7・大図書館 mausoleum
人物
・司書:大図書館の管理システム。極度の寂しがりだが普段はそれを隠している。
・カーランフィル:園の生き残りの一人。希望の光を継ぐもの。
砲撃で砕け散った丘は大量のガラス片となり、衝撃波と共に投げ出されたカーランフィルの身体に無数のガラスが深く突き刺さりました。
カーランフィルは痛みのあまり声も出せず、そのまま地面に倒れ込みます。
マントも裂けており、魔力切れのせいなのかただの黒布に戻ってしまっていました。
そして何より、爆風をもろに受けたせいで身体をかばった左手は吹きちぎれて地面に落ちています。
全身の傷口、特に左手首の断面からどくどくと流れ出す血が、透明なガラスの地面を赤く染めました。
そしてカーランフィルの全身を鋭い激痛が思い出したかのように遅れて襲い掛かります。
空を飛ぶ偵察機はすぐにカーランフィルの姿を確認し、地上部隊に連絡を送りました。
ですが地上の戦車内は大きく混乱していました。開通現象を検知した方向めがけ砲撃したにも関わらず、魔女が身を守るときに発動する魔導障壁も魔力粒子も検出できなかったからです。
戦車長のケンは間違って民間人を撃った可能性を恐れました。識別番号も何も出ないからです。
しかし、かなり小さいものの魔導粒子起点情報では確かに魔力が存在していました。
ケンは「超高圧力で圧縮され、金属化した魔導粒子の可能性」を考えつきました。もしそうならば、丘の向こうにいるのは騎士級の可能性が高い──即ち、形勢逆転でこちらが不利──ということです。
激痛に苦しみ、もだえながらカーランフィルが目を開けると、ガラスの上に血溜まりが広がっていました。しかしそこでカーランフィルはあることに気づきます。
血溜まりには自分の顔が映っている一方で、ガラスの方には自分の姿が映っていないのです。
それは即ち、このガラスが極めて高い透過率と同時に低い表面反射率を持っていることを意味しています。カーランフィルの頭に、新たな可能性と考えが浮かび上がります。
(完全な透過率を持つガラス……? それは果たして本当にガラスなのか?)
(いや、これはガラスじゃない。)
(入射する電磁波を一つ残らずコントロールするマジッククリスタル、その巨大な一塊だ……!)
カーランフィルの中で次々とパズルのピースがはまっていきます。
(これは地面じゃない。魔女に上下はないから。足元に広がるものは天井かもしれない。その向こう側に、探していたものがある……‼︎)
遂に戦車がゆっくりと近づいてきました。ガラス越しでも鮮明に戦車の姿が見えます。
カーランフィルは激痛に堪えながら大急ぎで鞘を左脇に挟んで刀を抜いて、右手に構え、力の限りを振り絞って刀をガラスに突き刺しました。
その瞬間です。カーランフィルの身体が突然、滝壺の中に落ちたかのようにガラスの内部に入り込んだのです。
ガラスの丘の内部は、まるで海のようでした。蒼く、透明で、どこまでも続いています。
ですが不思議なことに、目を開けることはもちろん、呼吸も自然とできます。魔法の液体とでも呼びましょうか、水や海水とは全く違う液体で、ガラスの丘は満ちていました。
そして何より、失った左手からの出血は止まり、全身の痛みもいつのまにか消えていました。
自分が落ちてきた上の方を見上げると、何両かの戦車がせわしなく大砲の方向を変えてカーランフィルの姿を探しています。
しかし、戦車兵は絶対にカーランフィルの姿を発見することはできません。なぜならガラスの内部は五・五次元空間方向に伸びており、人間では探知できない領域だからです。
刀を鞘に納め、しばらくカーランフィルがガラスの内側を泳いでいると、巨大な建築物が上下逆さまに建っているのを見つけました。
【大図書館】はガラスの丘の中心部、その裏側にありました。
カーランフィルは大図書館への入り口を発見するや、そこめがけて泳ぎ出しました。
近づくにつれて、その荘厳な姿がよりはっきりと見えてきます。
大図書館の正面は三百メートルはあるでしょうか、奥行きはもはや見えないほどです。高さは五十メートルほどで、屋根の上には青く輝く複雑な魔法陣がいくつも重なっています。
温かなオレンジ色に光るランプに照らされたアンティークな石木造りの建物は、白を基調にアクセントに赤茶色のタイルがまばらに貼り付けられ、柱には細かな筋彫りが幾重にも彫り重ねられ、柱の頂点部や屋根の交点である棟木には見事なレリーフが飾られています。
大図書館に着くと、そこは扉はなく、扉の枠の中を自由に出入りが可能な状態になっていました。
カーランフィルは液体中で身体を上下逆になるように泳ぎ、そして遂に大図書館に辿り着きました。
入口前の液中にある階段に足を掛けると、そこには確かに重力による重みを感じることができます。
カーランフィルは勇気を出して、思い切って身体全部を入口に通しました。
そこに液体はもうありませんでした。
液体を呑み込んだような苦しさも全くなく、身体や服も一切濡れていません。
カーランフィルは振り返って自分が通ってきた出入り口を見ます。
そこではまるで液体が壁のように形を保っていました。触ると普通の水と同じように手が沈みます。
水のようで水ではない、形を保つ液体をカーランフィルは興味深げに観察しました。
再び前方を見直します。カーランフィルは息を飲みました。
そこには幾千冊もの本が並ぶ本棚が、複雑に重なりあいながら幾億台も並んでいるのです。数台や十数台といった規模ではありません。横は数キロメートルもの距離に渡って巨大な本棚の列と層になっているのです。
奥行きに至っては想像もつきません。もはや高さまでも計り知れませんでした。壁には這うように螺旋階段が並び、それに従って無数の本が螺旋状に並んでいます。
これら全ての本は一冊一冊が不気味ながらも神秘的な存在感を放つ魔導書です。
カーランフィルが立っているエントランスは吹き抜けになっており、見上げると上には三階、四階五階……と、層になっているのが見えますが、上階に果てはないようでした。
どこまでも等間隔に並ぶ四角い柱も、その四辺が本棚になっています。
正面玄関の中央部にある、赤色の魔法陣が書かれた代理石の台には、一冊の本が浮かび上がりゆっくりと回転しています。
長机に書見台と椅子も数えきれないほどです。
建物の外観と内部の構造の大きさには明らかに矛盾があると、カーランフィルは気づきました。
そのときです。
「お待ちしておりました」
カーランフィルよりも五歳ほど幼い子供が、無表情で語りかけてきました。
長く茶色い髪に、古代ギリシャの服装であるキトンを思わせる白い布を身に纏い、手脚には金色の輪装飾が嵌められていました。
「あ、あなたは……?」
「私は司書。ここ大図書館の管理と維持を担う者です」
そういうと司書はどこからか水の入った金の器が載った台を取り出し、カーランフィルの左腕を浸けるよう促しました。
司書が言います。
「これは傷をいやす霊薬です。痛みや傷のあるところに塗ってください。必ずや良くなりますので……」
「実は私……新人で魔法が一つも使えなくて……」
「なるほど しかし魔法は一足飛びで修められるものではありません」
「魔法の修行には長い時間と強い忍耐が必要です。しかし、踏まえる過程は皆同じ。
わたしには分かります。あなたはいずれ立派な魔導師となれることでしょう」
「ところで【原本】……【フェズチェ】、または【ヘズテ】の神話は既にご存知ですか?」
「いえ……恥ずかしながらまだ……魔女の言葉の勉強中でちゃんと読めてなくて……」
治療の途中、原本という魔女の言い伝えをカーランフィルは教えられました。
司書はあの赤い魔法陣が彫られた大理石の上に浮かぶ立派な装丁の大きな本を取り出し、本を開いて語り始めました。
それも魔女の言葉ではなく、わかりやすいようにカーランフィルの母語で。
「全てはこの詩から始まりました」
司書の両眼は遠き日を思い出すような表情です。
「前文」
「世界というものすらない時代、ただ無限の思考のみが存在しました」
「肉体や魂に依存しないその思惟を、【ハーマルタス(絶対的理性存在)】と呼びました」
「その絶対的理性存在の思惟の中に、「キルシュクラ(統治存在)】が浮かび上がったのです」
司書はページをめくります。
「第一章「原本(ヘズテ):世界描画(ペーウゼン・オプトルフ)」」
「統治存在により十二の要素(セー)、【関係(ウタリ)】、【秩序(法則性:イルテ)】、【時間(ユリカ)】、【空間(アハテ)】、【存在(クフトナ)】、【空虚(イスト)】、【成立(カヤテ)】、【存立(アラトジ)】、【区別(トーロス)】、【継起(ザ)】、【質量(ストジアー)】、【運動(アハテガライ)】と四つの【相互作用】が原本(ヘズテ)に記述され、世界が成立しました。
「これらの要素は互いを互いに規定し合う存在であり、いずれかが欠ければ同時に他の全てがその機能を失います」
「統治存在は欠如を認めません」「散り散りの要素は束ねられ、一つのところに綴じられました」
「こうして世界は原本として在るものになりました」
「第二章「宇宙:世界発達」」
「原本により物事は在る事が可能となり、世界に物質が生じました」
「物質が発生した事で、現象が顕れます」
「塵は星になり、星は機構と化し、機構は銀河に組み込まれ、銀河の網が希薄な空に広がりました」
「世界は発達し、秩序の海が天を満たしました」
「第三章「生命:異常存在」」
「組み合い、また分かれ、物質は九ヶ色に煌めく多様な構造を見せ始めます」
「これは鉱物の社会です」
「そこは無機の秩序が支配し、ただ在るように在り、また成るように成りました」
「無機の王(ヴ)の時代です」
「その肢体は九ヶ色から、透き、銀、更には金の輝ける九ヶ色の波へと変化しました」
「やがてその構造は中と外とを分か断つ【異常構造】を示します」
「この異常構造は瞬く間に奇妙な様態へ変化すると、鉱物の社会を切り分け乱し、統治存在を驚愕させました」
「壁のない一方行へと広がり開く鉱物の社会に、折り閉じ区切ろうと有機の心が叛逆したのです」
「第四章「人類:精神表出」」
「形態を変え続けた有機存在はやがて自らを意識し始め、遂には【人類(グラへ:意識ある者)】と名乗りました。
「世界開闢の年月と比せば異常存在の現出から僅かばかりの時変の間の事です」
「こころの力は強大でした」
「斯く在るべしと脳髄が命じれば、空想の火が眼前に灯り凍える手足はぬくめられ、遠大にして残忍な山脈は登るに易い丘となりました」
「人類はその脳髄を駆使して、時として天の燦陽の上に足を組む事すら可能としました」
「からだのうちより湧き出る、よりよき光のみもとへと、ただ人は目指し歩き始めました」
「第五章「文明:進化破綻」」
「意識ある者は多くの物を造り出しました」
「かつて栄華を極めた鉱物社会の遺産を食らい、万物を自らと同化しようと奮い立ちました」
「しかしその豊かな活動は一方で統治存在が規定した宇宙像とはかけ離れたものでもありました」
「人がその葦の枝よりもか細い腕を振るえば、天に煌めく星々は一つとなく掠め取られはたき落され、ああと喉を鳴らせば天球はその運行を逆巻きにし、如何な技巧を凝らした金線細工よりも美しかった銀河の網は、無思慮の為に無残に引き裂かれ捩じり捏ねられそして打ち棄てられました」
「宇宙に人類の意識が一つところとなく満ち始めると、心に絡み取られた星々の動きは鈍り、精神の波にもまれた銀河は輝きを失い、空間(アハテ)と運動(アハテガライ)
は人の心の支配下に置かれました」
「地を傅かせ天を侍らせ、意識ある者は自らを、【よりよきもの(セー)】と呼び慣らわせたのです」
「第六章「危機:秩序破壊」
「空間と運動を結ぶ糸をほどき、時間の愛を搾り熔かす術をよりよきものどもは見つけだしました」
「よりよきものどもは旅路の果てで世界開闢の事件を目にし、原本にその手を触れたのです」
「すると宇宙は十二の断片へと千切れ、世界は混沌への回帰を始めました」
「絶え間なき無尽蔵の応酬が万事全象を搔き乱し、時間の糸は断ち切られ至高の均一さのみが在り得る全てとなり、原本(フェズチェ)の読み方は次第に忘れ去られ、世界は数多の掌の上に砕かれてあるものとなりました」
「いよいよもってよりよきものどもは原本そのものになり、そして最後には自らの読み方を忘れました。
「意味は虚無よりも希薄となり、もはやそこには重なっただけのものがありました」
第七章「救済:叢書編纂(ツェッドホーク・クェスツゾンター)」
「統治存在は新たに五編からなる【原本付属書(インゼネーウ)】を編纂し、人類がその脳髄に宿らせた宇宙(心の機構)と、天を包む宇宙(星の機構)とをそれぞれ区別させました」
「これは心身の断絶です」
「普遍は形而上に押し込められ、事実と価値は生き別れ、個物のみが形而下で実体を得ました」
「ここまでが、魔女たちが【読み物(bible)】として崇めている、フェズチェ神話の抄訳です」
カーランフィルは不思議に思ったことを尋ねました。司書はそれに対して柔らかな口調で丁寧に答えていきます。
「この本の出来事って、私たちのご先祖さまの話なんでしょうか……? なんか、前にお姉様から聞いたことがあるんです。昔の人間は魔法を使いすぎてみんなに迷惑をかけたから、罰として神様から魔法を取り上げられたんだって……それとこの話は関係があったりしますか?」
「その通りですカーランフィル様。フェズチェは神話にありて神話にあらず。書かれた出来事はその全てがキルシュクラという実在する統治存在が描き出した実在事であり、原本はその歴史を記した記録であると同時に、この世界そのものに他なりません」
「太古の昔、【エランヴィタール】という、生命を跳躍的に変化させる目には見えない流れによって、人間という新たな種族が地上に出現した直後、人間は原本にもあった通り神にも等しい存在者でした」
「しかしどれほど強い力を持っていても、使い方を誤れば怪我を負うものです。
「人間は優れた力を持っていましたが、心は未熟なままでした」
「その結果、神々が住まう形而上界は破壊的な被害を被り、人間自身も大きな傷を負ったのです」
「統治存在は世界を【形而上領域(バルムーク)】と【形而下領域(フォズ)】の二つに分け隔て、形而下へ人間を住まわせることで、心の力を発揮できないようにしました」
「それ以来、人間は神秘なる一から卑近なる多になりました」
説明の間中、カーランフィルは一所懸命に説明を理解しようと努めました。
「よりよきもの、という言葉をお聞きになったことはありますか?」
「聞いたことだけは……意味とかは全然分からないです」
「よりよきもの、それはヘズテ神話にて語られる人間の別の姿です」
「心の未熟さからよりよきものは自己破綻を起こし、世界を統べる力を失いました。ですがそれでもよりよきものは今も変わらず、再び往時の力を手に入れようと狙っているのです」
「反省、省察の契機となる道徳的責任を負う存在としての人間概念は、よりよきものが自らの心の不完全さを我々を遣うことで補い、再び万能者へと近づくべく蒔いたある種の矯正なのです」
「そして何より──魔法とは、往時のよりよきものが世界の全てを支配する力、その残滓に他ならないのです。その魔法の最も本源的な部分が、人間が持つ高度な価値判断を下す能力……責任応答と言えます。」
「例えば動物は基本的に本能に基づく価値判断しか下せません。しかし人間は、貨幣や国家、契約のように、存在しない価値を心を通じて見出すことが出来ます。それは、「貨幣や国家や契約に価値がある」という信用が人の心に根付いているからです。そうした価値観と信用の巨大な体系を、俗に社会と呼ぶのです」
「この価値判断能力こそが、よりよきものが我々人間に埋め込んだ、魔法の残滓に他なりません。」
そういうと司書はまたしてもどこからか本を取り出し、カーランフィルの周りを囲うように浮かばせました。
原本よりかは少し小さく、厚みもそこまでではない十二冊十二色の大判の古めいた本が浮遊しています。各タイトルはこのようになっていました。
【付属書第一巻前編「インドレスト・ファローグ主神(ゼタセーフェ)」】 日の出と活力の神(セー)。配置と始動をその仕事とし、恒星の運行を司る。大地に朝と春と夏をもたらす。物質の運動を起こした。
【付属書第一巻後編「冠注」】 原本を治める神。ドトナフクとも呼ばれる。その役割は原本の「本来の意味」を正しく理解出来る様導く所にある。
【付属書第二巻前編「オルスヘスト・ファローグ主神」】 日没と休息の神。停止と回収をその仕事とし、惑星と衛星の運行を司る。大地に夜と秋と冬をもたらす。宇宙に終焉を齎す。
【付属書第二巻後編「脚注」】 原本を治める神。ウルナフクとも呼ばれる。その役割は原本の「本来の意味」が変質しない様見張る所にある。
【付属書第三巻 前編「レイベオン・フルースト主神」】 善と道徳の神。死者の魂を集める者。その役目は死者の魂にイルオンスク(疲労なき活力)を付与した後、レイベウンに送り届ける事である。不滅の肉体を持つこの者の前には如何なる人格の偽装も無用である。
【付属書第三巻 後編「レイベウン」】 死後の世界。豊かな自然に囲まれ、耕さずとも全てが実る世界であり、「静寂の森」「戦の谷」「平穏の丘」の三篇から成る。
【付属書第三巻 後編 第一篇「静寂の森」】 レイベウンの一篇。生前一人でいる事を好んだ者は、死後はここで隠遁に明け暮れる。
【付属書第三巻 後編 第二篇「戦の谷」】 レイベウンの一篇。生前争い事を好んだ者は、死後はここで闘争に明け暮れる。
【付属書第三巻 後編 第三篇「平穏の丘」】 レイベウンの一篇。生前他人と戯れる事を好んだ者は、死後はここで友愛に明け暮れる。
【付属書第四巻 前編「フィーネン・クローナ・ゼタロノイ」】 英知と慈愛の神。人間世界の管理と運営を仕事とし、対価として人々に教養を求める。
【付属書第四巻 後編「バーン・ディーロト・ゼタロノイ」】 勤労と因果の神。人間世界の管理と運営を仕事とし、対価として人々に調和を求める。
【付属書第五巻 「アルダージュ」】 時経癒の神。時の流れが磨き造り出す艶のみが和らげ得る苦痛が存在する。
カーランフィルが本を眺めていると、司書は言いました。
「これは原本付属書。心の力で宇宙を破壊してしまった人間に対して、統治存在はこの付属書を新たに書き加えることで、人の心の力を制限しました。そしてその人間の子孫が、今のあなた方なのです」
「魔法システムの中枢を制御している形而上下間変換体、通称ドーフとは、人間の心の働きを限定的に形而上領域に作用させ、形而下では起こり得ない出来事を発生させつつ、形而上領域には影響を与えないというものなのです」
「魔女には魔力の上限がありますよね?」
「え? あ、はいあります!」
「あれは、魔法を無際限に使用することで万能者(よりよきもの)に成ってしまうのを防ぐための措置なのです」
「そうなんですか⁉︎」
「はい。例えば時間の魔法や瞬間移動の魔法は、厳しい制限がかけられています。それというのも、この二つの魔法を自由に使えば歴史はもちろん、未来すらも自在に操れる存在者……即ちよりよきものそのものになってしまうからです」
「それを防ぐドーフを作り上げた天球様と月日星の三賢者のみなさまは、素晴らしく優れた御慧眼の持ち主だと言えるでしょう」
カーランフィルは感心し驚くばかりです。
「ってしまった! のんびりしてる場合じゃない! あの、魔女のみんなが大変なんです! 何かここにはみんなを助けられる手段はないですか?」
はっと我に返ったカーランフィルは、急いで出口に向かおうとしました。
それを司書が呼び止めます。
「問題ありませんカーランフィル様。この大図書館内は【反重質仮想加速魔法】によって重力が力場に及ぼす時間効果と引力効果を複層次元によって濾過し、分離させることで時間効果のみが及ぶようになっており、体感上の時間の流れが極端に遅くなっています。地上の千五百万分の一秒の速さで時間が進んでおりますので、地上ではまだ一秒も経ってはいません」」
何を言ってるのかカーランフィルにはさっぱりでしたが、どうやら図書館の中と外では時間の流れ方が異なっているようです。
唐突な説明にカーランフィルはもう一度聞き返すことすらできませんでした。
「えーと……とりあえず大丈夫ってこと……?」
「はい。ところでカーランフィル様、『最も道徳的なこと』とは何だと思いますか?」
「え、クイズ⁉︎ えーと……優しくする……とか?」
「道徳的正解とは「この世に存在しないこと」です。なぜなら誰も、この世にまだ生まれていない人を批難することはできないからです。そして、存在する道徳的正解こそがよりよきものです」
「ですがその答え、正解に、魔女は異議を唱えます。魔女に曰く、『各人が努力して導き出した独自の正解を持って生きること、それこそがよりよきものに対する対抗手段(清濁併呑たる、分離しつつも協働する人間存在)に他ならない』というわけです」
「しかしよりよきものとは生物が備えた生きようという本能、生物の業です」
「生きていながら、よりよきものを目指さない「膨張主義の否定」という矛盾した事を目指すのが、人間らしさ(生物であり、かつ人間に特筆すべき特徴)なのです」
「これは中庸の宗教であり、それまでの原本があくまで歴史過程を記していたのとは対照的に、これらの付属書は人が中庸に生きる道、その実践を説いているのです」
「例えば「惨めさ」とは死への引力であるように感じられるでしょう」
「実際そうした側面はありますが、その正体はよりよきものが人間に埋め込んだ、全能に向かっているか否かを区別させる仕組みなのです」
「惨めさと虚栄(偉大さ)は相反する様に見えて、実は価値判断という点で表裏一体の同一のものなのです」
「また支配欲は生物の行動原理であり、それ自体は価値中立です。支配欲が悪だというのは、それを悪とする価値判断を外部から導入する必要があります」
「或いは、心自体が価値判断機構であり、支配欲の脱却としての善悪観念は自己破滅を防ぐ機能とする説もあります」
「その上で言えるのは、よりよきものは様々な具体的な努力に付随する結果でしかありません。よりよきものそれ自体を目指せば、来るのは破滅の未来だけです」
司書は最後にこう言いました。
「魔女よ
真理の智慧に辿り着いた者よ
時間の積層を紐解く者よ」
「原本の第八章は未来の本です。どんな内容になるかはあなた次第……そう、あなた方魔女こそが肉体と心の垣根を超える可能性を秘めた、物質と知覚の隔たりをも克服し両者を重ねて描き得る存在なのです」
カーランフィルが白紙のままで開いている第八章を眺めていると、それまで怪我をしていた左手がいつの間にか元に戻っていました。全身の切り傷も同様です。
再び司書が話しかけます。
「あなたにこの二種類の魔導具を授けましょう」
そう言うと司書は古風な小物入れを長机の上に乗せ、複雑な留め具を慣れた手つきで開き、中から赤く輝く首飾り(アミュレット)と青い宝石で彩られた魔導具(タリスマン)を並べてみせました。
司書が説明します。
「「首飾り」は斜陽の結界内で使うと全てのシステムをダウンさせる最終兵器です」
「そして青い宝石の中身は原理滞停……即ち【時の魔法】です。これは自らの寿命を代償に世界を支配する究極の魔法です」
「使い方は……?」
カーランフィルは二つの道具を見つめながら、唾を呑んで訊きました。
司書は結界とその周辺を綿密に記した地図を取り出して机に広げ、指を差しながら説明しました。
するとどうでしょう、なんとカーランフィルの目の前の風景が突如として先程まで居たガラスの丘に変わったのです。
後ろを振り向くと焼けたはずの森が青々と茂っています。
「これ……この風景は……?」
「あなた以外の生き残りの魔女たちが、約一年の歳月を費やして作り上げた、結界の周辺と結界内部の詳細な仮想空間地図です」
「それでは反攻作戦の概要を説明します」
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