3・道徳化汚染 Moralizing pollution
人物
・ジン:ヒゲ面薄毛低身長樽腹の戦車指揮官。変態だが実力は確かである。
・ニュクストル:人類を救うべく魔女集会から離反した、裏切りの魔女。
ジンは首から提げていたネックレスを両手で掴み、一心不乱に祈りを捧げていました。
「ああどうか、ニュクストル様、ニュクストル様、今日も私に力を、『魔女共』を討ち払う力をお与え下さい!」
まるで神様にお願いする僧徒のような、力のこもった祈念です。
ジン一人だけではありません。この集会所にいる数千人の男たちも、皆両手を合わせてひざまずき、熱心に祈りを捧げていました。
男たちの祈祷と念願の声が無数にこだまし合います。
白い壁に果てが見えぬほど高い天井、等間隔に並ぶ円柱には美麗ながらも控えめな装飾が施されています。ここは結界内で最大級の礼拝所です。それもニュクストルへの祈りと感謝を伝えるための場所です。
彼らをここまで衝き動かすニュクストルとは、一体何者なのでしょうか?
その答えは単純です。ニュクストルの正体は「魔女」なのです。
それも普通の魔女ではなく、魔女集会から離反した【裏切りの魔女】です。
燃えるように紅い瞳、真珠のような、オパールのような、不思議な薄虹色に輝く長い髪を揺らす姿と透き通った声、そしてトレードマークには頭上で浮遊する十字架をか細い鎖で繋いだ王冠状のアクセサリーと、左右のもみあげに二つずつの四角い黒の髪飾り、まだあどけなさが残るものの端正に整った顔、紺の生地に二つの紅く輝くタリスマンを備え金糸を編んだ衣装を身に纏っているニュクストル。
最初はSNSや動画投稿サイトといったネット空間で活躍していた単なる一エンターテイナーでしたが、なんとそれと同時に魔法の才能に恵まれた、素晴らしい魔法使いでもあったのです。
例えばニュクストルが人差し指で空中に輪を描けば、一瞬の内に大小様々な家々を造り出し、二本指で地面を撫でれば剥き出しの土砂にアスファルトの道路が舗装され、電線と上下水道管を地中に這わせ、更に両手の三本指を重ね合わせると食料プラントまでをも造り出しました。
ニュクストルはなんと、数年前から魔女の存在を動画で予言しており、更に具体的な災厄や被害の発生を世間に訴えかけ、その頃から既にファンからの援助を元に【結界】と呼ばれる大規模な避難所を作っていたのでした。
結界、それはニュクストルが造り出した直径千五百キロメートルにも及ぶ、超巨大な【対激甚化魔導防御膜(たいげきじんかまどうぼうぎょまく)】と呼ばれる球体状のバリアの事です。
ニュクストルは視聴者を中心に様々な募金を通じて資金を集め、無人の土地を買い上げるや、強力な物質消去魔法で五百平方キロメートルを整地し、裸となった地面の上に基礎構造と床を作り、それを千キロ単位で覆うようにしてこの巨大な結界魔法を構築したのでした。
そして一年前、なんとニュクストルの予言の通り、魔女集会というテロ組織が現れたのです。
「魔女集会(ウィッチ・パーティ)」はその名にまさしく「魔法」という未知の技術を操り、世界中を未曾有の混乱と恐怖に陥れたのでした。
街中を無数の巨大な幻獣が闊歩し、男は全員壁一列に並ばされるや首をはねられ、更に女は拉致され、ビルはことごとくなぎ倒され、生活インフラもその全てが致命的なまでに破壊され尽くしたのです。
街から着の身着のまま脱出した生き残りの人々も、荒野まで出ても幻獣に追い回されて殺され、大量の難民と死傷者が出る事態となりました。
特に猛威を振るったのは【遅効性致死性画像】の存在です。
この時使用された致死性画像は、通常の致死性画像のような見るとすぐに発狂して死ぬものと異なり、一度見てしまうと被害者がこの画像を様々な手段──インターネットはもちろん、紙にコピーされたものを街中に貼るなど──で複製、拡散し続け、被害者が死亡するまで続けられてしまうという点です。
複製衝動の埋め込みの他、放火や破壊、見境のない暴力など、様々な行為を強制させ、最終的に全員が多発的な全身臓器の癌化によって死ぬという非常に凶悪なものでした。
もはや希望はないと誰もが絶望し、死以外に救済はないと諦めかけていた時です。
そこにニュクストルが現れたのでした。
結界の内外を繋ぐ門は東西南北に設けられ、毎日何千人という規模の生存者(サバイバー)が押し寄せています。
そればかりかむしろ積極的に救急ロボット車両を派遣し、門の外で負傷したり栄養失調などで苦しんでいる移動困難な難民を運び込んでいます。
何よりも画期的なことは、結界の中では誰もが等しく必要な栄養の摂取と治療を受けられるということです。必要な薬は尽きることなく供給され、手術は六千基を超える自動手術ロボットによって迅速に施術され、医療従事者が扱うレントゲンやMRI、透析や人工呼吸器といった医療器具や医薬品も無数に備わっていました。
ニュクストルは結界へ大勢の難民を受け入れ、衣食住と高度な医療を人々に等しく必要な分だけ与えました。
今日もまた、助けを求めて難民が結界を訪れています。
結界内には様々な施設がありますが、極め付けはニュクストルが造り出した兵器廠です。全自動化されたこの工場設備には、鉄鉱石とレアメタル、更に石油まで、その他あらゆる資源が魔法の力で無尽蔵に供給され続けています。
そして一部には魔法を駆使した加工装置を備え、魔法による特殊加工──例えば完全無重力下での攪拌や全均等加熱冷却、立体織炭素繊維強化金属など──でしか生み出せない先進材料や、炭素3D集積回路や液体コンピュータといった未知の技術までをもふんだんに組み込んだ戦車や戦闘機などのハイテク兵器を猛スピードで生産していました。
戦車なら十七時間以内で一両、戦闘機は三十八時間で一機が製造されています。更にそれら兵器の製造ラインが無数に並ぶことで、どれほどの打撃を受けても戦力への影響を極限まで無効化しています。
もはや結界内でニュクストルを尊敬していない人は一人としていません。
その尊敬の熱意は当然のように崇拝へと昇華し、遂には魔女を討つための外征組織【鉄鎚騎士団】が誕生するまでに至りました。
ケンとハル、そしてジンは熱心な信徒であると共に、鉄槌騎士団の一部隊長として、魔女との戦いに身を投じているのでした。
結界に入るには身体に生体承認証を刻印し、個人の肉体と識別番号を紐づけする必要があります。この仕組みが、統合医療システムとリンクする事で、皆が迅速かつ確実に医療へアクセスできるのでした。
逃げ込んだ難民たちが特に驚いたのは、様々な面で自分たちと関係があったマフィアやギャングといった犯罪集団がどこにもいないことです。
結界内では危険物や薬物の所持が認められていません。喧嘩や暴力が起きると、五メートルおきに床に埋め込まれた対人鎮圧用人型ロボットが起き上がり、暴動を止めに動きます。そこで拘束を受けた人は、更生センターへと連れて行かれ、半年後に帰ってくるのです。
すごいのは連れて行かれる前では想像もできないほどの真人間になって帰ってくるという点です。
不正な行為を隠れて行なっても無駄です。結界内で人が移動した経路は全て生体承認証と建物に埋め込まれたセンサーによって逐次記録され、その足跡は毎日、超小型の観察ロボットによって調査されるのです。
武器を所持、保管していたマフィアがこれによって摘発されるのは毎日のことでした。
あるギャングの男は枝打ち用の斧を入手し、鎮圧用ロボットを奇襲して見事破壊しましたが、その直後に五体の同じロボットが取り囲むや執拗に殴られ、失明するほどの大怪我をしました。もちろんこれも(恐らく)治療してもらえるのでしょうが、それ以来その男は鎮圧用ロボットに対して反抗的な態度をとることはありませんでした。
結界の中には人類文明に必要なもの、その全てが潤沢に備わっていました。
「政治」という特殊な生態系を除いて。
結界内は民主主義ではありませんでした。文句やストレスの全てはロボットが毎日運んでくる食事によって綺麗さっぱり無くなり、住民の全てが、まるでモナドのように調和して生きています。
結界内の天井から下げられた垂れ幕には「魔女を許さない!」「いつも鉄鎚騎士団への感謝を忘れずに」といったスローガンが書かれており、これに例えば「景観が悪い」と言おうものなら、(その人の思想に関係なく)すぐさま、いかついロボットがやってきて更生センターに連れて行かれるのです。
安全は結界内にこそありました。魔女に怯える惨めな生活などもはや遠き日のことです。
結界の居住区画の片隅に設けられた、人民公園の卓を借りてチェスをしている、若い男女のペアがいます。あの二人には子供がいましたが、今はもういません。
支給された紙とクレヨンに、子供が魔女の絵を描いた途端、ロボットがやってくるや、その無機質な手によって子供が更生センターへ連れていかれたのです。
子供が戻ってくることはありませんでした。
最初の時こそ二人は、なぜ絵を描いただけで子供が連れ去られたのか? まるでこの世の終わりのように悲憤慷慨していましたが、今はもうそうではありません。
彼らには薬があり、子供がいなくても何も問題がないからです。
住民は毎日ルーチン通りに生活し、安全で平和に暮らしています。朝日を浴びながら優雅にコーヒーを嗜むこともできます。スポーツや娯楽を楽しむことも同様です。お隣と交流するのも、人を愛するのも自由です。
子供たちは発達度合に合わせた適切な教育を受けて、不穏分子にならないよう健やかに育ちます。
ただ、あの【教祖】を疑うことだけは、不可触の禁忌そのものでありました。
結界の中においてニュクストルは万民の救世主であり、崇敬の対象であらねばならないからでした。
人々は気付かぬうちに小さな冠を対価に、安全と平和、そして健康と安心を手にしたのです。
この結界はまさしく【楽園】でした。
その楽園では、民主主義は社会混乱の一状態に過ぎないものとされました。
ニュクストルという絶対的な智者が、隙間なく民を治めているからです。
戦闘から帰還する兵士たちは、門の中へと運ばれて治療を受けます。腕がもげたり、両足がなくなっていたりしても、【魔導支援医療】にかかれば一瞬で綺麗に治ります。
しかしよく見ると、一見どこも怪我をしていない兵士までもが同様に治療を受けていました。
これはなぜでしょうか?
答えは簡単です。彼らは【思考汚損】という魔法によって脳に道徳的汚染被害を負っているからでした。
原因は主に魔女が発する様々な洗脳・思考誘導魔法のせいだと言われています。
結論から言えば、一度この精神汚損状態に陥ると、患者は強烈な価値観の逆転に苦しむことになります。
例えば日常生活への疑念──皆いつかは死ぬのになぜそれを気にしないでいられるのかという周囲への疑義──や、自分の不可避的な死や老いに対する絶望感、また特に、自分が「男」であるというだけで女のストレス源になることに対する強烈な罪悪感と贖罪意識が主な症状であり、一度罹患するとニュクストルの魔法でも元には戻せません。
主な治療法は魔法による記憶消去で原因経験を直接的に消去するしかありませんでした。
自分が男で、生きているだけで女性に対し警戒感を与えてしまうという道徳的“加害”妄想の結果、結界内にいても罪悪感で自殺してしまう男性が大勢いました。
或いは結界を抜け出て、償いのために魔女の側へつこうとする男性も。
ニュクストルはそうして苦しむ兵士たちの手を小さくか細い両手で優しく握り、涙ながらにこう語りかけるのです。
「あなたの頑張りのおかげで、今日もここは守られています。焦る必要はありませんよ。今はどれだけ暗く寒くて苦しくても、必ず光と共に明るい春がやってきますから」
そうして兵士たちは治療を受け、ニュクストルの言葉通り、心身共に『健全な状態』に回復していくのです。
ニュクストルの演説は毎日決まった時間に始まります。内容は殆ど同じですが、文言が微妙に異なっています。
「皆さんいいですか? 魔女はまともな人間ではありません。社会不適合者なのです。生きる努力を毎日、欠かすことなく続けている私たちこそが勝って当然です!」
「私たちがこの結界の中に居ざるを得ないのは、魔女のせいです。みんなで魔女を倒して、平和な毎日を取り返しましょう!」
「魔女は人間ではありません! 怪物です! そして女の敵でもあります! もはや性別に関係なく、大切な人を守るためには怪物を倒さなければいけません!」
「魔女のせいで大切な人を失った人々の悲しみに報いるために、私たちは剣をとらねばなりません。鉄槌騎士団はいつでもみなさまの入団を待っています!」
「拉致被害者が一日でも早く帰って来られるよう、みなさん鉄槌騎士団への援助と応援をお願いします!」
「これは本質的な情報ですが、魔女は男性が世界を支配しているという妄想に囚われているんです。 魔女が男性を殺そうとするのはその愚かな妄想の結果なのです」
「魔女は男さえ居なくなれば世界は幸福になると言っていますが、大間違いです! これは私たち人間を男女で分断し混乱させようという企みなんです!」
「魔女はあなたの罪悪感にタダ乗りしてきます。魔女に同情は不要です! 無視しても何も問題はないのです!」
「魔女は、言葉では美辞麗句を並べていますが、これは二重言語で書かれており、その真意は既存社会の破壊なんです。魔女の言葉に耳を傾けてはなりません。あれは呪言。耳にした者の平常心を失わせるものです」
「罪悪感や自責を促し、それまでの世界観や価値尺度を転倒させ、『真実』に目覚めさせるのは洗脳の手法です! 絶対に気をつけましょう!」
「目覚めろ! などと声高に言うのは普通の人ではありません!我々の敵は無責任な目覚めをシンボルにして愛すべき子供たちをたぶらかす邪悪な存在なのです!」
などなど……
こんな手垢のつき尽くした扇動に効果なんてあるのかと疑いたくなります。
ですが結界の内外を問わず、人類にとって魔女は文字通り筆舌に尽くし難いほどの憎き怨敵に他なりませんでした。
結界にいる人の多くが、魔女の身勝手な主張のせいで身近な人や家族、財産、家を失った経験をしています。
その不安に疲れ果てた人々は藁にも縋りたくなるような心理状況に陥り、ニュクストルの声に従ってしまうのです。
ニュクストルはそうした人々の心の傷にそっと寄り添い、光の道筋を示してくれるのです。
結界内で圧倒的な物量と永遠に続きそうな平和、そして鉄槌騎士団の広告を見ると、人々は「自分でも魔女に復讐できるかもしれない」とか「鉄鎚騎士団が必ず復讐を果たしてくれる」と思えるようになるのです。
予言とその成就、更に魔法による地上の安全地帯(シェルター)の実現──それらの奇跡を起こし続けるニュクストルが神と同一視されるのは、至極当然の流れです。人々のニュクストルに対する強烈な信仰心は、こうして涵養されていくのです。
ジンもそのうちの一人でした。
*
結界内の西部四十四万平方キロメートルに広がる居住区画には、二十二万棟もの全く同じ形をした白いマンションがうずたかく積まれたビールケースのように規則正しく並んでいました。
これはニュクストルが魔法によって作った団地です。避難民の多くがこの団地に暮らしていました。
そのうちの一棟の階段を、一人の少年が登っていました。ハルです。
その両足の動きは精彩に欠けるものでした。
白く長い廊下に並ぶ無数のドアの前で立ち止まると、ハルはポケットから手を出してドアノブを回しました。ノブに内蔵されたセンサーがハルの指の毛細血管を認識し、鍵を開けます。
ドアを開けると、ハルより五歳くらいおさない子供が「おかえり!」と元気よく迎えにきました。
ハルの弟です。
「ただいま、いい子にしてた?」
「うん!」
ハルが弟のほほをなでます。
「おかえりなさい、ハル」
部屋の奥から黒いタートルネックと黒いストレッチパンツに身を包んだ一人の女性が出てきました。黒く長い艶やかな髪、切れ長の目には長いまつ毛、口元はアルカイックスマイルを思わせる優しいほほえみを浮かべています。
彼女の名はセレスティア。隣の部屋に住んでいる女性です。
一年前からこうして、ハルが仕事で留守にしている間、弟の面倒を代わりに見てもらっていました。
「ただいまです。セレスティアさん」
「大丈夫ですか? ずいぶんおつかれのようですが……」
「あ、はい……大丈夫です」
「お茶が淹れてありますから」
「ありがとうございます」
靴を脱いでハルは洗面所に向かいました。センサー付きの蛇口に手をかざし、出てきた水で手を洗うと、黒い水が洗面台に流れました。結界の外、戦場の土を水が含んだからです。
白い壁紙が貼られたリビングに行き、廃材置き場で拾ったアンティーク調の黒い椅子に腰掛けるや、ハルは大きく深いため息をつきました。
「大丈夫ですか?」
心配そうにセレスティアが尋ねます。
「ちょっと疲れただけなので、大丈夫です……」
「お大事になさってください。では私はこれくらいで」
「あ、ありがとうございました!」
セレスティアが部屋を後にした時には、日はすっかり落ちていて冷たい夜が訪れていました。
弟がお腹が空いたというので、ハルは支給された青いカバーの冷凍食品を黒い電子レンジに入れ、加熱を待ちながら、今日の出来事を思い出しました。
花となって散った人々を。
「にいちゃん」
「……ん?どうした?」
「レンジ止まってる」
「あ、ほんとだ……ありがとな」
ハルは電子レンジから温まったフレブ(パン)と羊肉の煮込みを取り出して、ショープスカ・サラータ(サラダ)と牛乳とを一緒に白く細長い絨毯に並べると、向かい合わせで弟と膝立ちの姿勢で座り、右手を洗うと、いただきますと神様にお礼を良い、二人で一緒に食事をはじめました。
その真夜のことでした。マンションの廊下を頼りなさげな電球が薄暗く照らしています。
*
黒を基調とした、あまり生活感を感じさせないシンプルな部屋にセレスティアは住んでいました。
すると玄関からノックする音が聞こえました。セレスティアは玄関の方をしばらくじっと見ると、ドアを開けました。
「どうしました?」
「あの……なんというべきか……相談したいことがあって……」
「なるほど、寒くはありませんか? 大したものはありませんが、どうぞお上がりください」
「お、おじゃまします……」
セレスティアに勧められるがまま、ハルは靴を脱ぎ、白地にさりげなく金糸の装飾が施されたチェアカバーがかけられた椅子に座りました。
ハルはうつむいたままです。セレスティアは銀色の茶缶を丁寧に開きハーブティーを淹れ、白い薄口のソーサーとカップを木目のある丸い机の上に並べ、ハルと向かい合わせに座り、言いました。
「だいぶお疲れのようですね。私でよければお話を聴きますよ」
「その……なんというか……僕はもともとトラックの運転手をしてて……」
ハルは何度も言葉に詰まりながらも、一生懸命その言葉を口から吐き出そうとし、そしてしばらくボソボソと呟くや、淹れられたハーブティーを一口飲み、上目遣いで遂に切り出しました。
「ぼ、僕はニュクストルの戦車兵なんだ……」
セレスティアは変わらず優しい眼差しで微笑みながらハルを見つめています。
「僕はずっと、訓練の時から、戦車の外、ゴーグルディスプレイの向こうの風景にいるのは恐ろしい怪物みたいな魔女だと思っていた」
「……だから、ためらわないで運転できたんだ」
「でもそこにいたのは女の子たちだった」
「こんなことを言う資格なんて僕にはないかもだけど……もし最初から女の子だって知ってたら、殺したくはなかった」
「でも弟のためには殺さなきゃいけなかったから、泣いているのが見えたけど機関砲の掃射を眺めることしかできなかった」
「……お、おかしいですよね。だって僕は両親を魔女に殺されたんだから、憎むのは当たり前のことのはずだし……なんというか、自分は何をどうしたらいいのか、心の置き場というか頼れる考えが何も浮かばなくて……」
「あなたがニュクストルの兵士だというのは最初から知っていましたよ」
「え……?」
「その上で話しています。あなたは動揺してると思うけど、いつまでも秘密にしておきたくはなかった。それに私は君が好きです。だから尚更、本当の事を話しておきたかった」
「秘密……?」
「私の名は天球。魔女集会の創立者です」
ハルは思わず全身をこわばらせました。
「え……天球って、あの?」
「はい。あなたがた鉄槌騎士団の怨敵である、天球の魔女です」
「そんな……嘘だ……嘘だ……」
「私は嘘はつきません。ですが、最前線で戦うあなたが狼狽してしまうのも無理からぬことだと思います」
「ここから話す内容は、間違いなくあなたの価値観や世界観を動転させ、不安を強いるものです。それでも聞きたいですか?」
しばらく悩み、それでもハルは「お願いします……!」と言いました。
カップの中のハーブティーに映ったハルの表情からは、強い決心がうかがえました。
「元々私は、二十一世紀の地球で魔法を発見し、その技術を応用して性犯罪の被害に遭った女性たち(サバイバー)のための生活共同体を営んでいました」
「私は精神的に安定した子たちに、この先自分一人でも不自由なく暮らせるようにと思って魔法の技術を教えながら自給自足の生活を続けていました」
「最初の頃はよかったのですが、人数の規模が大きくなるにつれ、共同体の中の空気感が変わっていきました」
「それは、過激派と穏健派の分裂です。魔女の中で、女性だけの世界を作ると言い出した子たちがいたのです」
「じょ、女性だけ……?」ハルが驚いて聞きました。
「この世界には、社会に根深く息づく構造的な女性の生きづらさがあります」
「例えば、胎児の時点で女の子だとわかったというだけで中絶手術を強制される女性がいます」
「それも十三歳の子供が、です」
「それだけではありません。家具や道具の寸法一つとっても、多くが女性より男性の体格に合わせて設計されています」
「こうした深刻なものから軽微なものまで、女性はこの世界の多くの場面で【疎外】、つまり見えない存在として扱われているのです」
「また男性は、生得的に女性よりも体格や体力の面で優位に立っていますが、そうした強い存在がこの世にいるというだけで女性にとっては体感上の治安が悪化してしまうのです」
「女性は常に疎外され、脅かされるという被害者の立場にいる一方で、男性はその全てが女性と正反対であり常に加害者の立場だと言えます」
「ですから、全ての男性はその罪を認め贖う義務が生じるのです」
ハルは黙り込んでしまいました。どう受け止めれば良いのか、わからなくなってしまったからです。
「……という考えが園内で広がってしまったのです。私は彼女たちをできる限りコントロールしたくなかった。自主性と自制心を持って生きられる子たちに育てたかったからです」
「しかし、結果としては失敗しました……私の甘さと未熟さが、あの大きな災い……【大断罪】を招いたと言っても過言ではないです」
「え……」
ハルは言葉を失いました。自分の両親が魔女たちの勝手な思い込みで殺されたことに対する恨みと、それを天球一人にぶつけることの無意味さで、感情がぐちゃぐちゃにかき乱されてしまったのです。
「そして最後に一つだけ真実をお教えします」
「あなた方が救世主として崇めているニュクストルは、園の女性たちを焚き付けて分裂を煽り、自作自演の大厄災を引き起こし、人類を絶滅寸前まで虐殺しておきながら、生き残った人々を無知と不安につけ込んで結界の中に招き入れ、洗脳し、自らの軍を作り上げた、史上最悪の魔女です」
「そんな、え……??」
ハルは一瞬、何を言われたのか分かりませんでした。
「あなたはそれでも、ニュクストルの下で魔女たちを殺したいと思いますか?」
「ぼ、僕には弟がいるんだ……だから……」
ハルは酷く狼狽し、言葉に詰まりました。目は今にも泣き出しそうなくらいに潤んでいます。
静かにハルを眺めていたセレスティアが口を開きました。
「一人で抱え込まず、あなたのこと私に話してくれて嬉しいです。私は──」
その時、突然召集がかかり、いきなりハルは基地へと行かねばならなくなりました。
セレスティアはハルのほほを優しく撫でて笑顔で見送ります。
ハルは一言だけ言って、セレスティアの部屋を去りました。
「ごめんなさい。いきなりこんな話をしちゃって」
その姿が見えなくなるまで、セレスティアはハルを見送ると、誰にともなく呟きました。
「世界中の男たち全員が君みたいだったらいいのに……」
*
輸送センターの近くにある配給施設に山積みされたバケットの中に忘れられた財布がひとつ。
ケンはそれを少し眺めました。表面は赤い光沢を放ち、高級感があります。近くに持ち主らしき人は見えません。既に帰ってしまったようです。
ケンは財布を管理センターに届けようと思い、財布を手に取りました。
何気なく財布を開くと、中から何かが落ちました。と同時に急いでケンはそれが転がっていかぬように靴で押さえつけます。
落ちた物は硬貨に見えます。ですが硬い床に落ちた時に金属の音はしませんでした。色は白です。硬貨ではなく小さく薄い石のよう。
ケンはこれに見覚えがありました。
これは魔女のまじない石です。表面には目を閉じても書けるほどに見慣れたあの紋章が彫られてあります。
気づいた瞬間、ケンは背中に気配を感じてすぐさま振り返ろうとして──止まりました。
真後ろに、『呪い』が立っていたのです。
真っ黒の人型の何か。それは無数の髪の毛を全身に丁寧に巻いた姿です。身体を小刻みに左右へ揺らしています。髪の毛の隙間から見える剥き出しの眼球をせわしなく回し、視線は安定していません。荒い息遣い。腐臭。
これは色々ある呪いの中でも特によくないものだとケンはすぐさま理解しました。以前にジンから教えてもらった密教に、生贄の身体を女の髪の毛で巻き、菊花酒をかけて呪言を唱えながら殺し、その遺体を呪具にする儀式があると覚えていたからです。
ケンはゆっくりと膝を曲げながら手を足もとに伸ばし、まじない石を拾って財布の中に入れました。
すみません、と施設に行き渡るように大きめの声で人を呼びます。
何かあったのかと急いで駆け寄る人々に対しケンはここから管理センターはどうやって行けばいいですか?と聞きました。
来てくれた人には呪いの姿が見えていないようです。試験材料にしてすまないと心で謝りながら、ケンは推測しました。
近づく人間を無差別に殺したりはしない。この呪いは財布の見張り役なのだ、と。いわば自分は財布泥棒として狙いをつけられたのです。
他人の財布を開けるなんてらしくないことをしたなと後悔しつつ、管理センターに拾得物として財布を預けたケンは、さあお前の主人の財布は向こうだぞ──ケンは心の中でそう呟きましたが、呪いの姿は一向に消えません。
ケンはあとずさりならぬまえずさりしながら端末を手に取りジンと軍に連絡をしました。
陸軍が施設を包囲したのはその一時間後でした。一帯は封鎖されています。現場は大騒ぎでした。
ケンはずっと立ったままです。ですが立ってることは別につらくありませんでした。とにかくケンはいつこの呪いに殺されるか気が気でなかったからです。
ジンから返信された文章から察するに、呪いの強度は相当なものだと推測され、対応には細心の注意が払われました。
センターの入り口ぎりぎりのサイズもある魔導粒子イメージセンサが運び込まれ、兵士に囲まれながらゆっくりとジンは検知器の前へ移動しました。
画面に映るその禍々しい姿に、兵士たちは一瞬思考が停止し、息を呑んでもう一度ケンの方を見ました。
そこに聞き覚えのある声がしました。ジンが到着したようです。
「結界内で魔法は使えないんじゃなかったのか?」
ケンが尋ねます。
「厳密にはそうとは限らない。結界内に魔女が入ったりすれば、魔法は普通に使える。魔力の回復は無理だがな」
「使えるのか⁉︎ 意外だったな……」
「ただ、連中が使う液化呪文を充填したシリンダーみたいに、既に魔力を充填してある魔導具だったら、結界内でも魔女なしでも使える可能性がある。あの呪い石は、まさに魔力を貯蔵し、条件が揃ったことで中の呪いが解放されたんだろう」
その後、結界中から祈祷師三十七人が集まり、五時間にも及ぶ祈祷戦の果てに、無事犠牲者なしでの解呪に成功しました」
*
助けられたお礼にケンが酒を奢りました。場所は結界内某所のバーです。
というのも、結界内では食糧の不足で飢えることはありませんが、嗜好品の類が一切ないのです。
紙幣や貨幣は、結界の外から密輸される嗜好品を裏で売買する時にしか使われませんでした。
未だに結界の外、特に出入り口となる巨大な門の周囲には大勢の人々が順番待ちなど様々な理由でテント暮らしを強いられていました。
「俺たちが命をかけてるこの戦いには、実は何の意味もないんじゃないか?」
コップを置いてケンが呟きました。
「……いきなりどうした?」
ジンがピザを口に入れながら言いました。
「つまり、だ。魔女は基本的にはなんでもできるんだろう? なんでわざわざ武力に訴える必要があるんだ」
ケンはコップにウイスキーを少しだけ注ぎながら言います。
「魔女は洗脳を使える。だったら最初にすべき事はテロ攻撃ではなく、権力者をこっそり自分たちの傀儡にする事だったんじゃないのか」
「言われてみれば確かにそうだな。武力攻撃じゃないといけない理由があったとか? 目的を達成する為に武力攻撃をしたというよりかは、武力攻撃をする事自体が目的だった。例えば絶対許せない人間がいたらそいつを更生とか面倒な事するより殺してさっぱりしたいって思うみたいに」
「その可能性はもちろんあるし、ニュクストルの証言や各種の資料はそれを裏付けてる。でも何か変なんだ。魔女が俺たち男に復讐したいと考えるのは自然だ。けど……」
「けど?」
「ニュクストルの振る舞いは、詐欺師に似てる。本当に微妙だが、ちぐはぐさが言動や態度から見えるんだ」
「過敏になってるだけじゃないか?ストレスフルな職場だし疑心暗鬼に陥ってるかも」
「そう、だからこれは全部俺の妄想だと思って聞いてほしい。その上で言う」
ケンはうなだれて目を閉じ、少しの間を置き捻り出すような重い声で言いました。
「俺たちはもしかしたら、戦う必要のない相手を恐れて──言うなればとっくに俺たち全員ニュクストルに洗脳されていて、敵でもなんでもない女を魔女だと思い込んで攻撃し続けているんじゃないか?」
「続けてくれ」
「魔女は人を洗脳できる。これは事実だ。じゃあ、ニュクストルが俺たちを洗脳してない証拠はあるか?ニュクストルの使う魔法は大陸の三分の一を常時覆うほど大規模なものだ。そんな魔法を使える魔女は他にいない。テロ組織の側にも、な。ニュクストルはその気になれば、多分だけど単身で他の魔女を全員殺せる筈なんだ」
「ニュクストルが突出してることは俺も思う。 ……そうか、魔女集会を抜けたとして、なんでニュクストルは自分で組織を潰さないんだろうな? 一人でも勝てるんだから人間の生き残りを集めて社会を再建し、もっと強力な軍隊を作るなんて面倒だ」
「俺が感じる斜陽の変なとこの一つはそれだ。あいつは魔女の不正を許さないとか、人を守りたいとか、そんなぬるいことを真面目に正そうと考えてるとは思えない。もっと気持ち悪い企みを持ってる気がする」
「いやでも待て」
ジンがピザの切れ端を口に詰め込んで止めに入ります。
「ニュクストルが人道主義者だとすれば、戦うことよりも最低限の秩序や技術、諸々の社会基盤を再建するのを最初に目指すんじゃないか?」
「それは少し違うと思う。それなら最初に魔女を全員倒してからやった方が再建は楽だろう。結界が要らないからな。あいつの力ならきっと半日もあれば全ての魔女に勝てるんじゃないのか?」
「確かに」
「だが現状では結界が敷かれているし、内外はそのままそっくり貧富以上の格差になっている。結界の中はニュクストルの作った無人工場のおかげで餓えることもないし、なんでもかんでも配給される園内じゃ使い道もない金が毎月支払われるおかげでこうして以前と同じくピザと酒を楽しめるが、外では順番待ちの人だかりができてる上に水道もなく狩猟採集と食糧支援でしか食っていけない」
「そう……なのか?順番待ちはまあ仕方ないだろう。あの大断罪を繰り返さないためには、厳密な検査が必要だろうしな」
ケンの熱弁とは裏腹に、ジンはまだよく飲み込めていないようでした
「見たことないのか? 門の前にある無数のテントの山を」
「門に行くのは車とか飛行機が要る距離だろ。わざわざ見に行こうとは思わないよ」
「まあいい。それなのに今のところニュクストルから現状を是正しようという発言は出ていない。戦争が半ば膠着状態である今でも。そもそもニュクストルは社会病理自体にかなり無関心に感じる。軍事作戦に支障が出ない限りは、多分放置し続けると思う……これを人道主義者と呼べるか?」
「いいや」
「だろ」
ケンのその黒い瞳は鋭く輝いていました。
「まあそれでも、俺はあくまでもニュクストル様を信じてるよ。あのお方がいたから、俺は今ここにいられるんだからな。でも面白かった。ついでに俺からもちょっと不思議な話をしてやるよ」
「へえ、珍しいな。どんなだ?」
「俺が普段から魔女の研究をしてるのは知ってるよな?」
「ああ」
「今から話すのは魔女の宗教についてなんだが……『レイベオン』って知ってるか?」
「聞いたことは。魔女にとってのあの世を司る神だっけ?」
「その通り、価値判断の神、形而上の神、道徳の源泉だ。魔女の神話では、この世はレイベオンに侵食されているという」
「侵食?」
「直訳するとその意味になる」
「道徳の神に侵食される……?」
「うむ、道徳には輪郭がないんだ。例えば、責任とかっていうのはやろうと思えばどこまでも追求できるだろ?」
「そうか?」
「車が事故ったとしたら、その責任は運転手にあるが、そもそも運転手の親がそいつを産まなければ事故は起きなかったはずだろ?もっといえば人類が車を発明しなければ……みたいにな」
「…… 屁理屈だな。反出生主義者が好みそうな話だ」
ケンは呆れ気味に言いました。
「まあ聞いてくれや。だが事実として、道徳の射程は無限に遡及でき、その幅は指数関数的に拡大していくという性質があるだろ? これは裏を返せば、理論上は誰に対してもいくらでも愛情深く接することができるのと裏表で同じだ。ちょっと哲学くさいが」
「ふむ、そういうことにしとくよ」
「こういう道徳を魔女は『エイリアンモラル』と呼んでいる。無限の包摂と博愛は人間の本性にはなく、後天的かつ理想的にのみ把握される。それもレイベオンに影響されるかたちでのみ得られる」
「いきなり小難しい言い回しはやめてくれよ。頭に響く……まあ、それで?」
「これと対極なのが、動物や人間に見られる『ヒューマンモラル』だ」
「動物でもヒューマンなんだな。まあ確かにヒトも動物か」
「その特徴は家族や巣穴、国家など、輪郭のある秩序、いわば閉じた社会を形成することなんだよ」
「話がやっと見えてきた。なるほど、だからその対立軸は『エイリアン(外部からの)モラル』っていうんだな」
「鋭いな。そういうことだ」
「これを放っておくと、カントの言う永遠平和思想のように世界はどんどん“良くなって”いく」
「……正気か? この二年で何人の人が死んだと思ってるんだ」
「だから俺の意見じゃなくて魔女の考え方を言ってるんだ」
「……はぁ、で、それから?」
「最終的にヒューマンモラル、排他的な社会はエイリアンモラルに完全に侵食されて消えてなくなり、利他的な行動だけをし続ける人間とレイベオンと【無機の王】だけになる」
「無機の王ってなんだよ」
「価値判断をしない、一切の想念を持たない神のことだ。古代インドの「アサンニャッター」とかが該当する。パーリ語で無我を意味する「アナッター」と語源が同じだとされているな」
「アサン……なんでそんなこと知ってるんだ??」
「俺は元々魔法宗教学者なんだよ。言ってなかったか?」
「全然」
「まあ話を戻すと、人間は道徳に従って、できないことをやろうとして自滅していくんだ。人間はプリミティブな意味での人間性を失い、道徳的袋小路に入り滅びる。要するに消極的な反出生主義だ」
「それであれか、道徳の神に侵食されてるってことなのか」
「そういうこと。それで過去、人類は形而上学的存在からの侵略に何度も抗ってきた」
「どうやってだよ。形而上ってあれだろ、幽霊みたいで実体がないってことだろ?」
「もちろん普通の抵抗は無意味だ。だから特別な手段を取る必要がある。それが【よりよきもの】という、形而上空間に対抗的に適応した人間の姿だ」
「……詳しく頼む」
ケンは目を瞑って指を額に当てながら言いました。
ジンは言葉を選びながらなのか、ゆっくり話します。
「よりよきものは周囲から生命力を奪い全ての生物を殺すことで辿り着く、人間の究極的道徳状態の実体だ」
「待て待て、待ってくれ、専門用語なしで頼むよ」
「すまん、そうだな……要するに俺たち人間は、人類が絶滅するくらい人を殺しまくって最後の一人として生き残ると、その瞬間からよりよきものという神になれるんだ」
「一応聞くが、その神ってのは比喩表現か? 俺にはどうもニーチェの超人くらいしかイメージが湧かないんだが」
「残念ながら比喩ではない」
「比喩じゃねえのかよ」
「まあまあ聞いてくれ。それでよりよきものだが、別に積極的に殺さずとも、自分一人だけが生き残ったような状況でも、生きている存在者にのみ道徳的責任が問われ、既に死んだ者やまだ生まれていない者は絶対応答不能者として免責されるんだ」
「……まあ死人や受精卵に責任をおっ被せるのは無意味というか無理ではあるな」
「そしてここに見方の逆転がある。つまり、全ての生物を殺したよりよきものは、地上で最も強く応答責任を負う存在である点で、最も道徳的な存在といえないか?」
「なるほど……?」
「もう少し言い直すと、悪人は自らが責任を負うという点で、何の責任も負わない他者よりも、より道徳的な存在だということなんだ」
「仏教で言う、悪人正機みたいな感じか?」
「あれは阿弥陀仏の救済の比重、強度の話だから違うな」
「ふむ、まあいいや。それで?」
「ここからまた面倒な、ダイナミックな話になっちまうが、いいか?」
「まあ、それも奢りのうちに入れとくよ」
「はは、ありがとな。そうだな、この世には、【エランヴィタール(生命の跳躍)】という生物を進化させる流れと、【エランダムール(愛の活力)】という全てを道徳化させる流れの、目に見えない二つの奔流がある」
「あー……エランダムール?の方はさっき言ってた形而下を侵食するエイリアンモラルと繋がるのか。……エネルギーが湯気みたいに上がっていく感じか?」
「どちらかというと、逆再生した滝とか、ストローで水を吸い上げるみたいな感じだな。まるで重力を無視したように大量の水が上に上がっていくだろ」
「微妙だが、イメージは伝わる」
「そしてよりよきものは、形而上に向かって上昇し続けるこの二つの奔流に抗い、自らのポテンシャルエネルギーを用いて世界を形而下に引き戻すんだ」
「ほう」
「ポテンシャル、つまり位置エネルギーを使うということは、要するに高所からの飛び降りだ。当然その結果は無惨にも地面に叩きつけられるということでもある。そうしてレイベオンの形而上学領域から脱出したこの形而下の世界は、地面に叩きつけられて力尽きたよりよきものの死体から流出する形而下のエネルギー……化学反応というヴィタールを受けて生命を萌出し、そして再び形而上へ向かうエラン・ヴィタールを受けて進化し、また人間が登場するんだ」
「無限にループするのか?」
「少なくともこの地球では三十八億年前から現在までの間に、よりよきものは五回以上出現してきたと予想されている。丁度これは、奇しくも生物史における大絶滅と連関している。よりよきものとは災禍ではなく、形而下の存在者である俺たち人間が進化の過程で得た、形而上学的脅威に対抗するための手段、能力なわけさ」
「他の生命が存在する星では不明だが、もし生物が存在するならば形而下と形而上の戦いが繰り広げられていてもおかしくはないだろう。まあ…ここまでが魔女の文献研究で最近得られた成果だ。今はどうか定かじゃないが、少なくとも初期の魔女は今言ったような世界観でこの世を生きてる」
気がつけば二人はかれこれ五時間近く呑んでいました。
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