2・永訣を継ぐ者  Angareion

人物

 ・フリザンテマ:刀を使う魔女。仲間からの信頼は厚い。

 ・カーランフィル:見習い魔女。自己肯定感が弱く、自殺願望がある。まだ魔法は使えない。




 山脈よりも高い曇り空がどこまでも広がる、地形の隆起が激しい荒野で、戦車より少し速い二百キロ程度の速度でフリザンテマはカーランフィルと手を繋いで身体をくっつけあいながら低空を範囲浮遊──物体指定ではなく任意の空間ごと物体を浮遊させる魔法──で飛行していました。

 二人がくっついているのは、戦闘機が追ってきても大丈夫なように面積が足りない透明化マントを二人で共有するためでした。


「せ、先輩……?」

 返事はありません。

 もちろん怒っている訳でもありません。

 フリザンテマにはこの後輩が自分を案じて尋ねてきている、そういう気質だ、ということが分かりきっているからです。それは同時に、もはや喋ることすら危ないほど、フリザンテマの魔力が不足していることの表れでもありました。


 人間たちの戦車の最大行動距離を超えたあたりで、地平線の向こうに森が見えてきました。

 

 フリザンテマが持っている魔法の刀は、それ自体が魔力を貯蔵しているため、使用者であるフリザンテマの魔力を消費しません。その分、使用できる回数には限りがありますが、それは魔法で攻撃を行なうのも同じことでした。

 ピオンとアカシアの二人が、足止めと敵の数を減らすために残ったのは、フリザンテマだけにカーランフィルを連れて飛べる魔力が残っていたことと、万が一追手が来てもフリザンテマだけが魔力なしで戦えるからでした。


 霧が立ち込む、広葉樹が鬱蒼と生い茂る広大な森に到着すると、フリザンテマは速度を落とし、着地するや地面に倒れ込んでしまいました。

「だ、大丈夫ですか⁉︎」

 土まみれになってしまったフリザンテマをカーランフィルが大慌てで支えますが、カーランフィルの細い腕では支えるのでさえいっぱいです。カーランフィルは四苦八苦しながらなんとか大きな木の根元にフリザンテマを寄りかからせることができました。

 森にさえ逃げ込めば、再び追手が来てもカーランフィルの透明化マントで敵を撒くことができます。

 更に広葉樹の葉と森全体を覆う濃霧のお陰で、また偵察機が来ても上空からは捜査に時間がかかります。

 二人は少し休憩をすることにしました。


「先輩、お水と食事です! こんなのしかないですが……どうぞ…」

「気持ちだけ……受け取っておくよ」

 肩で息をしながらフリザンテマは応えます。

 その瞳は、どうやってカーランフィルの足跡を残さないようにすればいいかを思案し、山深く広がる森の奥へと向けられたものでした。

「先輩……この先、どうします……?」

 不安げにカーランフィルが聞きました。

「……この刀をあげる。必要になるから」

「え」

「あとは自分でいきなさい」

「ちょ、そんな! 無理ですよ! 私なんかまだ初歩魔法もおぼつかないどころか守護精霊すらいないし‼︎」

「それが好都合なんです。あなた以外で魔力なしにこの先を歩める者がいますか?」

「そんなことないですって! だってホラ、見てください! もう日没ですよ! 星空さえあれば魔力は回復するんですよね⁉︎ もう少しの辛抱じゃないですか!」

「よく知ってますね……でも残念なことに、私に魔力をお恵み下さる運命星が見れるのは今日の深夜なの」

「そんな……ッ」

「あとはもうわかるでしょう? これもまた星の意志、運命なのよ」


 直視できないほどに赫赫と耀く夕焼けがフリザンテマの柔らかな輪郭と艶やかな長い黒髪をふちどります。

「ここでお別れです。この森さえ抜ければ、ガラスの丘はすぐ目の前にあります……。もうあとはあなただけが希望。こんな未熟な私を先輩と慕ってくれてありがとう。大好き……さようなら……私の愛しい希望の星……」

 両目を閉じて笑顔でそう言い残したフリザンテマは、カーランフィルの目の前で無数の菊の花びらになり、散っていきました。

 花びらの山から刀の鍔にきらりと、夕焼けの最後の煌めきが反射しました。


 陽が落ちるや否や、まるで仕組まれたように雲が流れていき、頭上に天の川と無数の星がまたたきだしました。

 それに対して地上は星あかりで手元がほんの少しだけ見える程度です。そのせいかカーランフィルの表情はよく見えません。

 しかし彼女は刀の鞘を力強く握りしめ、よろめきながら立ち上がり、目の辺りを拭うような動きを見せ、マントを被って歩き出しました。

 行く先はガラスの丘──その名の通り過去、宝石の名を冠する魔女と人間が戦った際に、辺り一面の土砂を透過率百パーセントの透明なガラスに置換する魔法によってつくられた──巨大な戦争遺跡の一つです。宝石の魔女は何かの儀式を行なうべく、このガラスの丘を造り出したようですが、詳細は今も不明のままでした。

 そこになにがあるのか、誰もカーランフィルには教えてくれませんでしたが、カーランフィルはただ一心に、そこを目指して歩き出したのです。たった一人、不安と恐怖に押し潰されそうになっても、カーランフィルは先に進むことを選んだのでした。

 託された想いと希望を紡ぐために。


   *


 作戦行動を終え、戦車運搬車に乗せられた戦車の操縦席で、ケンがハッチを少し開けてなにか匂いをかいでいます。

「菊の香りがしたんだが、気のせいか?」

「匂いでどの花かわかるんですか。すごいですね……!」

「まあな」

 ハルも運転席のハッチを開けて、顔を覗かせました。

「わぁ……! なんだか今日は普段よりすっごく夕焼けが綺麗です」

 ヘルメットのバイザーを上にあげながら西の方を見遣るハルが、感慨深くつぶやきました。

「ああ……そうだな……」

 ケンは西へと逃げていった魔女と、自分が殺した魔女を思い出し、目元を親指と中指で軽く押さえながら、ハッチを閉めて席に戻りました。

「眩しすぎて見てらんないな」

 結局、逃げた魔女は深追いせず、ケンたち戦車兵らは結界に帰還しました。


   *


 今から二年前、まだ地上には国家による秩序があり、ジンが陸軍の一戦車兵長だった頃の話です。


 事件が起きたのはある日の深夜のこと。


 ジンが毎日の楽しみにしていたインターネットアイドルこと【ニュクストル】の夜の生放送が、今日に限って急遽中止になり、ジンが肩をがっくりと落とした時にそれは起こりました。


 兵士たちが寝泊まりする兵舎の隣、作戦本部棟の一室に、叩き起こされた兵士たちが集います。


 事態は深刻です。予告なく開かれたミーティングで司令官が言うには、先程都市部で大規模な暴動が起きたので警察や機動隊が出動したものの、しばらくして突然連絡が途絶えてしまったとのことでした。


 昨日、テロ組織が拠点にしていた山村で、警察の【特別対テロ部隊】が銃撃戦を起こしたばかりです。


 暴動が起きているとはいえ、場所は市街地、それも首都の真ん中です。そんなところに軍が出て大丈夫なのか。ジンがそう上官に尋ねると、こう返されました。

 連絡が絶える前、警察側で複数の負傷者が出ていると報告が上がっている、と。そうなった以上、並の暴動ではなく、それどころかテロの可能性も考えられます。


 数百人以上の警官を投入しても全く事態収拾の目処が立たず、酷くなっていくばかりでした。こんなことは初めてでしたから、軍隊が派遣されることとなったのでした。


 毎日観ているニュクストルの配信動画は、今日は不幸にも出撃が重なってしまい、観れずじまいになってしまいました。


 ジンは部下と共に【M84AS戦車】に乗り込み、出撃しました。


 旧ソ連時代のものを改修した中では、最も先進的な装備が施されたモデルの一つです。同僚らは通常の【M84A戦車】に乗っています。

 今回の任務は警察の支援です。最終的な目標は暴動の主要メンバーの捕縛ですが、これと同時並行で暴徒の規模の把握と市民の保護も行なわねばなりません。八両の戦車に、十両の装甲車──その中には合計で八十人の歩兵が乗っています──が、出発しました。


 道中、焦げたような、鼻が痛くなる匂いが漂いはじめ、そして濃くなっていきました。どうやら大きな火災が起きているようです。


 ジンの戦車が街に着くと、まず目についたのは壊れたバリケードでした。事前の報告通り、どうやら警察による道路の封鎖は失敗しているようです。

 そして大通りに抜けるや、そこには異常な光景が広がっていました。なんと暴徒だけでなく制服姿の警官までもが一緒になって、皆が建物を壊し放火し、逃げ惑う人々を囲んで殴り殺して回っているのです。


 この光景を目にして真っ先にジンは部下たちに、窓を占めて戦車の与圧換気フィルターを起動し、ガスマスクをつけるように命令しました。戦車に搭載された化学兵器検知装置は反応していませんが、状況からして精神錯乱作用のある毒ガスを使った大規模な化学兵器テロの可能性を思いついたからです。

 ジンは無線で状況を本部に報告しました。そして軍の化学防護部隊も応援に派遣される運びとなりました。


 先ほどのミーティングによると警官の負傷者の他、捜索用のヘリコプターまでもが墜落する被害が出ているとのことです。もし事故でなく攻撃で撃墜されたのだとすれば、想定される暴徒側の武装は、およそ警察では対処しきれるものではありません。当初の想定より大変なことが起きてそうだと、ジンの想像はどんどん膨らんでいきました。


 応援が到着するまで、ジンは街の中へと戦車を進ませ更に状況を調べます。車内の空気が浄化されたので、ジンたちはつけていたガスマスクを外しました。他の部隊の報告では、暴徒は川に面した街の中心を目指しているようです。

 しかし、歩兵では余りにも危険な道中──錯乱した暴徒たちは兵士の警告を無視して襲いかかってくるのです──でしたから、まずは分厚い装甲で守られた戦車兵が、率先して奥へと進んでいくこととなりました。

 ジンの戦車に同乗している乗員の青年らは皆、ずっと言葉を失っているようです。今日以前に暴徒の鎮圧に駆り出された経験があるのは、車内でジン一人だけでした。


 東西に流れる大きな川が首都の中央に走るこの地域は、国内で最大のショッピングセンターや展示場を有しており、再開発された中心部には煌びやかなガラス張りの商業ビルや高級マンションがいくつも立ち並んでいました。夜になると建築物は美しく照らされ、水面と鏡写しになった優美な景色が広がっています。

 しかし今や、ビルのガラスはその全てが無残に叩き割られ、俳優を起用した広告のポスターは引き裂かれています。街を照らしているのは電灯ではなく燃え盛る自動車だけでした。


 揺らめく炎の光が戦車の覗き窓から差し込み、激しいエンジンの振動に揺れる暗くて狭い車内で、鋭く周囲を観察するジンの顔をぼうっと照らし出します。


 荒らされ尽くした街並みを見て、ジンはある事に気付きました。家具屋の調度品や日用品店の品物、高価な家電製品がどれも盗まれず綺麗に残っているのです。単なる暴徒ではなく、何か別の意図を持って訓練された組織の犯行──それこそ反政府思想を持った集団のような──この違和感は先程の化学兵器の可能性を更に補強する証拠だとジンは踏みました。

 実際、先の事例で山村を拠点にしていたテロ組織は、憲兵大隊の隊員を爆発物で殺傷しているのです。


 この国の首都を代表する四十階建てのオフィスビルの前にある緑地広場──そこに大勢の暴徒が集まっているのを、ジンの戦車部隊は遂に発見しました。

 不思議なことに、戦車が巨大なエンジン音を発しているにも関わらず、暴徒たちはそれに気づいていないようです。広場に点在していた街灯は例のごとく全て叩き壊されているせいで集まりの周囲は薄暗く、何がどうなっているのかよくわかりません。


 ジンはカバンから安い給料をはたいて買った暗視装置であるスターライトスコープを取り出し、戦車の覗き窓から周囲を窺いました。しかし、映像がぼやけてやはり何も見えません。もう一度ガスマスクを被って窓から身を乗り出しても、暗視装置の設定をいじくりまわしても、手で叩いてみても。火事の明かりにうっすらと照らされる群衆の、水草のような揺らめきしか分かりません。


 こんな時に故障かと諦め、ジンは戦車に同乗している砲手に命じ、戦車の照準器に付いている赤外線カメラで、暴徒たちの様子を確認させました。今ここで使えるハンディタイプの暗視装置はジンが持っているこの一台しかありません。軍隊にはお金がない上に、ジンが搭乗中の戦車より据え付けカメラが充実した高級な車両はあいにく修理中だからです。


 赤外線カメラを立ち上げるや、砲手は声にならない声を上げました。

 どうしたんだとジンが聞く前に、砲手は言いました。

「人が浮いてます!」

 なに?とジンが言いかけたその時、眩い、青白い光が戦車の中を満たしました。ジンがまぶしさをこらえながら覗き窓を見ると、光は暴徒たちの集まりの中心から放たれています。暴徒たちはというと、みな一斉に立ち尽くして身体を力なく左右に揺らすばかりです。その光の上に人が、女が一人、宙に浮いていました。いえ、光はその女から出ています。女から伸びる幾筋にも枝分かれした光が生き物の触手のようにうねっていました。まるで目の見えない人が物を触ってその形を確かめるような動きです。


「それは見ればわかる! 眩しくて詳細が分からないんだ! あの集団は何か武器を持っているか⁉︎」

「それらしいものは見えません!」

 無線の通話ボタンを力強く押下して、ありのままの出来事全てを、ジンは率直に本部へ報告しました。言っても信じられないだろうとジンは腹を括っていましたが、本部の反応は存外素直。というもの、同じような報告を他の部隊もしていたからです。しかし別に、本部はそれらの報告を全く信じ切っていたわけではありません。むしろ、ジンたちの方こそがなんらかの原因で集団幻覚を見ているのだと考えていました。


 そこに警察の応援が到着しました。広場を囲うビルにも警官らが突入します。


 戦車部隊の後ろから、抗弾板で窓をかためられた輸送バスの車列が緑地公園の周囲を囲み、車から続々と、流れる水のように機動隊員が降りていき、防弾仕様のバリスティックシールドを構えて鮮やかな隊列を組みました。


 いつものジュラルミンシールドではありません。それはつまり、暴徒の中に銃を持っている者がいる事が明らかな状況に他なりません。

 連絡を絶った警察や機動隊の最後の負傷者の報告で、銃を持っていることは疑いようがありませんでした。そればかりか警察に至っては捜索用のヘリコプターまで墜落しているのです。


 テロリストの武装は、およそ軽く見積もる事など出来ないものでありました。ジンたち戦車兵が派遣されたのは、それだけ事態が深刻を極めているからでした。


 機動隊員がスピーカーで集団に呼びかけます。

「ライトを消せ! 両手を頭に回してうつ伏せに!」

 しかし反応はありません。揺らめく光に機動隊員たちが照らされます。


 戦車兵には待機命令しか出ていませんでした。


 機動隊員の一人が首元の無線機をいじるのが見えました。それに続き、左手に盾、右手に警棒を持った隊員らが集団に向かって歩き始めたのです。

 拡声器が何度呼びかけても反応はありません。隊列はせばまっていく一方です。

「これが最後の警告だ!」

 そうスピーカーの声が響くや、周囲を包んでいたあれほど眩しかった光が一瞬にして消えました。

 それまであまりにも明るかったので、警察は投光器を点けずにいたのが災いしました。


 そしてほんの数秒、周囲が暗闇に包まれるや「わあッ⁉︎」思わずジンも身体をこわばらせました。砲手の青年の叫び声でした。飛び上がって身体をのけ反らせています。


 よほど緊張していたのか、明かりが消えたくらいで大げさなやつだ、とジンは思いました。

 投光器の光が灯り、再び集団の姿が浮かび上がった時、ジンを含めその場にいた全員が目を疑いました。

 それまで集団の周りを囲んでいた機動隊員らが全員、地面に倒れ込んでいるのです。ただ倒れているのではありません。首がないのです。

 攻撃? いや、銃声はなかった。消音器付きか、周囲のビルは既に警察が抑えているはず。ということは狙撃位置はさらに遠くか川の対岸か。しかし首だけをどうやって? 脅威の想定がジンの頭に逡巡します。


 その時、戦車の天井からごとごとっっと、固く重い何かがぶつかるような音がするや、間髪入れずジンは伏せろ! と乗員たちに叫びました。

 昔、南部の抗争地域へ住民保護のため戦車でジンが進駐した時に、反政府抵抗組織から梱包爆弾を投げつけられてそれが炸裂し、吹き飛んだ窓ガラスが身体に刺さった経験を今でも鮮明に覚えていたから取った行動でした。

 うずくまりながら数秒、しかし何も起きません。爆弾ではないようです。


 すぐにジンは覗き窓から目を見開いてぎょろぎょろと周囲を観察しながら戦車を今すぐ発進させるべきか考えました。

 どこから撃たれたのかが分からない以上、一箇所にとどまっているのは危険そのものだったからです。そしてジンは汗を滲ませながら考えをまとめ、無線機を手に取りました。


 戦車が走るには、ここは少し狭く、車両が密集し過ぎていました。警察の防弾輸送車程度なら戦車で押しのけて進めますが、まずは機動隊員らの安全の確保が先でした。

 そんな事を考えながら、状況を報告しろ、とジンは乗員らと僚車に呼びかけます。


「く、首が……機動隊のやつら、みんな首が吹っ飛びました!」

 砲手が叫びます。彼は三秒にも満たない暗黒の中で唯一、白黒表示の赤外線カメラで出来事の部始終を見ていたのでした。


 首が吹き飛ぶ前、黒い背景に浮かぶ灰色のシルエットの隊員らはみな、隙間なく盾を構えてしっかり身を守っていました。にもかかわらず、人形の頭をねじったように首が吹っ飛び、牛乳のように真っ白な血がこぼれ、倒れ込んだ死体から静かに湯気が立ち上がったのです。

 砲手の青年以外に報告はありませんでした。

 ジンは無線機で、本部に機動隊が被害を受けたことを報告しました。そして警察の指揮車に、大通りまで退避! と無線で全ての車両にその場から離れるよう指示しました。


 倒れた機動隊員の中にいるかもしれない生存者の救出をジンは考えましたし、実際警察の車両は隊員救護を主張しましたが、目の前のうずくまる集団の中に爆発物を隠し持っている可能性を考えて断念しました。

 ただでさえ飛来方向すら不明瞭な狙撃の危険性がある以上、下車救護など論外であり、取るべき選択肢は煙幕の展張とそれに乗じた退避からの態勢立て直し以外にありません。ジンは無線で周囲の警察車両に呼びかけました。


 中央にいた女は攻撃せずそのまま目の前から消えました。

 集団は変わらず昏倒しています。更なる異常はそのあとでした。


 文字通りの【怪物】が、昏倒した人々の影の中心から現れたのです。

 目玉をくりぬかれ、鼻を切り落とされた人間のような顔の四本足の怪物。顔の肌は出来の悪いろう人形の様に血の気がありません。手足の表面はうろこでおおわれ、豚の皮を貼り継いだような腹には無数のアンテナらしき棒が刺さっています。

 なんだあれはと思いながら見つめていると、この怪物もまた一瞬で姿を消した、と思った矢先。

 次の瞬間にはジンたちの右側で待機していた装甲車に体当たりし、装甲車をまるで空き缶のように潰しました。戦車の中にいてもその轟音が聞こえます。


 装甲車の中にいた警官たちがどうなっているかなど想像するまでもありませんでした。


 怪物が少しだけ車から離れたかと思うと、その気色の悪い相貌をぐるりとこちらの方へ向けました。


 発砲許可を要請する時間などありません。

 ジンは砲塔を右に大急ぎで旋回させながら目を見開いて叫びます。

「徹甲弾、目標、三時の怪物、撃て!」

 砲手の青年は若かったものの、腕は確かでした。ジンの足元の機械が複雑に回り、砲弾が主砲に込められるや、すぐさま発射されました。暗視装置の風景は砲煙の高熱でひどくゆがんでいます。

 その中で辛うじて見える音速の四倍を超える速度で飛んでいく砲弾の軌跡は、ひどくゆったりと感じられました。緊張のせいでスローに見える、そうジンは感じましたが、すぐに異変に気づきました。

 ゆっくりどころではありません。止まっているのです。砲弾は怪物の手前で、空気の壁に刺さったダーツのごとくぴたりと止まり、少しの間を置いて地面にがらんと音を立てて落下し、その先端は鉛筆の芯のようにへし折れてしまいました。

 他の車両も間髪入れず怪物へ砲撃します。その全ての砲弾が怪物へと飛んでいくや、今度はその全てが命中する直前に魔球のように軌道を変えて怪物の斜め上へと吹っ飛んでいき、奥のビルに衝突したのです。


 装甲車を押し潰し、砲弾をはじく──正体はさておき、目の錯覚や超常現象の類を考えるまでもなくあの怪物は、明らかに「ヤバいやつだ!」とジンはそう悟るや「前車全速後退‼︎ 煙幕展張! 互いに援護しつつ反転し、全速離脱! 指示があるまで大通りを抜けて北上しろ‼︎」と無線で叫びました。


 戦車に付けられた発射装置から煙幕弾が飛び出すや、黄みのかかった白い煙のスクリーンを広げました。それに乗じて各車が走り出したその時、怪物はというと顎を震わせ、がたがたと歯を鳴らすや、首を左右に激しく振りだしました。

 次の瞬間です。突然車内が前後に激しく揺れ、投げ出されたジンは顔面を車内の機材に強打しました。

 怪物に攻撃されたのか? そう思ったジンはずきずき痛み出した鼻を手で押さえ、涙目の顔をしわくちゃにして歯を食いしばりながら除き窓を見て、そして一瞬目を見開くや、ぽかんとあっけに取られてしまいました。


 走り出した戦車が全て、前のめりになって泥へとまっすぐに突っ込んでいたのです。


 たった今まで緑地広場だった筈のそこは、魔女でも住んでいそうな沼地になっていました。いえ、ビルは変わらずありました。泥からビルが生えているのです。

 まるで地面だけをすっかり泥に置き換えたかのようでした。戦車の履帯は全速力でから回りし、虚しく泥をかき出しています。車内の乗員も、無線の仲間たちも、皆混乱していました。


 しかしいつまでも狼狽している場合ではありません。怪物は変わらず目の前にいるのですから。

 しかも泥の上を浮かびながら歩いています。

 ジンは無線機を取り、本部へ近接航空支援を要請しました。

「こちらアルテミスチームより鶏頭、座標は区画F-17、終端誘導はレーザーで行なう! 徹甲弾も榴弾も効果がない相手だ! 暴徒との関係性は不明! 至急応援を!」

「こちら鶏頭。そこは首都だ。交戦は避け、一定の距離を保ち目標の位置を報告しろ」

「不可能だ! 周辺が沼地になっていて身動きが取れない! 何らかの影響で川が増水したか地下水が出たのかもしれない! とにかく戦車も通れないほど地質が軟弱になっている!」

「意味が分からない。もう少し具体的に」

「具体的⁉︎ 無理だ! とにかく危険なんだ! 早く支援を‼︎」

 ジンが喋ったその時です。突然戦車が横揺れしたかと思えば、数メートルの高さまで戦車が投げ出され、車内で頭を強打したジンは気絶してしまいました。


   *


 それからどれほどの時間が過ぎたでしょうか。

 土っぽい車内でジンは目が覚めるや、大きく苦しそうに咳き込んでしまいました。急いで水筒の水を飲みます。ジンの隣で砲手は泡を吹いて白目をむいて死んでいました。目立った傷はありません。

 ジンは青年のまぶたをそっと閉じてやりました。

 戦車は空中で一回転したせいなのか、天井は床に、椅子は頭上にあり、数本の砲弾が足もとという名の天井に転がっています。

 よく見ると車長席に設けられた強化ガラスの小窓から白い光が差し込んでいます。

 機材に足をかけ、壁をよじのぼり、床(天井)に設けられた脱出用ハッチを開くと、一気に車内が眩い光に包まれました。

 ジンは再び水を飲みながら、目が明るさに慣れるまで待ちました。


 そして意を決して戦車から抜け出ると──腹がつっかえたのはさておき──一帯はガラスの平原になっていました。

 戦車から降りると、なぜか戦車にはいくつも血痕がついています。

 操縦席を開けると中で運転手も死亡していました。

 運転手は一体何を見たのか、見ているこちらまで悪寒がするほどの何かを恐れた表情をしており、両目を自分の手で抉り出していました。

 結局他の車両も全て同じ状況でした。

 神経系の化学兵器で殺されたのかとジンは一瞬疑いましたが、それならずっと気を失っていた自分が助かった理由が分かりません。


 戦車のエンジンは止まっています。燃料計を見ると空っぽでした。バッテリーも上がっていました。当然、化学兵器防護のための空気浄化装置も止まっています。ガスマスクの効果時間はとっくに切れていて使い物になりません。どうも一連の出来事は化学兵器のせいではないらしい、とジンは考えました。

 バッテリーが上がってしまったせいで無線も動きません。内蔵電源まで尽き果てていました。


 ジンはヘルメットを脱ぎ、汗で固まった白髪交じりの薄い髪の毛を掻きながら、不細工な丸顔に濃い顎髭が伸びているのを指で触って確かめました。


 何も明らかでない状況とは対照に、恐ろしいほど空気は澄んでいます。一面ガラスの大地を除いて、周囲には何もありません。深く、沈むような青色の空と真っ白の太陽が頭上に広がり、涼しくやわらかな風がゆっくりと吹いていました。

 ここまで綺麗な空気を吸ったのは、ジンにとって初めての体験でした。

 ジンはしばらく歩き回ったのち、ガラス化していない土砂を見つけるや、全ての車両から遺体を丁寧に運び出し、犠牲になった仲間たちの墓を作ってやりました。

 最後の墓標に名前をナイフで刻みつけ、突き立てた頃には、陽はすっかり傾いていました。

 できあがった墓の前でしばらく目を閉じてじっと立ったあと、ジンはゆっくりと歩き出しました。どこへとも知れず。


 ジンがニュクストルの結界に辿り着いたのは、無人の街に残された食糧を漁りながら方々を歩き回って、三ヶ月が過ぎた頃のことでした。


 打ち砕かれたガラスが散乱する雑貨屋の中で、腐ったサンドイッチと腐乱した店員の死体をどかしながら、ほこりまみれのコーラ味のグミと魚の缶詰と、ぬるくなったビールを手に取り、持っていたビニール袋に詰め込んでいた時のことです。


 グラビア雑誌の表紙──もちろん二ヶ月前の号の──に写った水着の女をジンはふと見つめました。

 その途端に、ジンは声にならない叫び声をあげてしまいました。

 自分以外の人間はみんな死んだ──という感覚が、最初から分かっていたものの、さらに一段と実感を伴って満身創痍のジンの腹に落ちてきたのです。

 ですがそれは孤独感からではありません。ジンの頭にそんな高尚な憂いなどありません。


 ジンは店外へ飛び出し叫びました。

「もう二度と女に会えない⁉︎ 馬鹿な! ありえないありえないありえない‼︎」


 このまま自分は永遠に童貞として生きて、一度も誰ともまぐわえないまま死ぬんだという果てしない絶望と恐怖からのものでした。


 叫び尽くしたケンはそのまま道路の上にふらふらと出てくるや、その場でひざまずいて仰向けに倒れ、通るはずもない車を待ち、しばらくした後、再び歩き出しました。


「あの!」


 突然の呼びかける声に、ジンは目を丸くして硬直しました。

 ジンは一瞬、それが人間の発した声──ましてや若い女のそれだとはとても認識できませんでした。

 全身をブルブルと震わせながら恐る恐る振り返り、そしてジンはかすれた、声とも呼吸ともつかない音を口から漏らしながら、声の主を凝視しました。


 ニュクストル──ジンが夢にまで見たあの憧れの人が、そこに居ました。

 しかもただそこにいたのではありません。空から降りてきて、声をかけてきたのです。

 太陽光線を浴びて虹色に煌めく長い髪を柔らかな風に揺らしながら、心配そうな表情でニュクストルは尋ねました。


「救助にきました、ニュクストルです! お怪我はありませんか⁉︎」

「お……あぁ……はい」

 ジンは震える声でひざまずきながら言いました。

「女神さま……」と。


 こうしてジンは救出されました。


 もはやジンにとってニュクストルは、単なるインターネットアイドルの枠を超えた存在でした。

 肉体と精神と欲求の三要素全てを救済してくれる、全知全能の本物の女神に他なりません。当然感謝してもしきれません。せめてものこの身の一生を捧げると、ジンは固く固く決意しました。


 ジンが歩いてきた方角は魔女の拠点である「園」がある方向であり、そこはもはや誰も生きてはいない無人地帯だと判断され、難民の捜索が打ち切られていたのです。

 ですがニュクストルは万が一の生存者の可能性を考え、危険を承知で周囲に人が残っていないか捜索に来ていたのでした。


 ニュクストルに連れられ結界に辿り着いた先でジンは、しばらく言葉を発せられませんでした。

 その時のジンの感情は、ジン自身はもちろん、誰にも言語化してやれるものではなかったのです。

 結界で保護されたジンは、三ヶ月ぶりに飲める浄水で手を洗い、口をゆすぎ、顔を洗い、真新しい服を与えられ、虫下しを飲み、そして期限が切れていない食事──白いスープとパンでした──を口にして、それから、人々の他愛ない会話を聞くや、遂にむせび泣きました。

 ジンにとって、もはや涙など今後一生出ないものだと思われていたにも関わらず、です。

 それからジンがニュクストルをいよいよ本格的に崇拝し始めるのには、時間はそう多くはかかりませんでした。

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