第7話



 やがて娘は廊下の端々まで拭き終わり、又次郎と林之介に会釈をして去っていった。桶を両手で引きずるように持ちながら廊下を渡っていく、その小柄な後姿を眺めながら、又次郎は大きく溜息をついた。


「あの話、本当であろうか」


「わからぬ。分からぬが、お女中頭がそう申していたというのなら、全くの出鱈目というわけでもあるまい」


「やまいとはな……。しかしいかなる病であろうか」


「さて……。しかし忍殿がお勤めを辞めてまで看病せねばならぬのなら、かなり悪いのだろうな」


「心配だな。疱瘡ほうそう麻疹はしかだったら大変だ」


 疱瘡とは天然痘のことで、天然痘ウイルスに近縁の馬痘ウイルスを人に接種する種痘が普及するまでは、死の病と恐れられていた。


 コロンブス以前の中南米のように天然痘ウイルスが存在していなかったところでは、致死率は五十%を越え、日本のように頻繁に流行していた地域でも二十%以上だった。歴史上の有名人でもこれに感染して亡くなった人は多く、奈良時代前半に朝廷で力を揮った藤原武智麻呂ら藤原四兄弟が揃って感染して死んだ他、江戸時代には天皇が何人か、天然痘のために崩御している。また、死には至らなかったものの、伊達政宗は右目を失明し、源実朝や豊臣秀頼、明智光秀の室・煕子などは、顔に「痘痕あばた」を残している。


 はしかもかつては「命定めの病」と言われて恐れられていた。特に肺炎や脳炎といった合併症を発症すると予後が悪く、太平洋戦争終戦直後で栄養状態の悪かった時代には、年間一万人近くの人が命を落としていたという。令和の現在は治療法が発達し、死亡率は〇・一%程度となっている。


「はしかか、流行っているからな。俺の姪っ子も罹って、床に臥せっているというし……。どうした?」


 スッと立ち上がった又次郎を見上げて、林之介は訊いた。


「殿に会ってくる。殿なら詳しいことを知っているだろう」


「そうだな。……よし、俺も行く。おぬしだけでは心もとないからな」


 林之介も立ち上がり、娘が拭き上げたばかりの廊下を歩いて保成の書斎に向かった。


 保成は明かり窓の際に坐り、難しい顔をして何かの書状を読んでいた。


「殿にはますますご健勝のこと、恐悦至極にござります……」


 書斎には明かり窓の際にだけ畳が二枚敷いてあり、他の部分は板敷きのままで、畳はない。その板敷きに直接坐りながら林之介がそう言うと、保成は顔を上げて不快そうな目を林之介に向けた。


「健勝? わしがか?」


「違いますか? それともお体に何か不都合でもおありでござりますか?」


「不都合などはない。……で、何か用か?」


「用というほどのことではありませぬが、少々小耳に挟みましたゆえ……」


「なんだ、勿体ぶらずに早う言え」


「なんでも殿のお女中衆が二人ほど、足りなくなっているとか」


「誰から聞いた?」


「お女中頭がそう申していたと、先ほど廊下を拭き掃除していた娘が言っておりました。それで殿の給仕をする人手が足りず、困っているとも言っておりました」


「……権三郎の娘か? 口の軽い小娘だ」


「給仕をする者が男ばかりでは、せっかくの御膳も不味くなりましょうな」


「………」


 保成は書状を畳んで封紙に包みながら、面白くない、とでも言うかのように鼻を鳴らした。


「あるいは、そのお女中は……、はて、花藻と忍と申しましたか、殿のお気に入りでござりますゆえ、奥に入られたとも聞きましたが」


「誰がそんなことを言った?」


「ここに参る時に、下人どもがひそひそ話でそう言っているのを聞きました」


「ある事ないこと良い加減なことを申すものじゃ。しかし、わしは好いてくれぬ女子にさようなことはせぬ」


「まことでございますか」


 林之介はわざと疑いの眼差しを作り、上目遣いでジロリと保成を見た。


「まことじゃ。今川治部じぶの大輔だいぶ殿や織田弾正だんじょうのじょうなら女子の気持ちなどお構いなしに側女にするであろうがな」


「では、なぜお勤めを辞めたのですか」


「辞めてはおらぬ。……花藻は病に臥せっておってな、忍はわしが命じて花藻の看病をさせておる」


 保成が口の端を曲げてそう言うと、又次郎は微かに膝を動かし、身を乗り出すようにして訊いた。


「やまいでございますか。してその病とは、流行り病か何かでございますか? 近頃城下ではが流行っているようですが」


「いや、流行り病ではないようじゃ。笊庵は気鬱であろうと言っておった」


「気鬱、でございますか?」


 又次郎と林之介は目を見合わせた。


「しかし若い娘が気鬱とは、いかなるものでございましょう。やはり殿が何かなさって、それで気を病み……?」


「いや、いや。それはない」


 保成は苦笑を浮かべ、手を振った。変に慌てたその様子に、林之介も内心で苦笑し、


「ならば、なぜゆえに気鬱などに?」


「分からぬ。笊庵は、気鬱の種は心にある悩みだといい、それが分かれば治しようもあると申しておるが、花藻は悩みが何なのか言わぬようじゃ」


「なるほど……」


「どういう容体なのか、忍も城に出て参らぬゆえ、さっぱり分からぬ。笊庵は数日おきに看に行って薬も飲ませておるようじゃが、少なくとも良くはなっておらぬということじゃ」


「さようでございますか。しかし殿もご心配でございましょう」


「心配は心配じゃが、わしにはあの病はどうにもならぬ。笊庵も、薬だけではどうにもならぬ、治るも治らぬも花藻の気持ち次第じゃ、と言っておるし……。神頼みでもせねばならぬのかな……」



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