8・死してなお毀れぬ刃  Dauntless

 人物

 カーランフィル:結界への侵入破壊工作の使命を課された、魔法が使えない見習い魔女。

 ケン:拉致された娘を探している男。魔女を滅ぼそうと常に思っている。




 司書の少女が語ります。

「地図の真ん中にあるこの大きな円が結界です。そして結界の東数百キロに園が。反対に結界の西にある森の北の四角い図形が、ガラスの丘、すなわちここ大図書館です」


 少女の説明に合わせて、カーランフィルの知覚映像が目まぐるしく変化します。


「あなたがアイテムを持って地上に戻ったとき、その時点から作戦が発動します」

「あなたは【身体強化剤】と透明化のマントを使って監視の眼を潜りながら森を突破し、斜陽の結界内に侵入し、フリザンテマ様が遺された刀を使い敵の迎撃を突破しつつ、結界の中枢部である兵廠までの七百五十キロの道のりを全速力で走り抜け、中心部で赤い首飾りを発動します」


「……」

 カーランフィルは無言で変顔をして動かなくなっています。

「……どうしました?」

「自分がこんなことうまくやれるビジョンが

 全く見えなくて……」

 涙目のカーランフィルを無視して、司書は続けて説明します。


「計算上、あなたの身体能力と身体強化剤が六本あれば、敵の迎撃を掻い潜って中枢部に辿り着けると考えられます」

「もし包囲や迎撃をかわしきれないと判断した場合は、すぐさま時間魔法である【原理滞停(げんりたいてい)】を使ってください。使い方は青い宝石がある面を上にして片手でかかげることで起動します」


「そして中枢部の一際高いタワーの地下施設、すなわち兵廠にたどり着いたら、出来る限り最奥部を目指してください。そこでこの赤いアミュレット……【逆元放射装置】を起動してください」


「逆元放射……?」


「斜陽の魔女が構築した外部表象空間に対し、逆位相の表象空間を出現させることで両者を打ち消し合うものです。あなたはこの司書によってただいま承認されました。この道具は両手で持って「◆◆◆◆」と唱えることで起動します。一回しか使えませんので、使用する際はお気をつけください」


「難しい単語がいっぱい……」


 司書はこれ以上噛み砕いて説明する時間も惜しいと言いたげな視線をカーランフィルに送り、そのまま結界内の風景を消しました。カーランフィルの視界は先ほどの図書館の中に引き戻されます。

「とにかくやるしかないってこと?」

「その通りです。お気をつけていってらっしゃいませ。どうかご武運を……」

「うん。 ……頑張るよ! ありがとう、司書さん」


 司書との別れと共に、カーランフィルは机の上に並べられた赤い首飾りと青い魔導具の二つに、身体強化剤六本を手に取って肩掛けの紺色のカバンに入れ、いつの間にか直されていた透明化マントを羽織り、腰のベルトにフリザンテマの刀を差して、ニュクストルの結界の最奥部、「兵廠」へと向かい、大図書館を後にしました。


 こうして遂に、史上最“小”の反抗作戦が幕を開けました。


 逆元放射装置の射程は千五百七十キロ。これは結界の直径とほぼ同じ大きさです。


 一見するとドーム状の結界ですが、実際の結界の形は球体状です。というのも結界は、魔導防御装置の防護空間を大きくしただけのものであり、地表に見える部分はあくまでも一部に過ぎないのでした。


 結界の赤道は地下七百メートルにあり、そこには【鋲(びょう)】と呼ばれる結界領域の中継生体装置が等間隔に八基埋められています。

 M54ビヒモス戦車の魔導防御装置は生体部品が冷却装置の問題から稼働に制限時間がありましたが、ここの結界を構成している自動培養装置は地中に熱を逃し続ける事で理論上は半永久的に動き続けます。

 例え逆元放射装置を起動し結界を破壊しても、この鋲が一個でも稼働していると、そこから再び結界が他の鋲ごと再生してしまうのでした。

 破壊するなら一度に全て。

 そうすると再生に必要な核がないためそのまま結界は崩壊します。


   *


 当然の話ではありますが、外の風景はさっきとまるで変わっていませんでした。


 それは天気や太陽の位置だけではありません。カーランフィルを探していた戦車の位置も変わってなかったのです。


 地上世界ではまだ一秒も進んではいないからでした。


 突然、ガラスの丘の格子配列が切り替わり、ただのガラスになるや、それが砕け落ちて地中から大図書館が姿を現しました。

 今度は逆さまではありません。

 立派な門構えは地につき、屋根は天に突き刺さらんばかりです。

 砕けたガラスは七色に煌めきながら八両の戦車を飲み込んで奈落の底へと落ちていきました。

 残りの八両は慌てたように一斉にバックで離れていきます。

 大図書館から出てきたカーランフィルは玄関から伸びる橋を渡り歩き、もう一度だけ図書館を一瞥して、身体強化剤を一本飲み、身体を透明化マントでくるむや、一気に時速二百七十キロメートルでその場を走り抜け、戦車とすれ違いざまに居合いの構えから横へ一閃──残る八両の戦車を一刀両断しました。


 カーランフィルはもはや何も知らない少女ではありません。

 仲間たちの絆と希望を紡ぐ、立派な戦士でした。


 破壊された戦車にかまけることもなく、カーランフィルは結界を目指して焼きついた森へと走り出しました。


   *


 古代の板皮類の怪魚を思わせる艶かしい見た目の軍艦。藍鉄色と灰褐色のマーブル模様からなる船体は光の加減で所々が虹色に煌めいています。その光の正体は魔導粒子と超広域的電磁波を散乱させるための多層表面処理がもたらす構造色です。


 【魔導戦闘艦(マジックバトルシップ)】のシステムの核は仮死状態の魔女の肉体と、それを制御する大型演算処理装置で成り立っています。

 艦内は、兵器や航行、通信システムの全てが高度に自律しつつも見事に連携しており、完全無人で運用されていました。


 魔女の肉体は複雑な生命維持装置の山に囲まれて、艦の重要防護区画(バイタルパート)に装甲カプセルとして収められていました。

 そこには一体どのような魔女が囚われているのでしょうか?


 それはかつて園で姉と慕われていた二十人の宝石の魔女たち、その全員です。

 二十人全員が、斜陽の卑怯な不意打ちによって囚われの身となり、一人につき一隻、計二十隻の戦艦のコアとされたのでした。


 妹たちが死ぬと花弁になってしまうのと同じように、姉たちは死ぬと砕けた宝石になってしまいます。

 そこで斜陽の魔女は禁令正道魔法の昏睡魔法で姉たちを捕縛、兵器システムの魔力供給用生体機関にしていたのです。


 しかしながら、姉たちはただ何もできずに捕縛されたわけではありません。

 なんと姉たちは自分らが捕まることを見越して、ある準備をしていました。


 というのも姉たちは、ニュクストルが造った魔女の肉体を材料にした呪術耐抗兵器──戦車の魔導防護装置と同じ、魔女の攻撃魔法が他の魔女の身体に干渉できないよう組まれた──の回路に、反旗の種を仕込んでいたのです。


 そしてその種は、大図書館が地上に姿を現した事で伝わる重力波の変化を合図にして、一斉に芽吹きました。

 【有機電脳星霊】……宝石の魔女たちは自分の肉体に、その種を埋め込んでいました。


 それはいわば、心を持った強力なコンピュータウイルスです。魔女は有機電脳星霊を尊敬し、有機電星霊もまた魔女たちを慕っていました。


 今、その群れが、魔女たちの身体から解き放たれるや生命維持装置の電子端末部から魔導戦闘艦のネットワークに侵入、そこから結界内に斜陽が造り上げた対魔女用結界・兵器統制システムにも侵入して、なんと中枢部を破壊(クラック)しました。


 ここまでわずか四秒間の出来事でした。


 高速航行中だった魔導戦闘艦は制御を失って一気にバランスを崩し、そのまま洋上をドリフト。転覆しかけるまで傾いてしまいました。

 長方形のパーツを無数に組み上げて、その外部を鈍角状の装甲部品で隙間なく囲った魔導戦闘艦の形は、海面に浮かぶは浮かぶ形ではありましたが、航行には全く向いておらず、常に姿勢制動魔法に頼らざるを得ないものだったからです。


 本来、戦闘艦の内部システムは、外部からの侵入に対抗できるよう、閉じた系を構成しています。

 そのため、系の内側、密結合した各プログラムと各装置の艦内ネットワークの中には電子的防護壁がありませんでした。出入り口も窓もない建物の中に鍵付きの部屋を建てる意味などないからです。

 通信信号の暗号化も意味がありませんでした。電脳星霊は暗号化ブロックにも入り、自らを暗号化してネットワーク上に広がっていったのです。


 魔導戦闘艦という究極の戦闘兵器の内部システムにアクセスし得る存在など想定されませんでした。そんな脅威となるものなど全く存在し得なかったからです。


 ──核となる宝石の魔女を除けば──


 その結果、魔導戦闘艦は、地上の結界やその内部にある兵器統制システムへと渡る橋を有機電脳精霊に開放する形になってしまったのでした。

 有機電脳精霊は自己複製し、兵器統制システムをハブに、あらゆる方向(スポーク)へと侵食を始めていきました。


 戦車は人間が操縦する閉じた系を構成しています。ですが、対魔導防御装置だけは生体部調節回路の管理を兵器統制システムに依存していました。

 航空機のシステムは暗号化防壁で守られていましたが、これも同じ理由で魔導戦闘艦の通信システムから承認済み信号を受けて対魔女警戒航空機の電脳部に回線を経由し、そこから更に結界内中枢にある兵器統制システムに侵入しました。


 当然、そんな芸当をこなせる敵は想定されていませんでした。


 各所から近接航空支援や砲撃要請の連絡が入りますが、艦の制御部も戦闘爆撃機も応答しません。既に破壊され、「死んでいる」からでした。


 地上を監視する無人機も同様です。

 無人機はその全てが制御を失って墜落し、有人機は搭乗者がマニュアルモードへ瞬時に切り替えた事で墜落こそ免れましたが、通信や撮影のデータを送る本部が機能停止となってしまったため、ただ意味もなく空を遊覧しているだけになってしまいました。


 言うなれば、結界とその周囲の森や荒野は、その全てが戦場の霧が立ち込める暗中の大地と化したのです。


 そして、遂にシステムエラーで艦内の仮死状態維持装置も沈黙した瞬間です。宝石の魔女は眼を見開き、代謝ジェルが充填された超高耐久多層粘化ガラスのポッドを魔法で強化された拳で叩き割り、右手で装甲カプセルをこじ開けつつ左手で顔につけられた呼吸装置を投げ捨てながら言いました。


「今度はこちらの番だ」


   *


 まるで膜を失った細胞のように、結界を失った結界内は大混乱に陥っていました。


 それまで結界の外周部に無許可で建てられていた簡易テントに住む難民は、食料と医療を求めて暴動を起こして侵入。

 住民らを随所で殴り蹴り殺してはその手を切り落とし、結界内の各所にある無人医療機械の生体認証装置にその手をかざして、病気になっていた子供たちを治療しました。


 配給センターでも同様の手口が横行し、食料品の強奪と取り合いが頻繁しました。

 この混乱を治められる人などいません。普段は傍若無人なまでに強権的だった対人鎮圧用人型ロボットは床に収納されたままです。何人かは内部の部品を転売しようとロボットを無理矢理床から引き剥がし、そのまま四肢を外してバッグに収めるや、律儀に部品一つ残さず持ち帰ってしまいました。


 何よりも大きな問題となったのが、鎮圧部隊が居なくなった状況下での結界内に住むマフィアたちの動向です。

 マフィアはこれ幸いにと隠していた武器を手に取るや、家々に押し入り、子供たちを連れ去って、結界外の業者に高値で売り付けました。このご時世です、健康な子供はダイヤモンド以上の価値と需要があったからでした。おまけに、結界外の子供たちは医療システムによって次々と健康になって戻ってきますので、武器で脅すことで片端から子供を拉致し放題という地獄の様相を呈していました。


 ニュクストルと、使役されている人造電脳精霊は大急ぎでシステムの再構築と復旧に取り掛かっていますが、どれだけ頑張っても早くて四十五分、遅くは一時間強といった状態でした。


 その間、結界内は押し寄せる歓喜の波とそれに飲み込まれる恐慌の坩堝と化していました。


   *


 身体強化薬を再び一本カバンから取り出し、それを飲み干しました。ピンク色で少し甘く、最後にほんのり苦みが残る味でした。

 薬剤の効果時間は四十五分です。カーランフィルは時速二百数十キロの全速力でダッシュしました。


 カーランフィルは焼けついた森をあっという間に走り抜け、荒野にまで到達しました。あと少しで結界にも辿り着きます。

 中心にたどり着くには通常の魔法ではなく魔力内臓型のマジックアイテムを駆使するしかありませんでした。

 使えるのは既に魔力を充填した武器や道具のみです。


 結界に到着すると密輸の荷台に隠れ、マントを被り蓋を閉め、X線写真のみならず魔導粒子透過撮像も掻い潜って入場に成功……という手筈が、あまりの混乱ぶりに貨物検査も何もなく、あるのは数千をゆうに超えて押し寄せる難民の波だけでした。カーランフィルはすぐさま気転をきかせるや、人混みを分け入って分け行って、立派なゲートを丸ごと刀で切り割って、人の波と一緒に大胆に侵入することにしました。


 結界中央にそびえ立つ巨大な塔──それはニュクストルへの信仰の象徴です──までの距離は七百五十キロメートルあります。それほど離れていても見えるほどに塔は大きなものでした。


   *


 三本目の薬を飲んで遂に五百キロに到達。カーランフィルは高層アパートの団地からなる住居区域を突破して、さらに中心部へと突き進みます。

 そこは十キロメートルにも及ぶ草原地帯でした。何のために設けられたのでしょうか?

 実はここは侵入した敵を迎え撃つキルゾーンでした。身を隠す遮蔽物は何もありません。


 そこへ八両のVM54ビヒモス戦車がカーランフィルを迎撃しに猛スピードで現れました。


 搭乗員は、あのジンです。ジンがつぶやきました。

「へへへ、やっと見つけたァ……魔女の匂いがする。ニュクストル様が憎くて仕方がない、臓物がぷりぷりしたメスの匂いだ。歯の裏がひりつく感じでわかる。まだ新入りの魔女だな?」


 ジンは複数台の戦車を引き連れて、一斉に砲撃をカーランフィルめがけて放ちました。

 しかし、透明化のマントを着て身体強化剤を飲んだカーランフィルの動きに、自動照準装置が対応しきれません。妖精のように舞うランダムなジャンプと複雑な緩急に明滅するシルエット……戦車のコンピュータは完全に幻惑されました。

 そして刀を一振り。

 小隊を組む八両の戦車のうち、四両が瞬時に“割れて”、戦闘不能に陥りました。

 ジンが叫びます。「この人間離れした斬撃……フリザンテマの刀か⁉︎ 全車魔導防御装置起動!」

 しん……と沈黙が一瞬だけ。

 ジンは目を見開いて困惑しボタンを連打しますが、装置は一向に起動しません。自分だけかとジンは疑いましたが、小隊内の全車が同様でした。

 データベースにない正体不明の魔女に対し、ジンは焦りを浮かべながらも「一発でキメる!」と叫びながらグリップを操作して弾種を交換、徹甲弾(金属の塊)から近接信管付き榴弾(爆弾)へと切り替えるや、ジンは魔女を照準線に捉えた──と同時に、残った戦車の全てがピッタリと真ん中で斬り裂かれました。

「畜生! 畜生めッ‼︎」

 ハッチから頭を出したジンは走り抜けるカーランフィルに向かってゴーグルディスプレイ付きのヘルメットを投げながら悪態をつきつづけました。

 ネットワークによる有機的運用と航空支援、それに対魔導防御装置があってこそのビヒモスの強さでしたから、それらを欠いた状況での戦闘の結果は当然のものでした。


 ジンの声を無視してカーランフィルは心の中で勝利に歓喜しました。

(先輩から貰ったこの片刃の剣は、魔導防御装置には無力だけど、それさえなければ最強なんだ……! これが、私たちの想いの力だ!)


   *


 草原を抜けると、これまでとは異質な、無機的で薄暗いトーンの工場地帯に入りました。

 壁はコンクリートで隙間なく囲まれ、照明は小さなものが規則正しく並んでいます。

 軍用リニア路線は幸運にもまだ動く状態でした。カーランフィルはリニア列車に乗り込み、運転席をいじって動かし、中心地付近まで乗りました。これで丁度中心部の工場地帯に着く算段でした。


 時速六百七十キロメートルで進むリニア列車は、真っ直ぐ結界中枢部へと進んでいきました。

 カーランフィルは先ほどの戦闘を思い出し、刀をじっと見つめます。

 徐々に刀の切れ味が落ちている──自分の手だけがわかるその感触に、ほんの少しだけ、カーランフィルは不安になりました。

 その瞬間です。

 トンネルに入る直前、突如リニア列車の先頭にあるモーター車が爆発して貨車ごと脱輪、轟音と火花に包まれながら脱線、横転しながら停止しました。

 それだけではありません。暗いコンクリートのトンネルの奥、中枢部の方向から赤い光りが見え始めました。無数の通常兵器たちが押し寄せ、カーランフィルはトンネルの道を塞がれたのです。


 カーランフィルは列車から急いで降りました。直後、リニア列車の電池を積んでいる貨車も爆発を起こしました。

 最初の砲撃の主は、線路から十七キロほど離れた草原にいました。他のビヒモス戦車でした。四足歩行の動物のように一生懸命転輪を縦に伸ばし、こちら目掛けて砲弾を撃とうとしていました。ですが、砲撃の反動のあまりのけぞって倒れそうになっています。

 カーランフィルは覚悟を決めた顔でカバンから青い宝石が嵌め込まれたタリスマン(まじない石)を取り出し、右手で天へと突き出しました。

 その瞬間、複雑な魔女文字の一文が宝石の周囲を回転した時、まるで宇宙全体の素粒子が声を合わせて立ち止まったかのように、世界の全てが停止しました。

 これ以上は何も──悲劇も喜劇も──起こらないパーフェクトワールド。全ての微視・巨視的運動が止まった世界が、カーランフィルを中心に広がりました。


 これこそが三つある時の魔法のうちの一つ【原理滞停】です。その世界では、ほんの一瞬ですが、使用者のみが世界を統べる権能者となりました。

 この大地はもちろん、星々も、銀河も、空間と重力も、ポテンシャルエネルギーも慣性系も、何もかもあらゆる役目の要素がカーランフィルをおもねり、かしずき、カーランフィルのためだけに光子のみが果てしなく長い絨毯を敷きました。


 魔法の効果時間は三十分です。カーランフィルは一秒でも惜しいと、四本目の薬を飲み干して中枢部へ繋がるトンネルへと全速力で駆け出しました。


 全ての機械が稼働しながら停止しています。トンネルの天井に設けられたランプは周波数の問題で点いたままか消えたままの状態で不規則に並んでいます。

 奥に進めば進むほど、壁を這う配管は数を増やしていきました。中に何が通っているかなど、考えようもありません。


 迎撃に向かっていたのだろうと思しき兵器が、少し見ただけでも三十機以上並んでいました。もしこれと正面で戦っていたら……カーランフィルは身震いしました。


 その時です。

 カーランフィルは、口の周りに暖かい液体が付いた感触を覚えました。

 思わずカーランフィルは手で液体を拭います。


 血です。


 カーランフィルは鼻血を出し、右目は真っ赤に充血し、左目を隠すと風景が白くぼやけて見えました。


 時間魔法の反動がもう既に来ていました。というのも、この魔法は使用者の静止エネルギーを魔力に転化するものであり、その結果として身体が崩れるのです。


 カーランフィルは自分の選択が本当に正しかったのか、この期に及んで考え出してしまいました。

 しかし、ここで悩み喚いても意味がありません。もしここで作戦を投げ捨てて逃げたら、それこそ自分の中の誇れるものが何もかも失われてしまうと思えたからです。


 先輩の想い、仲間たちの願い、園のみんなの希望……その全てを踏みにじるくらいなら、自分はこの肉体がどんな状態になっても走り抜け、作戦を完遂させると、カーランフィルは改めて決心しました。


 どこまでも続いてるかのような錯覚を覚えながら走っていると、次第にトンネルの果てと思しき光が見えてきました。

 汗を拭っただけなのに、その手の動きで爪が一枚抜け落ちます。

 膝は震えっぱなしで、内出血で黄紫色になっています。動かすだけでも両膝に激痛が走りました。

 もし身体強化剤を使用していなかったら、辿り着くよりずっと前には身体がぐしゃぐしゃに崩れていたであろうことは想像に難くありませんでした。


 カーランフィルは遂に結界の中心部に到達しました。


 右目が失明したカーランフィルは、辿り着いた場所で困惑しました。

 なんとそこは直径が百キロメートル弱はありそうな巨大なすり鉢状の窪地……露天掘りになっていたからです。

 窪地の中心部にはあの天まで届きそうな塔がそびえ「浮かんで」いました。

 カーランフィルが立っているトンネルはここで途切れています。これ以上中心部には近づけませんでした。

 飛び降りようにも恐らく身体が耐えられません。

 せっかくアミュレットを起動しても、中心からずれていれば、斜陽の結界は再び再生してしまいます。

 許容可能誤差は半径三十五キロメートルまでです。今自分が立っている場所は、塔から三十五キロメートル以内にあるのか──?

 カーランフィルは賭けを強いられました。


 あと四秒で原理滞停の魔法が解けます。


 三。


 二。


 一。


 魔法が終了しました。と同時にカーランフィルの身体を激烈な代償が襲いかかります。

 剥がれ落ちた食道の粘膜が血と共に口と鼻から大量に、吐瀉物と同時に吹き出され、頭をひねり潰したかのような激痛が襲います。歯が三本も抜け落ち、真っ赤な球体……右目が地面に粘液と共に落ち、そこに数百本はありそうな量の毛が一度に落ちました。

 これでも、時の魔法の終了後の反動吸収魔法が十分に効いている方です。もしそれがなければ、カーランフィルは人間の原型をとどめず即死していました。


 地獄のような苦しみで正気を失いかけ地面に倒れ込みながらも、カーランフィルはその全てを全力で耐え、血でぐちゃぐちゃになったカバンから赤いアミュレット(首飾り)を震える手で取り出し、両手に掴んで血泡を吹き出しながら唱えました。


「イルバアン(nirvana)……」と。


 その呪文と共に、首飾り型の【逆元放射装置】が起動し、夕焼けよりも紅い裂光を放つや、手から離れて浮遊しました。


 途端、右手は力無く手首の関節から丸ごと外れ落ち、床にべしゃりと音を立てて落ちました。トマトを叩きつけたようにどぼりと血が広がります。

 臓器は焼けるような痛みと痒みに襲われていますが、指で掻くと患部の皮はそのまま剥がれてしまい、指も折れました。

 もしあと数秒遅れていたら、装置は起動できませんでした。両手で持たないと、アミュレットは呪文を認識しないからです。


 逆元放射装置から放たれた紅光は中枢部全域を満たし、表象統御装置を無効化、それまで遠大に連なっていた未来的なデザインの都市群や巨大工場、目の前にある塔を含む巨大建築物の全てが、タールの少ないたばこの煙のように次々と消え失せ、ただの更地に戻りました。


 斜陽が積み上げてきた中枢システム群は、復旧システムまでもが完全にダウンし、事実上再起不能、消滅しました。


 カーランフィルは作戦を見事に完遂し切ったのです。


 しかしそれでもカーランフィルはまだやれると改めて覚悟を決めます。

 五本目の薬を飲みますが、胃に開いた穴とお腹の傷から全て流れ出してしまいました。

 それでも肉がズタズタに崩れていく自分をゆっくりと立たせて、表象統御装置に依存していない、残存している実在施設を刀で破壊し続けました。また無効化されたとはいえ、表象統御装置自体もまだ残っています。それを補助する電源部や駆動回路も実在物として現存しています。

 カーランフィルは刀を振るい、残存する重要インフラを命尽きるまで破壊していきました。


 そこにまたしても新たにVM54ビヒモス戦車が現れました。距離は数キロしかありません。モーター駆動だったためか、あるいはカーランフィルの聴覚が失われているからなのか、カーランフィルは戦車の接近に全く気づけませんでした。

 この戦車は対魔導防御装置以外は閉じたシステムなのでこの状況下でも十分な戦闘力を維持していました。乗っていたのはケンとハルです。

 ケンがカーランフィルめがけて砲撃をしようとした──その時、上から崩れ落ちた施設の構造物が戦車の砲身に直撃、その衝撃で放たれた徹甲弾はカーランフィルから四百メートル離れた場所に命中してしまいました。

 また戦車が構えている場所も次々と崩れ始めており、照準がきちんと合わせられません。

 尚も鋭い剣捌きで次々に施設を破壊していくカーランフィルは、そのまま全身全命をかけて最後の一撃を戦車に振るいました。

 全く同じタイミングで、ケンも砲撃を放ちました。

 ケンは思考加速装置によって、カーランフィルは過集中によって。


 お互いに攻撃がスローに感じられました。


 斬撃が戦車の装甲をえぐっていく感じが、装甲状態検知器を通じてケンの脳に伝っていく中、ケンは死を覚悟しました。結果はよくて相打ち……いえ、こちらの砲撃はシールドで防がれ、相手の攻撃で戦車は両断、完全な敗北……と加速された思考の意識下で予想しました。

 ──ですが──

 魔女は命中弾をシールドで防ぎませんでした。直撃です。戦車は左側を縦に斬られましたが、途中で斬撃が止まったため乗員に被害はありませんでした。


 ケンは一瞬動揺しました。

 相手の方に防御の魔法陣は見えず、血飛沫と細々とした「何か」が四散していくのだけが見えたからです。 

 ケンはこの正体不明の魔女について、思い当たる点があったことを思い出しました。というのも、魔女にしては動きが変だったからです。飛行魔法を使うわけでもなく、かといって走りもせず、ふらふらと歩き回るような動作を繰り返していたことを。落下物や足場の不安定さに邪魔されはしたものの、照準妨害魔法もなく、火器管制装置で砲撃を当てるのはケンにとって簡単なことでした。


 魔力反応はありません。魔女ならば既に魔力切れで朽ち果てているはずです。

 にも関わらず、黒い四角形のトラッキングカバーは表示されたままです。つまり、あの魔女はまだ生きて動いているということでした。

 ケンは震える指で機材を操作して、恐る恐るトラッキングカバーをオフにした途端、声にならない声を出して戦車の操縦権限を緊急運転モードへ切り替えるや、運転をオーバーライドして、魔女のいる場所へ向かって全速力で走り抜けました。

「ケンさん⁉︎」

 操縦権限を上書きされたハルが動揺気味に声をかけましたが、ケンには全く伝わっていないようでした。

 ケンはついにヘルメットを放り出しハッチを開けて、正面装甲が五分の一だけ斬られた戦車から飛び降り、全速力で魔女に駆け寄り、そしてじんわりと涙を浮かべました。


 魔女はつんざくような、しかし肺が傷ついたせいでうまく呼吸ができないのか、かすれた声で叫んでいます。若い女の叫び声。どこかで聞き慣れたような声色です。近づくにつれ、声がはっきりと聞こえて来ました。

 何度も繰り返される「痛い」という叫び声が。

 ジンは更に早く走り続け、そして立ち止まりました。大粒の涙が次々とこぼれ、ケンはそれを止めることができませんでした。


 一歩ずつ進むにつれ見えてくる、肌と衣類の境目がなくなりボロ切れのようになった魔女の相貌。

 そしてケンは更に涙を浮かべ、「自分がしたこと」を知った時、ケンは絶叫しその場で膝を崩して慟哭しました。


「なんでッ、こんなところにいるんだ⁉︎」


 ケンが撃ち落とした魔女──それは自分の娘でした。

「レナ、レナ……! どうして、なんでこんな……本当にごめんよう、ごめんなさい……ごめんなさい!」

 砲撃によって魔女の身体の右半分は地面に散らばっていました。

 心臓と頭と左半分の身体は身体強化の魔法によって未だに命を繋いでいますが、全身を文字通り引き裂かれた痛みは、カーランフィルにとって無限にも思える激痛、地獄そのものでした。


 間髪入れず、ケンは涙をこぼしながら、鬼のように鋭く血走った目つきで周囲に散った「レナ」を必死に拾い集めます。


 砕けた肩甲骨が見える背中、へし折れて何本も骨が飛び出している左手、五十メートル以上遠くにあった太腿から下の脚、くるみの実を軽くすり潰したようにねじれて割れた骨盤とそれにへばりついた膜と粘液、散り散りになり、もはや何がどうなっているのか見当もつかないほどに裂けて潰れた内臓……ケンが大声を上げ、どれほど多くの涙を流しても、どれだけ丁寧に掻き集めても、それらは真っ赤に染まった手指の隙間からどろどろとむなしくはみ出して流れ落ちていきます。


 ケンは愛情と後悔と自暴自棄と贖罪意識、そして今すぐ回復の魔法でレナが元気になってほしいという叶うはずのない妄想で、頭の中がぐちゃぐちゃになっていました。


 激痛が走り更に身体が崩れていく中、カーランフィルの意識と痛みは、脳内に残っている血液の量と共に徐々に薄れていきました。

(聞き覚えのある声がする……なんで……? もう、わからないや……動けないし、疲れちゃったよ……)


 ケンは泣き続け、石像のように動きません。


 その時です。


 中枢部の上空を通りがかった宝石の魔女が「よく頑張ったね あとは任せて」とカーランフィルの意識に直接呼びかけました。


 カーランフィルはもう白濁して見えなくなった左眼を見開き、心の中で喜びました。ここまで頑張れたことと、それを労ってくれた先輩に感激し、そして安堵しました。

 カーランフィルの心は、その全てが隙間なく満たされています。死の間際に流した涙は、苦痛ではなく歓喜でした……。


 先輩たちに希望を託し終えたカーランフィルが、そのまま安らかに死を迎えそうになった時です。バラバラになった身体が突如としてみるみる再生していきました。骨が伸びて組み上がり、散らばった肉は束ねられ膨らみ、皮膚が浮島から大陸へと成長するように面積を広げていきます。

 なんと、宝石の魔女が肉体の時間を戻す強力な再生魔法を唱えてくれたのです。


 カーランフィルは、園で先輩らが話していた毒矢の喩えを思い出しました。


 ケンは号泣し、宝石の魔女に感謝しっぱなしです。


 しかし次の瞬間、ケンたちは何もない灰色の空間へと瞬間移動させられました。正確には、空間を走る列車の中でした。

 そこには無数の兵器と工場設備──ニュクストルが作った物全て──と、結界内にいた人々全員が集結していました。

 そしてケンや兵士、住民の全員の脳裏にニュクストルが現れました。ニュクストルは兵士たち全員に、「状況を抜けるには最終決戦するしかない」と宣言しました。

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