第174話 ルーナ・ユピトール
アトリアはルーナに連れられて店の外へと出かける。ラナンキュラスはルーナに声をかけられ、店を少しの間スガワラに預けて一緒に出て行ってしまった。
「――さっきの人、アトリアさん『ユピトール卿』って呼んでたわよね? ひょっとしてあの……?」
「らっ…、ラナも『ルーナ様』と呼んでいました! 『ユピトール卿』のお名前は『ルーナ・ユピトール』様だったはずです。きっ……、きっと間違いありませんよ!?」
アレンビーとパララはお互いにルーナが出て行った酒場の扉を見つめる。セントラル卒業生の彼女たちにとって『ローゼンバーグ卿』と並び、『ユピトール卿』もまた畏敬の対象なのだ。
「どうしよ……、挨拶しそびれちゃったわ。私――」
「わっ…私もです。まさかラナがあの『ユピトール卿』とも知り合いだったなんて……」
酒場「幸福の花」からしばらく歩き、街を流れる川のほとりにやってきたルーナとアトリア、そしてラナンキュラス。
1日でもっとも暖かくなるであろう時間、川からはかすかに涼やかな風が流れ込んできていた。
「まず――、重力魔法といえど、標準魔法と同じで射程距離がある。だけど、反重力を扱えるようになると滑空が可能になってね。距離を詰めることが容易にできるわけだ」
ルーナはアトリアに質問を投げかけていた。重力魔法を仕掛けられた際の対処法について。他の魔法と違い、視界に捉えられない「重力」は魔法同士の相殺がむずかしい。では、広範囲を結界で守るといった選択になるのだろうか?
アトリアは何度か首を捻り、よく晴れた空に時折視線をやりながら最終的にはやはり「結界で守る」の結論に至った。
「半分は正解。ただ、同じ結界による防御でも、もう少し器用にできれば足を止めず、場合によっては反撃に転じることもできるだろうさ?」
「……結界を、器用に、ですか?」
「――『魔空結界』、ですね?」
答えたのはラナンキュラス。ルーナはにやりと笑って「さすがはローゼンバーグ卿」と一言添えた。
「魔空結界」。アトリアも言葉としては知っていた。そして、実際にそれを使う魔法使いの姿も目にしている。
彼女がそれを目にしたのはセントラルでのバトルロイヤル。使用者はウェズン・アプリコット。彼女が自身の背中に展開されたフレイムカーテンに自ら突っ込んでいった時だ。
通常、魔法結界は相手の魔法に対して「面」で展開する。魔力によってその厚みや広さを調整でき、敵の攻撃から瞬時に的確な範囲と強度を判断して展開するのだ。
対して魔空結界は自身の周りに「球」のバリアを展開する。全方位からの攻撃に対処できる一方で、魔力の消費も激しくなる応用技であり、高等技術でもあった。
「重力魔法は『面』で防ごうとすると足を止められてしまうのさ? ただ、魔空結界を使いこなせば移動して術者のエリアを突破できる」
重力魔法の――、おそらくスピカ以上の使い手であるルーナからの助言。アトリアも一応、魔空結界を使えなくはない。問題はスピカの攻撃に対して耐えうる結界をどこまで維持できるか、だ。
ルーナは河原を歩いて、杖で地面に大きな〇の印を描いた。
「ご存知の通り、私は人へ向けて魔法を使えない。だから、私が重力魔法を展開したエリアにあなたから自分で突っ込んでいってもらうしかないわけさ?」
彼女は自分の描いた〇印に杖の先を向ける。
「あそこを魔空結界で突っ切る。それができたらスピカの魔法にも対処できるだろうさ? さあさ、やってみな?」
ルーナに言われ、彼女が指し示す先を見つめるアトリア。魔力を集中させ、いざそこに向かおうとする。
しかし、アトリアの意思に反して彼女の足は小刻みに震え動かないでいた。遅れて、背中からぞわぞわと「なにか」が立ち上ってくるのを感じる。
アトリアは少ししてそれが「恐怖」だと理解した。
『……おかしい。これは単なる訓練であって実戦ではない。それに、目の前の魔法使いは人に攻撃ができないはず。なのに――』
剣術の鍛錬によって、同年代の中でもはるかに多くの実戦経験を積んでいるアトリア。とりわけ「相手の技量」を見抜く能力に関しては、無意識に極めて高度なレベルに達していた。
そんな彼女ゆえに、自身の意思ではなく、もはや細胞レベルの本能が戦いを拒絶しようとしていた。たかが訓練、――にもかかわらず、目の前にいるルーナ・ユピトールはそれほどまでに魔法使いにとって「圧倒的」な存在なのだ。
アトリアの近くに立っていたラナンキュラスは、とても小さな声で一言だけぽつりと呟いた。
「――すごい」
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