモットをそれぞれ用意しようと考えた時──つまり実験計画を立てている時──には、映像上ではすでに空間内に少し大きめの”山“が生えていたのです。
山はそのまま大きくなり続け、博士が動物を殺そうとした直前に最大に達し、殺した時には既に山は鋭い円錐形となって動かなくなっていました。
この実験は三回行なわれ、その全てで山は行為や意思に先立って伸長化していきました。
また、山の周囲には小さな穴が六個出来ておりました。これは、博士が殺した動物の数と一致しています。
更に、実験内容に同意したボランティア五人にも同様の実験を行なってもらったところ、全てで同じ結果が得られました。
博士はこう結論付けます。
「我々はソクラテス以前の太古の時代から『善なる行為、善なるありようとは何か』を問い続けてきた。しかし現実の実験結果はこう示す。『人間の自由意志に関係なく、善悪は先立って生起するものであり、人間はその軌跡をなぞるトロッコでしかない』」と。
しかしながらそれと同時に、実験の結果を受けても博士は自由意志の存在を手放しませんでした。というのも、この結果は自由意志を否定するものではなく、自由意志の「座標を現実の脳から形而上へと移動させただけ」のものだと言えたからです。
それは丁度、人が事故で死んだ場所とは別のところにお墓が建てられるようなものでした。
むしろ博士は、この実験動画を根拠に、自由意志は物質として別の時空間上にこうして存在している、と結論付けました。
行為と意志の本質は形而下空間にはなく、可視形而上空間で先に決定づけられる……この結論はさまざまな分野に賛否の嵐を起こしました。
*
「感覚質の空間化、量化でもある……」
ユーヴォ博士は思いもよらず、別の文脈で述べた言い回しを達成していました。
これまでの結果を得て、改めて博士は原点に戻ります。そうです。娘のことです。
博士は疑問に感じました。なぜサーシャは山に気づかなかったのだろうか?と。普段のサーシャの言行から考えるに、突然発生した異常を無視する性格とは思えませんでした。
その時、博士は自分が何日もシャワーを浴びていないことに気づきました。
頭を掻きながら研究所のシャワー室に向かう途中、博士は重大な見落としに気づきました。
なんとこの何日間──少なくとも論文のための実験を用意する前の日から、計算上は一週間以上、博士はずっと心的現実安定化装置を頭につけ忘れていたのです。
博士は自分のデバイスをどこに置いたか忘れていたため、仕方なく予備のデバイスを机から出し、結局シャワーも浴びずにワープホールへ向かいました。
現場に着くなり、博士は驚きました。装置をつけた状態だと、虹色の山脈は失せ、平らかな虹の海にしか見えないのです。
これでは気づきようがありません。それからというもの、博士は身なりを整えようと決心しました。
*
博士がもたらした連日の衝撃的なまでに強烈な新発見の連続のおかげで、博士はすっかり注目の的になっていました。
しかし博士の興味はそんな世俗的な部分にはありませんでした。
というのも博士にとってまだ「我が子を探し出す」という一生に一大の事件は全く解決していないからです。
博士の第一目標は、「あの忌まわしい虹の山海を如何にして御するか」にありました。
しかし同時に、その困難さも──おそらく誰よりも──理解していました。
博士の予想では、形而上空間が可視状態になっても、目に見えているあの風景はスクリーンに映った映画と同じで、形而上世界そのものではないと考えられていました。つまりあの虹色の風景は、単なる虚像というのです。
あの虚像が投影されている空間は何なのかといえば、博士の予想では元助手が見た夢の表象融合ではなく、例の黄金の人が開けたものではないか。
虚像だから相互作用も起こさない。しかし三次元の体をとって開いてしまった以上、不純物(人間)の混入は避けられない。
それがあの虹色の山海と黒い液体なのではないかと博士は考えました。
虹色の山海が人間の自由意志由来の存在だとすれば、それを形成せずにただ漂流するだけの黒い液体は……脳死した人間の意識なのではないか?
博士の中に空恐ろしい予想がうごめきました。
あの空間はプラスとマイナスの方向に無限の広がりをもっている実数の集合なのでは? そして平らかな海面はグラフの直行点とXZ軸に重なっている……それは道徳的責任がフラットな状態だから……脳死した実体を持たない自由意志は山も穴も形成せずにあの空間を果てしなく浮遊している……。
そこまで考えて、博士は思考にストップをかけます。
博士は気を取り直し、【表象統御装置】の開発に取り掛かりました。
表象統御……それは極めて大胆、というよりは前人未到、驚天動地、前代未聞の挑戦でした。
それは言わばマジックデバイスと呼ぶに他ならないからです。
手始めに博士は一キロのダンベルを作ろうと考えました。その原理はこうです。
まず脳が発想します。この発想をセンサーが取り出し信号化して連想断片化処理装置にかけます。これと同時並行で逆位相波を送ることで脳内の発想を打ち消します。
装置によって復号化された概念切片を、連想切片再統合機構に掛けます。こうすることで欲求や雑念といった不純思考がふるいにかけられ、単純な概念のみが残るので、純度の高い表象情報が得られます。この表象情報を電気信号として脳に信号として再送信し、脳に発想を再想起させます。
こうすることで任意の表象を現前化させることが可能になるのでした。
そうして博士の目の前に、「一キロのダンベル」が姿を現しました。
博士はダンベルを持ち上げ、その重さをしかと噛み締めました。
表象融合災害、その完全なコントロールと有用化……人類の悲願は今、この研究室で確かに実現したのでした。
マジックデバイスと名付けられた──MRCPの表象機能を完全に統御する至高の機械──【表象統御装置】の完成です。
脳内に想い的に立ち現れるものが目の前に知覚物として立ち現れる……それはまさに、魔法使いの技そのものでした。
博士は装置の微調整を何度か行ない、自分が思い浮かべたものがより正確に、より具体的に表現されるように仕上げると、博士は二メートル四方もある巨大な装置本体を、髪飾りサイズにまで小型化して表出し、それを自分の髪に、予備と相互参照の為に四つ付け、次いで多次元パターン解析学習的環境適応装置の小型版を作りました。
博士は決意を胸に、車で現場に向かいます。
娘がいなくなった現場、ワープホールへ。
この世界はMRCPの一元論です。それは形而下でも、ホールの先の形而上でも変わりません。もはや誰もユーヴォ博士を止められませんでした。
博士は思考と言語を結びつけた呼び出し符号の人工言語──呪文(コマンドプロンプト)──を幾つか造り、そして──
虹色の海へと飛び立ちました。
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