5・不条理の果て The expulsion
人物
・カーランフィル:自己肯定感が弱く、自殺願望がある。まだ魔法は使えない見習い。
・天球:園の創立者。全てのシスターの指導者でもある。
その頃、山深い森の中、マントを被る一人の少女が刀を腰から提げながら、鬱蒼と茂る木々や草花を分け入り奥へ、奥へと、進んでいました。
少女の名はカーランフィル。
百二十四人いたシスターたちの中で最末席であり、シスターたちの中で唯一、基礎魔法が使えない「ふつうの人間」でした。
苔むした巨岩の横で、カーランフィルが水筒を口の上で逆さまにして軽く振りますが、何も出てきません。
「はあ……はあ……水…なくなっちゃった……」
ぽつりとつぶやきました。
基礎魔法さえあれば、空気中の水分から水を作り出すのも容易でしたが、その選択肢はカーランフィルにはありませんでした。
可能な限り水を節約しながら飲んできましたが、二日近くも歩き続け、いよいよ限界となってしまったようです。
陽も傾き始めています。
それと共に周囲の木々の色は幹の茶や鮮やかな緑から、飲み込まれそうな黒へと変転していきます。
遂に歩き疲れて限界が来たのか、カーランフィルは大きな木のそばで座り込んでしまいました。
周囲の雰囲気がうすら怖くなるにつれ、カーランフィルの気持ちも沈み込んできました。
カーランフィルの心の中に、疑問と後悔、そして先輩たちへの申し訳なさが次々と浮かび上がり、頭の中を、押し寄せる自虐の荒波が支配していきます。
(なんで先輩たちは自分なんかのために頑張ったの?)
(私に守るだけの価値なんてあった?)
(みんなが命をかけるだけの意味が、一体この私のどこにあるの?)
(尊敬する人たちが私のために力を尽くしてくれたのは本当に嬉しい。感謝してもしきれない。でもそれが苦しい。みんなの偉大さを知っているから余計に絶望が深くなる)
(私はみんなの頑張りを否定したくない。けど正直、客観的に考えて、私なんかのために死んでいったのは無駄でしかない。私が死んで、もっと優秀な先輩が生き残った方が絶対によかった)
(思い返せば私は人間だった頃と何一つやってることが変わらない。けど、園のシスターになってから環境は百八十度変わった。)
(人間だった時は要領が悪くてみんなの足を引っ張って疎まれて嫌がらせをされて。空気も読めないし面白いことも言えない、コミュニケーションだって全くできない。そのせいで私はずっと孤独だった。)
(けど園に入ってから、先輩のみんなが手を取って私を仲間だと言ってくれた。誰一人私を疎外しなかった。)
(私はここにいていいんだ、生きてていいんだって、初めて心から思えた。)
「う……うわ…あ……」
溢れ出る感情と涙──感謝と罪悪感と自己嫌悪に心が耐え切れなくなり、遂にカーランフィルはおしりを地べたにつけて刀を地面に落とし、大きくえぐれた岩の下で泣いてしまいました。
自分に託された希望の重さに耐えきれず、カーランフィルはただ逃げたいという気持ちで頭の中が掻き回されているような感覚に陥ってしまいました。
陽は完全に落ち込み、もはや歩けるような状況ではありません。更に雲は厚く、まるでカーランフィルの苦しみを笑うかのように雨まで降り始める始末です。
何も見えない暗黒の中、聞こえるのは雨の音と、葉っぱにたまった水が落ちる音、そしてカラスやカエル、虫の鳴き声です。
うずくまったカーランフィルは手足の感覚が少しずつなくなり、宙に浮いたような錯覚を覚えました。その感覚は次第に全身に広がり、カーランフィルはもはや自分がどこにいるのかさえ分からなくなってしまったようでした。
泣き疲れたのか、日中の徒歩で体力が尽きたのか、気がつけばカーランフィルは涙の跡を頬に残したまま、マントに身体を丸めて寝てしまいました。
次第に強くなってきた雨をよそに、カーランフィルは自分が園に入ったばかりの頃の夢を見ていました。
*
「魔女」や「魔女集会」などと人間から呼ばれる以前、この集団は【園(その)】と呼ばれていました。
そこは性暴力やDVから逃れた被害者(サバイバー)らが共同生活を行なう非営利のシェルターでした。
特徴的なのは、園には男性が一人もいないという点です。
「袋の中の毒入りマシュマロ」という例え話があります。マシュマロは外見だけだと中身に何が入っているのか分かりません。迂闊に食べれば、毒を口にしてしまう可能性もあります。
そうした場合、どうすればいいでしょうか?ある人々の出した答えは「袋ごと捨てる」でした。
同じことは男女の関係にも言えます。女にとって男は「誰が性犯罪者か区別がつかない」という点で毒入りマシュマロと同じなのです。
例え性犯罪被害者の男であっても関係ありません。男である時点で、意図の有無を問わず女に対して性犯罪を起こす可能性は十分すぎるほどに高いからです。
Y染色体を持っている──それだけで、園が男子禁制の方針を取るには十分過ぎました。
*
シェルターに逃げ延びた人々の暮らす主な場は、園内に建てられたアンティーク調の大邸です。それは古風な木石の四階建ての立派な【大邸(おおやしき)】でした。
建材の石は大地のかみさまから賜り、木は倒木や立ち枯れを森のかみさまからお赦しを得て運んできたものを使っています。
屋根には無数の細かな銅鈑が積み重ねられ、見事な曲線が複雑精緻に造られています。
これもやはり、大地のかみさまから贈られた銅鉱石と錫鉱石を、山のかみさまがくれた黒鉄のように立派な木炭と、火のかみさまから授かった聖火をそれぞれ使ってこしらえたものです。
大邸の奥には短い屋根がついた憩いのテラスがあり、そこから見える風景には立派な庭園が広がっており、数えきれないほど様々な種類の植物が花開いていました。
石畳は綺麗に磨かれ、そのふちは細かな赤い石が隙間なく嵌め込まれていました。
その庭園を囲うようにして新しく建てられた宿舎が並び、それぞれがカラフルな花崗岩のタイルで美しく彩られています。
庭園の中心で、百人以上の年齢様々な女たちが囲う中、カーランフィルは新米として挨拶をする運びとなりました。
園の代表者である「天球」が、その長い黒髪を翻してカーランフィルを皆に紹介しました。
「今日から新しくシスターズの仲間(フッド)になるカーランフィルです。カーランフィル、あいさつを」
大勢の人の前で声を出すのは学校以来初めてでした。カーランフィルは震える肩を無理やり抑えつけ、どもりながらもなんとかあいさつをしました。
「カーランフィルです……よ、よろしくお願いします……」
カーランフィルとは洗礼後に授かった聖名です。本名は過去や俗世と共に捨脱されました。
その日から、カーランフィルは生まれ変わったのでした。
*
丁度昼食の時間でしたので、カーランフィルの歓迎会は食堂で開かれました。
カーランフィルが人生で初めて見るほどの大きな調理場では、姉たちが大忙しで次々と食器を運び、大鍋を洗い、味見をしていました。立ち上る湯気と焼かれた食べ物のいい匂いが厨房を満たしています。
見事に研ぎ澄まされた包丁の並びは見るだけで震えそうなほどに丁寧に磨き上げられ、極めて鋭利でした。
厨房にはなんと、代表者である天球の姿もありました。腕をまくり、水色のエプロンを身につけ、髪を結わいつけたその姿は、格式高く近寄りがたい先程とはまるで大違いな、親しみやすく明るい雰囲気を感じさせるものでした。
厨房に大勢いる仲間たちの一人、チュリパンが、赤紫色にたなびく髪を長いツインテールにした姿で「お、さっきの新人ちゃん? ちょっとそこのお皿とフォーク、並べておいて!」と言いました。
カーランフィルは「な、並べる……はい」と返しましたが、カーランフィルは食器を持って右往左往するばかり。その姿を見たチュリパンは心配そうな声で「大丈夫かー? 食堂のテーブルに並べるんだぞー」と声をかけました。それに対してカーランフィルは何かに怯えながら「え、あ、ご、ごめんなさい」と言い、食堂の方へ歩いて行きました。
アラベスク風模様の壁紙が四面に貼られた、立派な食堂の長卓には既に幾つかの料理と食器が並んでいます。カーランフィルはそこで、肉類が邸のどこにもないことに気づきました。カーランフィルの横に立った天球は言います。
「私たちは肉を食べません。命はかみさまのものだから、お赦しを頂いている植物だけを食べて暮らしています。それともやっぱり、お肉も食べたかったですか?」
「い、いえ! 野菜は好きです。お肉は殺されちゃった生き物を思い浮かべちゃって……」
「私もそうです。けど、忘れないで欲しいのは、私たちは“偶然”菜食だけで満足できる感性を持っていただけであって、世の中にはお肉がどうしても必要だったり野菜が苦手な感性を持っている人もたくさんいるということ。そういった人たちのことを忘れずにいてほしいです」
そう言いながら天球はカーランフィルの食器を半分受け持ち、一緒に並べてくれました。
食堂の長く大きなテーブルには、彩り鮮やかな料理と金でふち取られ美しく飾られた食器が人数分、並んでいました。
柔らかな大根のステーキ、大きなキノコのオリーブソテー、蒸したじゃがいものにんじんソース和え、ネギと蓮根の串焼き、豆がたくさん入ったカラフルなスープ、幾つかの果実を砕いて絞ったフルーツジュース……その他も名前が分からない料理が沢山です。
みんなが着席したのを確認した天球は、植物の命と、それらを賜ってくれた神様に感謝すると、声を合わせていただきます、と唱え、食事を始めました。
歓迎会は大いに盛り上がりました。
最初は緊張気味だったカーランフィルも次第に場に慣れたのか、少しずつ周囲と話せるようになりました。
チュリパンがカーランフィルに水が入ったコップを渡します。
口の薄い、綺麗な模様が付いた透明なガラスのコップを、カーランフィルは受けとりました。
「この山で採れたお水だよ。びっくりするからのんでみて」
びっくりするというのがいまいちわからないまま、カーランフィルは水を飲みました。すると。
「お、おいしい⁉︎」
「でしょ? ここの水は水の神様が下さったものだから、人間たちが山を壊して奪った水とは全然違うの。 このお水があるから、私たちは紅茶やコーヒー、砂糖やミルクといった、搾取することでしか手に入らない材料に一切依存せずに生きていられるんだよ!」
チュリパンは自慢げに言いました。
人見知り気味のカーランフィルでしたが、チュリパンが真面目で面倒見のいい人だということは伝わり、警戒感を持たずに接することができました。
何よりもまず、この園では誰もカーランフィルを責めません。カーランフィルに対して無礼な質問をする人や、カーランフィルを嘲笑う男たちはもちろん、気色の悪い視線を向けてくる人も、いきなり触ってくる人もいませんでした。
カーランフィルは物心ついた時以来初めて、自分はここにいてもいいんだ、と心の底から思えたのです。
*
昼食を兼ねた歓迎会は大盛況に終わりました。
まだ四時前ですが、陽は大きく傾き、真っ赤な夕焼けになりかけています。
田畑を耕し、交代で食事を作り、自給自足の生活を営む。
人目を気にして化粧をする必要も、ピンのヒールを履いて脚を痛めることも、何より男共のあの気色悪い目線も何もかも気にせずに生きていられる。
そこは女性は自由に生きれた唯一無二の理想郷でした。
みんなと一緒に片付けをしている最中でした。
皿洗いを頼まれたカーランフィルに、園の中では古株のフリザンテマが話しかけます。アジアの独特な民族衣装を毎日欠かさず着ている彼女は、園の中でも一際目立つ存在でした。
何より特徴的なのは、常に腰から提げている刀でした。
「カーランフィルちゃん?カーランフィルさん?それとも呼び捨てがいい?」
「え、あ……それは、あの聖名……じゃなくて……カーランフィルでお願いし、します」
「わかった。私のことは好きなように呼んでね」
「えっと……じゃあ、先輩でお願いします」
「うん。これからもよろしくね、カーランフィル」
「は、はい!」
「それで、今更言うのはなんだけども、お皿洗いはまだカーランフィルがやるべき仕事ではないの」
「え……そ、え」
カーランフィルの皿を洗う手の動きが止まりました。この形の切り口で話されるのは大抵、自分が既に何らかの失敗を重ねているのを注意しにくる時と同じパターンだったからです。
「あーゴメン、ごめんね。そんなに警戒しないで……って言っても変か。反射的なものだもんね」
フリザンテマは両手を開いて自分に害意がないことをアピールしました。
「もう知ってるかもしれないけど、ここは普通のシェルターとは違う」
「あ…えっと……何かある……でしたっけ」
「そう。あなたはどこからこの園の話を聞いた?」
「ここ出身の人が役所の保護課にいて…えっとそれで教えて貰いました」
「秘密がなんなのかは知ってる?」
「い、いえ、何もわからないです……」
カーランフィルは一瞬、最悪のパターン──居住の対価に不法な何かをやらされるんじゃないか──を想像し、次第に息は浅く、足は震え出しました。
「その秘密は、魔法が現実にあるってこと」
「ま、魔法?」
カーランフィルは予期せぬ言葉に一瞬混乱しました。この人は自分をからかっているんじゃないか。カーランフィルは真っ先にそれを疑いました。
「うん。それも本物のね」
そういうとフリザンテマはスポンジをカゴに戻すよう指をさしました。
「そうだね、まず君みたいな新人の子にやってもらうのは、皿洗いとかそういう家事労働ではなく、初めに魔法修行をこなしてもらうことになってるんだ」
「魔法修行……?」
まだ洗えていない重なった皿を指差しながらフリザンテマが言います。
「例えばこの沢山のお皿も……」
そう言ってフリザンテマが柔らかく握った右手を唇に近づけ、何かを一瞬だけ囁くと、それまで皿に残っていた汚れが一人でに落ちて消えていったと思いきや、今度は隣に据え置かれた食器棚へと皿が飛んでいき、見事に一枚も残さずぴったりと余ることもなく収まりました。
「お皿を一枚、今の棚から出してみて?」
そう言われてカーランフィルが棚から食器を取り出すと「綺麗……しかもちゃんと乾いてる!」
「そう。湯漬けと洗いと乾燥と収納の4つの基礎的な操作魔法をひとまとめにして作った、いわゆるコンポジット魔法の一つだよ。まあ細部の仕組みは違うけど、魔法って大体こんな感じっていうイメージだけでも掴めてもらえたかな?」
「は、はい! あの、あのえっとなんというか……おとぎ話みたいですごかったです!」
「ふふ、ありがとう。あ、魔法の存在自体は部外秘というか園外秘だから、気をつけてね。とりあえずここは私がやっておくから、カーランフィルは自室に戻ってくれていいよ」
「あ、ありがとうございます‼︎」
*
カーランフィルが自室に戻ると、既に三人のルームメイトがいました。
名前とは対照的に冷めるほどの青髪が特徴のアカシアは椅子のリクライニングに腰掛けながら大きなヘッドホンでパンクロックを聴いています。
光の加減で光輪があるように見える水色混じりの金髪にぶかぶかの黒いパーカーを着たピオンは上段のベッドに、そして窓際にはさっき別れたはずのフリザンテマがいました。
カーランフィルは驚きすぎて慌ててしまいました。
瞬間移動の魔法──まだ距離は短いですが──をちょっとしたサプライズとして、皿洗いを終えたフリザンテマが披露してくれたようでした。
この後も彼女たちのお話が盛り上がったのは、書くまでもありません。
え? もっと見せろって?
ではお望みとあらば、僭越ながらほんの少しだけご紹介しましょう。
チュリパンがりんごをかじりながら言いました。
「ちょっと、新人の子ビビっちゃったじゃん!」
「あいや、大丈夫です……でもびっくりしました。魔法?ですよね?」
フリザンテマが返します。
「うん。練習中だから大したことはできないけどね」
「うっさいなー……誰?この子」
眠たい目をこすりながら起きたのはピオンでした。
「お昼に挨拶をしたでしょう?覚えてませんか?」
フリザンテマが言うもピオンは「覚えてない」の一言。
大忙しの初日でしたが、カーランフィルは見事に仲間と溶け込み、コミュニケーションをとることができました。
園では普通、洗礼式を受ける際に、本名を捨てると同時に世俗との関わりも断ちます。
しかし、儀式をしたとしても人間であることには変わりません。当然、彼女たちは円滑なコミュニケーションと話題作りのために──或いはどこが逆鱗になるのか探りながら──お互いの来歴を語らい合うのです。
それは笑いもあれば涙や苦しみもある、剥き出しの人生を披露する場です。一見すると粗雑で、プリミティブなやりとりに見えますが、そうした交流の積み重ねによって、彼女たちの絆は何よりも強く深くなるのです。
その日は就寝時間まで、三人の中で最も先輩のフリザンテマが率先して身の上話をしてくれました。
寝巻きに着替えながらフリザンテマが語ります。
「私の故郷……故郷と呼ぶことすら忌むほどに穢れた土地だが……そこでは学校に通っている生徒が妊娠すると、半ば強制的に退学させられていた。その上男の方はお咎めなしとくる。ふざけた話だ」
「うわそれ知ってる。退学させる意味がないじゃんね」
アカシアがうなずきます。ピオンも、どこか賛同するような目つきで話を聞いていました。
「そう、やめさせる理由がない。学校を継続できる方法は幾らでもあるのに。それどころか復学すらも認めないんだ。性についての伝統を破った罰か?それならなぜ妊娠だけが特別視される? それも女子だけ。結局逃げているだけだ。大の男の大人が責任からな」
「あ、それ……自分も考えたことあります!」カーランフィルが喋りました。
「その……えと、なんて言ったらいいのかな……」
「大丈夫。ゆっくりでいい。話してみて?」
「う、産まれる子供の将来を考えたらむしろ、母親になる生徒の学歴……というかなんというか、学力はあったほうが良いと思うんです。だって、中高でドロップアウトさせたら、子供がいるのに就労可能性というか……うーん……むずい、経済的……な自活能力?が損なわれるじゃないですか」
「カーランフィルの言う通りだと思う」
フリザンテマが相槌をうって賛同します。
「子供を育てる環境としても、母親がより教育を受けている方がドロップアウトしちゃうよりずっと良いと思うんです」
周りの仲間たちがカーランフィルの話にすっかり聞き入ってしまい、その通りだとうなずく中、二段ベッドの上からピオンが突如降りてくるや、無言でカーランフィルの手を取って、力強く抱きしめました。髪の毛の隙間から見えた耳には何個もの黒いピアスが付いています。
本人に訊くまでもなく、ピオンの目は親友に向けるそれと同じくらいの潤んだ輝きを放っていました。
*
その夜、カーランフィルは珍しくうなされることもなくすぐに寝入ることができました。
それはまるで俗世の苦海から救われた衆生のように。
それからというもの、魔法の練習も兼ねて先輩たちは田畑を耕しては交代で食事を作り、一方でまだまだ未熟な後輩たちは先輩を目指して瞑想や魔導理論の座学に励んでいました。
園ではシスターたちは、完全に調和された──それでいていつまでも青春のような──自給自足の生活を営んでいました。
人目を気にして化粧をする必要も、パンプスやピンのヒールを履いて脚を痛めることも、男を喜ばせるためだけに健康を損なって努力をすることも、男共が向けてくるあの気色悪い目線も、男を引き立たせるために自分が我慢する必要もなく、何もかも気にせずに生きていられる──園は女が自由に生き、瞑想や魔法の修行に没頭できる──唯一無二の理想郷でした。
カーランフィルは仲間たちと交流を重ねるうちに、少しずつ心を開いていき、俗世で受けた深い傷と恐怖から解放されつつありました。
しかし、園の女たちはまだ、この集団が抱える後ろ暗い問題を、カーランフィルには明かさないでいました。
「魔法」は集団内の修行を終えたメンバーのみが扱える門外不出の秘儀とされています。
しかしその魔法を巡ってシェルター内はカーランフィルが入る前から、二つの派閥に分かれていました。
一つはシェルター創設者である天球をはじめとする穏健派であり、魔法を生活のためだけに使うのをよしとしました。
もう一方は性被害者らによって構成される、自分たちが受けた被害の復讐を魔法によって果たそうと考える過激派です。
「事件」はカーランフィルが新人としてシェルターに入ってから、しばらく後に起きました。
*
園のシスターたちの知人女性が、性的虐待の後に殺害されるという凶悪な事件が起きたのです。
ボロボロになった遺体を見て、多くの女たちが嘆き、悲しみ、そして怒りを露わにしました。園の中は完全な混乱と分断状態に陥り、穏健派と過激派の断絶はもはや修復不可能な域に達していました。
そればかりか穏健派だったシスターのうちの多くが、こればかりは仕方がないとして
過激派へと鞍替えしてしまう事態まで起きてしまったのです。
大邸の一室、四人部屋の窓際から薄曇りの空を見上げながら一人の女がつぶやきました。
「こんな時、【斜陽】が居たら、きっと魔法でなんとかしてくれる筈なのに……」
斜陽とはかつて園にいた、天才的な魔法使いの少女です。
その才能の高さから、新人にも関わらず聖名は花でも宝石でもなく、月日星の三賢者に次ぐ四人めの賢者として「斜陽」の名が与えられたのでした。
今は海外で紛争地域の難民支援を行なっているらしいのですが、連絡手段は誰にもなく、消息はもちろん、音沙汰もありませんでした。
しかしその夜の食事会──もちろん空気は最悪です──の最中に、事態は大きく動き出します。
*
「まるでお通夜だなぁ」
身長百九十九センチ、ミルクティーアッシュ色に染めたロングウェーブの、ガルナータが豆と葉物のサラダを食べながらわざとらしく言いました。
「まるでっつーかお通夜そのものか」
彼女は園の中でも上位に位置する実力を持つ「姉」でした。
「よしなさい。ガルナータ。妹たちの心をいたずらに荒ませるのは」
目を閉じながら「月」が強い口調で制しました。月は天球に次ぐ実力者であり、他のシスターたちから最も尊敬されている仲間のうちの一人です。
「あぁ? ……はいはいわかりましたよ
「ありがとうね」
夕食の席に着く姉妹たちもほっと胸を撫で下ろしました。ただでさえ不穏な空気感なのにそこで「姉」たちの喧嘩が始まってしまうとなったら、もはや誰にも収集がつけられなくなってしまうからです。
実は月はこの時、他のシスターたちには聞こえないよう──ガルナータを立てるために──テレパス(思念伝達)の魔法で「大丈夫。不安なのはあなただけじゃない。みんなも一緒よ。けど力を合わせれば絶対に乗り切れるわ。それには特にあなたのような実力者の協力が不可欠なの。だから今だけは我慢してね?」と伝えていたのでした。
「ほんと、誰のせいでこうなったんでしょうね」
「犯人の男共と、率先して戦わないお花畑の名誉男性、男共を許すキモい男社会、の三つのせいかな」
「その通り!」
過激派たちがひそひそと話します。それに対して穏健派のうちの一人は舌打ちで返しました。
その時です。
「なーんか、最悪な雰囲気?の時に来ちゃったみたいだね〜……」
突然の出来事に、その場の全員がざわめきました。なんと、あの容姿端麗常時消息不明の超天才魔法使いである斜陽が、突如みんなの前に現れたのです。しかもただ現れたのではありません。
食事中の大卓の上一メートルの高さに、涅槃姿で現れたのです。
場は一瞬で空気が変わり、若年のシスターたちはもちろん、年長者らのうちの何人かまでも声を出して驚き慌て、中には感激のあまり目元を赤くして泣いてしまう妹まで出る始末でした。
「お行儀が悪いですよ。斜陽」
「はは、ごめんごめん」
そういうと斜陽は大卓の前へまたしても瞬間移動し、床に足をつけました。
「普通に座りなさいな」
隣の席を一つ動かし、フリザンテマは斜陽に座るよう促しましたが、斜陽は後ろ手で床の上を歩きながら
「えー……だってそこの席、要するに境界線でしょ?座りたくないよ」
その境界線は、目に見えるものではありませんでした。そうです。フリザンテマが指示したこの椅子こそが、穏健派と過激派という派閥の境界線にあたるものでした。
「単刀直入に言う。斜陽、お前はどっちの側につく?」
過激派の中でも中心的な人物であるチュリパンが椅子ごと身体を斜陽に向けて聞きました。
「私はどっちでもないよ。毒矢の喩えって知ってる?」
「仏教の開祖が、今すべきことについて説いた有名な教訓でしょ?」
「そうだね。あ、内容は話さないでいいよ。どうせすぐネットで検索できるし」
「その例え話がどうかした? 私たちが間違ってると言いたいの? もしそうなら、あなたほどの人でもとんだ勘違いを起こすものなのね」
「うん」
「私たちは殺された女の無念に報いるために──って、はァ⁉︎ うんってどういうことだよッ⁉︎」
チュリパンが椅子から立ち上がりました。
「今すべきことは、哀悼の意を示すことなんじゃないかな?」
場が再びざわめきます。
斜陽は置かれた椅子に浅く腰掛けるや両脚を組み、長いオーロラ色の髪を前に持ってきて背もたれに身体を預け、そして言いました。
「確かに酷い事件だけど、だからこそ死者の魂に必要なのは安らぎと祈り、そして遺族である私たちが変わらぬ日常を送ることでしょ?」
何人かのシスターたちがうなずきます。
「犯人への最大の復讐は、私たちが悲しみを乗り越えて力強く幸福に生きることだよ。 少なくとも私たちは警察へ捜査を依頼して、然るべき罰を司法と行政が下すのを待つのみだと思うな」
チュリパンが握り拳を震わせて、そして言いました。
「何もわかってない……そういうことじゃないんだよ……」
「え、違うの? おかしいな……模範解答をしたつもりだったんだけど、どこが変だった?」
「殺されたのは……私の幼馴染なんだよ……ッ!」
周囲は一気に静まり返りました。チュリパンは続けます。
「お前も! 腰抜けの穏健派も! お前らみんな間違ってるんだよ……‼︎」
「なんで! なんでいつもいつも私たちの側は苦しむたびに「我慢」して黙らなきゃいけないんだよ‼︎」
斜陽は変わらぬ口調──どこか冷笑的な──で返答します。
「我慢というか、暴れたら他の人の迷惑になっちゃうし……私刑なんていつの時代?って思うけど」
チュリパンの怒りはおさまるどころかヒートアップしていきます。
「そもそも司法だろうが行政だろうが立法だろうが、それこそ人権すらも、そんな仕組みは何世紀も前の男どもが女たちを部外者にして勝手に作った男中心のシステムでしかないだろ! そんなものに頼れって……私たちは一体いつまでこの部外者扱いの欠陥システムに我慢しなきゃいけないんだ⁉︎」
チュリパンの目は激しく潤んでいました。
「お前のためにさっきの例え話を使ってやるよ! 愚者はお前だ斜陽! 私たちこそが! この社会に刺さったままの毒矢を抜く者なんだよ! お前は単に知識をひけらかすことで妹たちの注意をそらして洗脳し、毒矢を放置させている悪者にすぎない!」
「そんな古い歴史まで遡るなんて無茶苦茶だよ……」
引き気味に斜陽が言いましたが、チュリパンは静かに返します。
「無茶じゃない。この世界は変えられる……そのために私たちは魔法を修行してきたんだ」
それまで静観していた天球が遂に思念伝達でチュリパンに語りかけました。
(チュリパン、あなたの主張も分かりますし、私も同じような経験をしてきました。どうかあなたの怒りと苦しみを鎮めて……全て私が受け止めますから。ここはあなたの心をさらけ出すには余りにも整いがなさすぎます。もっとあなたの怒りと苦しみを大事にしてあげてください。今この場で最も傷ついているのはあなたです。そして今、他の妹たちは神さまから頂いた大切な食事の時です。これ以上は誰も幸せになりません。こんな場所で怒らなければいけないあなたも、傷ついているあなたを見ている妹たちもかわいそうです。)
チュリパンは肩で息をし、歯を食いしばって周囲を睨み付けると、袖で目を拭いながら食堂から足早に出て行きました。
その日の深夜は雨が降っていました。
耳を澄ますと大邸の銅瓦の屋根を雨粒が叩く音が聞こえます。
チュリパンはレインコートを着てブーツを履き、部屋の窓から園を抜け出し、人間が住まう街へと向かいました。
理由は明快でした。復讐です。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます