4・仮定された推論   Indoctrination

 《1》 〈MRCP及び魔法とは〉

  

           理論物理学博士アレン・ソーカラー



 1. 【MRCPの概略】


 MRCPとは【道徳的責任媒介粒子(moral responsibilty carry particle)】の略であり、この世界に道徳的責任を生じさせる粒子である。

 これは形而上下両界を隙間なく満たしている物質の最小単位に当たる超球でもある。


 MRCPは、例えば存在しない物をあたかも実在するかのように人間に振舞わせる。

 その代表例はお金である。

 百ドル紙幣の百枚束を私が持ってるのと、コピー用紙の百枚束を私が抱えているのとでは、周囲の見る目は違うだろう。


 ドル紙幣とコピー用紙はどちらも同じ紙だが、その価値は大きく違う。

 それが人間の特殊能力、「見なし」の能力である。人間はあらゆる物を、そうではないものとして見なす事で文明を、文化を発展させてきた。

 天上の星々は時間の変化を示す正確無比な目盛りとして見做され、冠は統治者の証として見做され、紙にできたインクの滲みは情報を伝える疑似神経となり、今では赤と青のランプは人の行き来を決める裁定者として見做されている。

 この見做しこそが、非物質的な、形而上の、人間の意識活動の最たる物だと考えられてきた。

 だがそれは違った。これは確かに記述として誤りではないが、事実の一側面しか捉えておらず決して正確ではない。先に結論として言えば事実はこうである。


【道徳的責任媒介粒子の局在箇所に、人間の意識が生起する】


 というのも人間は脳内物質の反応に基づく自由意志によって道徳的判断を行なっているのではなく、MRCPが形而上領域の一部に集積し、MRCP濃度の均衡がグラデーションを伴いつつ崩れ道徳的因果が発生することで人間の脳内に責任応答性と自由意志が生じるからである。


 自由意志と決定論の問題は、物質自体が道徳的責任を持つというこのMRCP仮説によって説明づけられる。

 MRCPは形而上的領域と物質的領域をまたぐ高次元粒子であり、MRCPの形而上の振る舞いのうち、四つの相互作用に相当する部分だけが物質的領域に表出するのである。


 そして、人間は物質の反応に基づく自由意志によって道徳的判断を行なっているのではなく、MRCPが形而上領域に集積し道徳的因果が発生した時に人間の自由意志が物質世界に生じるのである。


 従ってこの世界は、形而上的には決定論的であり、かつ、形而下では自由意志と責任が成立しているのである。

 道徳的責任とは生物の精神に影響を及ぼす自然界に存在する力であり従って生物に完全な自由意志は存在しない。


 自由意志は存在しないが、MRCPが人間同士の間に負債と債権の関係を作り出すため、人間の行為には道徳的責任が生じる。

 全てのMRCPには心がある。MRCPの心は周囲のMRCPと相互作用し合う。人間の精神活動はMRCPの相互作用の投影である。


 形而下では通常、MRCPは関係距離によって影響力が減衰するが、魔法を用いることで形而下でも無限遡及性と転嫁伝播性を持つ。

 

 責任関係の混乱が引き起こされる事を特に道徳的汚染と呼ぶ。例えば責任の無限遡及などがそれにあたる。


 宇宙(形而下)の物質は形而上のMRCPの振る舞いに沿って運動する。これは人間の意思や行為を含め、動植物はもちろん細菌や無機物も含まれる。


 バークリが主張するように、形而下には諸所の因果関係を客観的に示すものがない。これは、形而下にはそもそも因果関係というものが存在しないからである。

 因果関係が形而下では欠けているのは、因果関係が形而上のMRCPにのみ表象、保存されていること、またMRCPの振る舞いによって形而下の現象が決定されるからに他ならない。


 その点でMRCPは、(イデア界的な)形而上世界と現実世界との鏡像関係にあると思われがちだが、そうではない。なぜなら、第三定義魔法によって、意思のもとになされる形而上下世界間の干渉は封じられているからである。


 人間は自由意志によって行為し、因果関係によって責任を負うのではなく、MRCPの振る舞いが現実世界に反映され、MRCPの負債権分布が人間の精神に観測される事で道徳的責任が生じる。


 生物は道徳的半導体である脳が発達していくほど、MRCPを観測できるようになる(と同時により強く影響される)。これは前述したようにMRCPの心と人間の心が互いに共感し合うことに由来する。


 極言すれば、昆虫も道徳的責任を感じる能力がある。ただしそれを表出するか否かは昆虫次第と言える。これは人間も同様である。


 魔女は、オリンピアの恩寵であるドーフに従ってMRCPを編集できる点で人間とは別次元の存在である。

 一方人間は道徳的責任に対し選択の両方向性を持つ点でMRCP半導体と呼べる。


 空間を充填する道徳的責任媒介粒子は濃度が変化する「集積─解放」の運動を起こしながら四次元時空間を移動する性質を持つ。


 道徳的責任媒介粒子が意識を発生させる。脳に粒子が集まるのではなく、粒子のあるところに脳ができる。

 これはつまり、MRCPが時空間的に因果を決定しているということである。


 媒介粒子はイデアの形相だけを他の粒子に伝える。

 また、モナドは因果関係を持たない。同様に可能世界も世界間では因果関係を持たない。

 可能世界はお互いに無関係なのに、なぜ道徳的良否をもとにして並べることができるのかと言えば、そもそも世界はMRCPでできており、そのため道徳的良否に基づいて順列化できるからである。

 人間が形而上世界を分析(心の理論)できるのはMRCP(の集積)によって意識が物理的に構築されているからである。

 そしてそうした意識作用と同様、MRCPは集積することで道徳を生じさせる。


 また道徳はその特徴の一つとして責任の輪郭を溶かして繋げることが挙げられる。

 同じくMRCPは臨界状態に達すると、世界の輪郭を溶かす。輪郭が溶けると可能世界同士でMRCPの移動が起きるのである。


 人間の価値判断機構は善悪というフォーマット(判断基準)に基づいて因果を分析する装置である。


 脳は進化体因果観測器であり、また道徳的半導体でもある。


 物理的現象はMRCPの次の振る舞いのパターンによって変化する。

 MRCPが凝集すると、それは「秩序状態」で あり、エントロピーは減少する。

 逆に拡散すると、今度は「混沌状態」となり、エントロピーは増大する。


 また「因果的中心点」では凝集度は高まり、凝集力も強くなるのでMRCPは緊張状態になり、道徳的責任は「負荷」として問われる。

 逆に「因果的周縁部」では凝集度が下がり凝集力も弱くなる。MRCPは弛緩状態になり、道徳的責任は免除される。

 MRCP場においては道徳、責任、因果の三者は共集合として扱われる。


 従って次のように出来事の中心=責任大となり、逆に出来事の周縁=責任小と言えるのである。



 2.【魔法の概略】


 魔法とは「形而上のMRCPを限定的に編集することで、形而下に影響を及ぼす技術」の総称である。

 なぜ限定的なのかというと、無際限の魔法は未来や過去との整合性が失われてしまうからである。

 この制限機能をドーフと呼ぶ。各種の魔法がアプリなら、ドーフはそれらを実行するためのOSに近いと言える。

 魔法とは、人間の意識を現実に反映させることであり、精神世界の情報を形而上世界を介して現実空間の物理現象に反映させる技術と言える。

 意識は現実と形而上を行き来でき、また道徳的責任媒介粒子として記述可能である。

 これは道徳的責任媒介粒子が純粋持続として多様体を形成することに求められる。


 これは太古にあった、感覚質の世界と物理法則の世界が一体だった時代を局所的に再現する技術でもある。

 しかし、思考内容がそのまま現実に反映されるだけでは、破壊的な出来事しか起きない為、予め設定した手順と結果のみが実行できるように魔法は設計される。これがドーフの役割であり、その点で魔女とは、修道者であると同時に魔法設計士でもあると言える。


 そしてまず前提として、私たちの住むこの世界において認識可能なn次元と認識不可能なn±1次元は連続しているらしい。

 それは丁度、重力子が第五の次元へと流出している仮説が想定している世界観の様に、決して簡単ではないが、全く不可能ではないと言う意味で高次元と低次元はある程度の往来が可能なのである。

 例えば「二次元の図像」と言った時、厳密に考えれば図像には「その表現媒体の分子の寸法」があるのであり、その寸法は三次元の広がりを持っていて二次元である事はない。

 一般的に扱われるのはあくまで概念上の異次元であり、本物の低次元、或いは高次元と接する事は通常出来ないのである。しかし魔法はそれを可能とする。魔女の話が本当であれば、この世界にはいくつもの次元が我々には知覚出来ない形で実際に広がっているのである(ただしこれは超弦理論等で予言されている世界観とは全く異なる。)。

 それを踏まえて、魔女の扱う魔法はその原理上、四次元時空間の住人である私たちでは対抗不能な干渉となるのである。例えば、平面世界に住まう三次元時空間人(二次元空間+一次元時間)が四次元時空間内の紙面上にいたとする。三次元時空間人は紙の外へ出られない。存在可能領域が紙面上で完結している為だ。

 そこで四次元時空間人である私たちがその紙を切ったり燃やしてしまうと、彼らは存在可能な領域を失い消滅してしまう。魔女はそれと同じ事をより低次元の住人である私たちに行なっているのである(より正確には、魔女は私たちと同じ四次元時空間にいながらにして、高次元領域を介して干渉する事が可能な技術を有している。また、本来我々の環世界には反映されないパラメータである高次元領域を低次元領域に反映させる仕組みが魔法の前駆的な働きと考えられている。)。

 裏切りの魔女が私たちにもたらした結界の技術はその紙を丁度金庫にしまうような事でこうした被害を防ぐ。平面世界、即ち私たちが存在可能な領域は先述した様にその紙で完結しているが、逆に言えば紙が壊れない限り──環世界に反映されない限り──外部で何が起きても私たちに影響はない。M54はこの金庫である結界を対魔導防御装置という極めて小型な形で搭載する事により、魔女との正面戦闘を可能としている。

 ここで一つの疑問が生じるだろう。即ち、何故高次元にアクセス出来る存在である魔女がノコノコと攻撃を受ける低次元へ現れるのか、と。その答えは至ってシンプルで、つまるところ魔女も所詮は我々と同じ四次元時空間の住人に過ぎないからだ。魔女は低次元に現れるのではなく、高次元に昇れないだけなのだ。高次元に貯められたエネルギーの様なものを低次元でも使える形に変換し送り込む為のアンテナの様な役割を担う存在、それが魔女の本質だと考えられている。



 灰色の壁の学習室、暗闇の中にある簡素な長机とパイプ椅子に座る兵士たちを、天井に並ぶ細長いテープライトが照らしました。


 プロジェクターに写されていた文言は白飛びし、モーター音と共にスクリーンが天井に巻き取られていきます。


「今日の講義はここまでとする。各自復習を忘れないように 次回は実車訓練も踏まえて行なう」

 ケンがそう言うや、一人の男が手をあげました

「……何か質問でも?」

 気だるそうにケンが言いました。手をあげたのはジンです。

 ジンは不満げに言いました。

「この教科書の内容は魔法についての重要な記述が明らかに不足している」

「ほー、というと?」

 ケンを含めそこにいた一同が(また始まったよ……)という表情をしました。

「魔女が見た目を拡縮し、電磁波で測距を狂わせ、更に超高速で飛び回った時、戦車の照準器は魔女の正しい位置を全く捉えられないだろう。だが実際は40%程度の命中率を保っている」

 ジンは続けます。

「ニュクストル様がお造りになられたM54戦車の照準補正装置の仕組みと魔女の関係が、教書に書かれた多次元仮説では説明できない」

「ここに魔法戦の肝がある。最新の魔法理論では魔女が魔法を使う時、前駆放出という現象が起きる。開通現象とも呼ばれるそれは一体何なのかというと、魔導粒子という空間に満ちる物質……と言ってもエーテルのようなものではなく、この世のあらゆる物質は魔導粒子が表現型を変化させた物だと言った方が正確だが、その状態が表現転移した時の、その軌跡には幾つもの情報が含まれている」

「まず、魔女の使う魔法はイメージとしてウェブサービスに近い。各個別の魔女がクライアントだ。そして魔法を提供する「悪魔」はホストである。様々な魔法は魔女からのリクエストを受け取ったホストが応答する事で実現しているのだ。魔法を扱っている主体は魔女ではなく、そのホストの立場にある悪魔なのだ」

「では話を戻すが、魔導粒子の表現転移の軌跡にはどんな情報が含まれているのか。それはまさに、クライアントからホストへ向けてのリクエスト内容だ。魔法の種類、位置、規模、運動、変化前の状態、変化後の状態……ありとあらゆる情報がその軌跡には含まれている」

「俺たちが使っている魔法力観測装置とは即ち、この軌跡に含まれた情報を読み取る装置だ」

「残念ながら魔導粒子は距離減衰が著しく大きいから、二キロ圏内の接近戦でなければほとんど情報は得られないがな」

「可視光を含むあらゆる電磁波による観測が全て無意味になっても、魔女の予想飛翔経路が画面に表示され、戦車の照準器がきちんと機能するのはその為だ」

 したり顔でジンは持論を締めくくりました。

「どうだ?」

「どうだも何も俺含め多分ほとんどのやつがついて来れてないと思うぞ……」


 その日の座学は終わりました。


 長い講義を終え、兵士たちが気だるそうにパイプ椅子を片付けながら、教場からぞろぞろと廊下へ出ていきました。

「早く昼飯が食いてえよ……」

「あーつまんなかった」

「目開けながら寝てた」

「俺なんかガッツリジャーキングしちゃって叱られちまった……」


 いくら魔女憎しといえど、彼らは人間。魔女と戦っている時ならいざ知らず、よくわからない淡々とした言葉の羅列を何時間も聞かされたのでは眠気が勝ってしまうのも無理からぬ話でした。


 眠い目をこすり、大あくびをする数十人の兵士たちの中に、ジンとハルが混ざっていました。


「難しすぎてよくわからなかった……」

「安心しろ。俺はバッチリ理解できた。これぞ普段からの予習の賜物。というか二年前から同じこと学んでるし何より普段から作戦の時にやってることだったわ。なんならこの俺が手取り足取りもぎ取り教えてやろうか?」

「大丈夫です……なんかジンさんって変なとこに熱意がありますよね」

「変なものか! 己を知り敵を知らば百戦危うからずだろ? それにこんな俺でも本当は魔女とセクシャルプラトニックな愛を育みたいと思ってるよ? でも俺たちは鉄鎚騎士団なんだ。ニュクストル様の親衛隊であり人類を魔女の手から守る聖戦士なんだから、キリキリ修験に励まんとなあ」

「まあでも確かに、日頃の言動はさておき戦闘の展開の流れとか、すごい冷静に見れてると思うし、そこだけはすごいです」

「だけ?」

「?」

「あるじゃん! もっとこう、さ! 俺をリスペクタブルリフレクソロシティするようなワーディングがさぁ!」

「うるさ! 先輩だからって厚かましすぎでしょ」

「ふん、まあいい」

「いいんだ……」

「お前には俺も陰ながらよくお世話になってるからな! フホ!」

「え……? それってどういう意……」

「なんでもない〜〜♡ あとこれは勝手な布教なんだけどよ、教書の付録の魔女資料集が最高なんだよ! フルカラー印刷な上に内容も超細かくてさ、どれだけ読んでも飽きが来ねえ。しかも編著者はなんとあのニュクストル様直々ときたもんだ! この教書を手に入れてからこっち、毎晩のオカズに困ったことは一度もねえんだよなあ」


「資料集、読んだことないけど最後の方になんか分厚い本ついてるなあって思ったらそうなってたんですね……というか、通りでやたらと魔女の名前に詳しいわけだ……」


「お前もお気に入りの魔女がきっと見つかると思うぜ! だから読め」

「(あ、圧がすごい……)ぼ、僕はニュクストル様で十分間に合ってるから……」

「か〜〜! もったいねえ! ニュクストル様が好きなのは当たり前だろ! 好きなおかずは何ですか?って聞かれてレピーニャ(パン)ですって答えるバカがどこにいるんだよ!」

「あーもうしつこい! 先行ってますからね!」

「あ! ごめんって! 待って! 行かないで〜〜♡」


 *


 また別の日の座学では、魔女集会の思想研究として魔女たちが信じているとされる神話の分析が取り扱われました。

 ケンとハルは教書を手に、十数人の兵士らと共に学習室へ向かいました。

 ジンとケンの二人はなぜ講義を行なっているのでしょうか?

 それは、この二人こそが結界内で一番の古株で、戦車の戦闘技術に精通していたからです。


 今度の講師はなんとジンです。油汚れでまだら模様になっていたいつもの耐火服ではなく、今日はおろしたてのスーツを着ています。ジンが教書を片手に喋りました。


「魔女の思想研究は難解な部分や入手情報の少なさから、その全貌を知るまではまだ多くの時間が必要とされるのは間違いない。しかしニュクストル様がもたらした情報には、非常に多くの知見が含まれていることも事実である」


 普段のジンからは想像ができないほどの知性を感じさせる立ち振る舞いに、ハルとケンはめまいを起こしかけました。

 ジンは歴戦をくぐり抜けた古参ならではの瞳で兵士たちを見ながら続けます。


「例えば魔女集会の幹部には【月】と【太陽】と【星】の三人がいることは皆の知るところだが、世界中で普遍的に見られる星辰崇拝に魔女の宗教が含まれるかと言えば、そんな簡単には言えないのが実情だ」


「ただ、核心的な部分としてまず、魔女の宗教は【奪還の宗教】と言える」


「いわゆる至上神……キリスト教で言うところの『神』は別にいるのだが、教義上重要視されているのは【シーピアー】という神と【よりよきもの】の二柱の神だ。いや、このよりよきものは正確には神とは違うんだが、ややこしくなるので割愛する」


 ジンが慣れた手つきで教書の次のページをめくります。


「まずはシーピアーについて説明する。まだ移動手段も情報網も不十分だった古代、なぜ互いに関わりあいがない筈の世界中で「国家」という共同体の形態が普遍的に発生したのか?という歴史的な疑問……つまりは「一般意志」の有無と普遍性についてだが、シーピアーが世界中に住む古代の人類に国家という観念を贈り物として与えたからだと、魔女の神話では説かれている」


「そして、ここからが例の「奪還」の意味だが、魔女たちの世界観では国家とは元々、「シーピアーから人間への恵み」だった筈が、「男たちの支配の道具に変質させられた」と考えているわけだ。今の文明を滅ぼして作り変えるのは、失われた本来の正しいありように戻そうということなんだ」


「従ってその点から考えると魔女の宗教はグノーシス……つまり現実否定的な雰囲気も感じるが……詳しい点はまだ不明だ」


「ただ、シーピアーという名前は魔女たちの言語体系で「光(単数女性形)」を意味していて、これは幹部の「太陽(単女)」「月(単女)」「星(複女)」のいわゆる三光、別名【三賢者】と密接な関わりがあると考えられる」


「ここで疑問が生じる。それでは魔女の幹部は神になろうとしているのか? とか、教祖、つまり【天球の魔導師】自身が現人神を名乗るタイプか、或いは王権神授的なものなのか? という疑問だ。そして正解はいずれとも違う。というのも天球も三光もシーピアーの侍従でしかないからだ」

「こうした光のモチーフ自体は、創世記の「光あれ」をはじめ、世界中で見られるオーソドックスなものと言える」


「そこで出てくるのが、先述したよりよきものだ」

 兵士たちは静かにページをめくります。

「よりよきものとは一体何かというと、「人間性が失われるほど極限まで道徳化した人間」のことだ」


「要するにさしずめ古代ギリシャの哲学者プラトンが言うところの善のイデアを志向する人間のイデアということだ。プラトニズムと魔女神話の違いは、比較神話学的には「イデアは常に人間性の源泉であり続け、逆に人からイデアになることはありえない」なのに対して、「よりよきものは人が成るもの」という点にある」


「よりよきものについては、シーピアーとは逆に、断片的な資料の多さに対して体系的な解釈が難解という問題を抱えている。箇条書きすれば次の通りになる」

「これは一年前の大規模な戦闘で魔女の拠点から回収された写本に書かれていた文言を直訳したものだ。」


 そう言いながらジンはホワイトボードに字を書き込みました。


 ・よりよきものとは、人間が「よい─わるい」を感じるようになった、その第一原因である。

 ・人間概念の源泉。価値判断を可能ならしめるもの

 ・道徳的人間の最終形態

 ・事実判断と価値判断が実体化し混交している

 ・原初の過去から現れ出たよりよきものは、自己破綻と秩序破壊による横臥の時を経て遥か遠い未来で待っている

 ・世界はどんどんより良くなっていく。より良くなっていくと、万物は完成形に近づいたぶんだけ変化の余地がなくなって均一化、普遍化していく。


 書き終えるとジンは再び教書を読み上げ始めました。


「人間とそれ以外の存在を区別するその要素はよりよきものと同質であり、倫理的価値、責任はこれに由来する。というのもそもそも人間と他の諸動物に本来は決定的な差などあり得ず、その区分が問われるのは専ら道徳的責任が関わる場面のみである──また逆に、種々の障害を負った者を当然のものとして人間に含むのもこれと同様である」


「これらの反省、省察の契機となる道徳的責任を負う存在としての人間概念は、よりよきものが不完全な我々を再び万能者へと近づけるべく蒔いたある種の呪いである。ただしそれは無策な再臨の請願ではなく、万象を操る力に振り回されぬ精神の完成を最初に志すものである」


「シーピアーの光によって生じた陰それ自体は単なる陰でしかないにも関わらず、そこに道徳的に負の価値を見出し──つまり、生存自体が罪架であると捉える事、また人間にこそ道徳的責任を問う──他の動物は道徳的責任を問われずに罷免される──というその自虐的動欲の根源は、よりよきものがシーピアーを「自らよりも優れた、目指すべき超越者」と捉え、その光を目指すべき方向、その反対の影を忌み離れるべき方向と捉えている為に生じている」


「生存する限り陰は常に生じ続けるが、これは即ち人間が常に非道徳と接し続けるという事でもあり、人間が生きているだけで(例えば必然的に無数の微生物を殺している事に罪を見出したりして)罪架を背負いその苦痛を受け続けるのはこれに由来する」


「この世界は本来価値中立なものであるが、よりよきものの影響によって人間は世界を価値判断のフィルターを介してでしか把握出来ず、必然的に世界の全てが価値体系の中に包摂され、価値中立なものが一切存在し得なくなっている」


「人間が生きているだけで万事全象を価値判断の篩にかけてしまうのは、人間を人間たらしめているよりよきものに端を発する、非実体的性質である「人間らしさ」が「そのように(物事を良い─悪いに分け、良いものを目指す)振る舞い続ける事で完成者へと近づけるようにするもの」だからである」


「よりよきものが真理や正しさを指向するのは、何よりもそうした真理や正しさこそが永続する要素であり、即ちよりよきものはまさにその名前の通り、無比無上のよりよきものとなり究極の自己保存の達成を欲求しているからに他ならない」


 ここまで読んでジンは教書を閉じ、兵士たちに語ります。


「非常に難解だが、シーピアーの字句が途中で出たように、この神話が人間をまやかす単なるワードサラダではなく、非常に精緻かつ巨大な体系性を持つ宗教、というよりむしろ哲学であることを示唆しているのは明らかだろう」


「今日の講義はここまでだ。何か質問は?」

「……なさそうだな!」


 そう言うとジンは、自分以外の全員が眠っている学習室を後にしました。

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