第8話
牛窪城の周辺では長年続いてきた戦乱が絶え、平和が訪れている。
奇妙な平和、と言ってよい。
「戦国時代」は応仁元年(一四六七年)に勃発した応仁・文明の乱に始まったとされているが、その存在自体が混乱の元凶ともいえる足利幕府のもとで、戦乱そのものは鎌倉時代の終焉前後から二百年もの間ずっと続いていた。それが絶えた。
むろん、それは保成が独力で勝ち得たものではなく、保成の旗頭である今川家によってもたらされたもので、
「パクス・イマガワーナ ── 今川による平和」
とでも呼ぶべきものである。
今川義元は、松平家中の内紛で援助を求めてきた松平広忠を傘下に収め、その勢力圏を西三河にまで押し広げ、さらにその先の尾張にも浸透し始めている。
牧野家の宿敵戸田家も吉田城陥落の後今川の軍門に下り、それ以来弱小勢力に成り下がっている。
保成を頂点とする牛窪衆は、今でも今川家のいくさに駆り出されることもあるが、それは武士の問題であり、一般の民には関係ない。
平和になれば人の動きが盛んになる。民は生業に勤しみ、購買意欲は高まり、享楽にも目覚める。近所でイベントかなにかがあれば、出かけてみたくもなるだろう。
城下には市が立ち、人々が集まっている。
とは言っても、この日集まった人々の目当ては市での買い物ではない。御開帳、が目当てである。
城の惣門を出てすぐ左に、永正十四年(一五一三年)に真木一族出身の念宗法印によって建立された「長谷堂」があり、牧野家の守本尊となっている観世音菩薩像が安置されている。この菩薩像は、大和国長谷寺の十一面観世音菩薩立像を制作した時に余った材で作ったといい、念宗法印が持ち帰ったとされるが、参拝すれば願いが叶うということで、人々の崇拝を集めている。
この長谷堂で、七年に一度の御開帳があるという。
その話を聞きつけた忍は、花藻の家に行き、彼女の枕元に坐るなり切り出した。
「ねえ、花藻──」
「………?」
花藻は、生気がなく焦点が定まらない目を忍に向けた。
「あのね、長谷堂で御開帳があるんだって」
「御開帳……?」
「そう、観音さまの御開帳。
「ああ……、そういうはなしがあったわね……」
花藻は気のない返事をした。
玉鬘の姫とは「源氏物語」の登場人物である。母親は光源氏の思い人であった「夕顔」で、父親は光源氏の従兄で義兄でもあり、終生の朋友でもあった
夕顔は光源氏との逢瀬の際に、物の怪に憑り付かれて頓死してしまい、四歳だった玉鬘はその死を知らされないまま、太宰少弐に任ぜられて下向する夕顔の乳母家族と共に、遥かなる鎮西の地、筑前国に下っていく。
そのままその地で暮らすこと十六年、美しい女性に成長した玉鬘は、近隣に住まう数多の男に言い寄られるが、特に肥後の有力武士で
なお実在した大夫監は、天慶二年(九三九年)十二月に発生し同四年六月に終結した藤原純友の乱で官軍側として戦い、従五位下対馬守兼大宰大監に叙任された
孫の種材は沿海州周辺に住むツングース系民族の海賊が南下して対馬や壱岐を荒らし、更に博多に上陸した「刀伊の入寇」の際に活躍し、従五位下壱岐守兼大宰大監に任ぜられた人物だが、この事件は寛仁三年(一〇一九年)のことで、寛弘五年(一〇〇八年)かそれ以前とされる源氏物語の成立の後になるので、種材がモデルになることはあり得ない。
彼らの子孫は九州北部で大いに栄え、のちに秋月・高橋・原田・江上といった戦国九州を彩る諸氏となる。
九州における最有力者で非常な実力者が相手なら、求婚は喜ぶべきことであろう。まして育ての親ともいうべき夫婦の部下である。しかし玉鬘はがさつな田舎者の大夫監を拒み、夜逃げ同然に船に乗って、京を目指す。
上洛した玉鬘は、母親の消息を知るため大和長谷寺の御利益を頼もうと参詣するが、その途上、
玉鬘は右近の手引きで光源氏に養女として引き取られ、その邸宅「六条院」に住むこととなり、その後、のちに太政大臣にまで出世する「髭黒」の妻となる。
「長谷堂の観音さまは大和の観音さまと同じ木で作られているっていうから、霊験あらたかなのは間違いないんじゃない?」
もとより源氏物語はフィクションだということを、忍も十分承知している。しかしそういう挿話があるということは、その昔から長谷寺には強力な霊験があると信じられていたのであろう。
「霊験……? 何のこと?」
「あなた、笊庵先生は気鬱だっておしゃっていたけど、本当は恋煩いなんじゃないの?」
「え?」
花藻は戸惑いの表情を浮かべて忍を見たが、すぐに蒼白だったその顔に赤みが差し、やがて真っ赤になった。
「ほら、図星でしょ。あなた、顔が真っ赤よ」
「……いやだわ」
花藻は両手で顔を覆った。
忍が現代の若い女性なら、このあと、
「だったら、とっとと告白して楽になっちゃいなさいよ! なんだったら私が言ってあげようか?」
と言うところであろうが、この時代に生きる彼女ではそうはいかない。
愛の告白などは男が女にするものであるし、だいたい地元の名士一族の又次郎と城主の使用人である花藻とは身分も立場も違い、思いを伝えることなど不可能であろう。
思いを遂げる唯一の手段は、一度保成の側室に入り、その後又次郎に下賜されるように仕向けることだが、それでは最低一度は保成の手に掛ることになる。しかしそれだけは絶対に避けたい。
──真木さまが村の男だったら……。
と、花藻はふと思った。
古来から、地下の村々では「夜這い」という風習がある。
娘が年頃になり、初潮を迎えると、その親は離れを設けて、娘にその小屋で寝泊まりさせる。
村の男たちは夜な夜なその小屋を訪れて、娘とまぐわうわけだが、娘は妊娠すると父親は誰それ、と指名する権利を持っていて、指名された男は夫となる義務を課されている。生まれてくる子供は、実際には誰の子か分からない。しかし余程の
つまり娘は面倒な告白をすることなく意中の男と添い遂げることができ、仮に好きな男がいなくても、村の中で一番好ましく、一番イケメンな男を指名して夫にすることができる。
「やだ~!」
花藻の脳裏に、頬かむりをした又次郎がこの部屋に忍び入ってくる情景が浮かび上がり、すでに真っ赤になっている顔を更に赤くして首を振った。
「……? なにが? どうしたの?」
「え? あ、何でもない!」
「変な花藻」
忍は苦笑して、上掛けの上から花藻の胸を叩いた。
「……でもたまには表の空気でも吸ったほうがいいんじゃない? ずっと寝ていたら身体にカビが生えちゃいそう」
「そうね……。ちょっとお参りに行ってみようかしら」
「そうよ。観音さまにお縋りして、真木さまにその思いを伝えて頂いたら?」
「うん、そうしてみるわ」
花藻は上体を起こして、手を胸に当てた。
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