第9話



 花藻の家がある集落むらから牛窪城までは、ゆっくり歩いても半刻もあれば着く。


 集落や周囲の田地に人影はほとんど見られず、一間ほどの幅しかない田舎道を往来する人もまばらだったが、城下に近づくにつれて人は増え、町に入る頃には大群衆になった。


「すごい人……」


 人々の発する熱気を直接肌に受けて、花藻と忍は瞠目した。


 群衆の中には牛窪城のある宝飯ほい郡、あるいは牧野家の勢力範囲だけでなく、その外になる渥美郡や八名やな郡から来た人も大勢含まれているのだろう。ひょっとすると、もっと遠くの西三河や、東は遠江の浜名郡や敷知ふち郡、さらに引佐いなさ郡辺りからも来ているかもしれない。


 もっともこの界隈は寺院の御開帳といった特別なイベントがなくても、太古の昔から人が集まる要素が存在している。


 宝飯郡は、古墳時代の頃は東三河のまつりごとを治めた穂国ほのくにのみやつこの拠点となり、大化の改新の後には牛窪城の北西一里ほどの所に三河国府が置かれ、またかつて東海道は浜名湖の北を通る本坂通が本道となっていたが、その中間点として東国へ下る官人のための「駅」もあり、古代から中世初頭にかけて三河における政治・経済の中心として栄えていた。


 その後、鎌倉時代初期に三河守護となった足利義氏が西三河の幡豆はず郡に本拠を構えたため、首府の地位から転落する羽目になったが、今も国府跡の近くには国分寺や三河総社があり、牛窪の北東一里半には三河国の一ノ宮たる砥鹿とが神社も鎮座し、また、牛窪城下などでは定期市である六斎市も立っていて、東三河の中心地として賑わっている。




 長谷堂の門前は老若男女でごった返している。彼らは初めは無秩序に群がり、押すな押すなの大混乱状態だったが、やがて誰が整理するともなく自然発生的に行列になった。中には横入りしようとする者もいて、それを咎める者との間で口論が発生しているが、


 ───さようなことはするでない。観音さまは人でなしの願いなどは聞いてくれぬぞ。


 などと仲裁の者に諭され、ズルをしようとしていた者は大人しくなって列の後ろに向かって歩いていく。


 その男の後ろを歩きながら、忍は花藻に訊いた。


「どうする?」


「何が?」


「やめた方が良いんじゃないかと思って」


「やめた方が良いって、参拝を?」


「うん。こんなにいっぱい人がいるんじゃ、観音さまのお目にかかる前にあなたが倒れちゃうかも」


「大丈夫よ。それにもしも倒れたら、私は又次郎さまに相応しくないと観音さまがおしゃっておられるってことでしょ」


「………」


「さ、私たちも並びましょう」


 二町ばかりも続いているその行列の中には花藻や忍が見知った顔もあるが、被衣きぬかづきを被った二人組の女が誰だか気付かないようで、その横を通り過ぎても反応はない。


 新たな人が次々にやって来ては行列の最後尾に並んでいる。花藻と忍は一番後ろにいる赤子を背負った若い母親とその夫に会釈をして、その後ろに並んだ。


 ところが人の群れは遅々として進まない。参拝者は、現代の初詣客と違い、願いごとが多い。その上念を押すように同じことを何回も唱える者もいて、いきおい一人ひとりに時間がかかることになる。


「観音さまに拝めるまで、どのくらいかかるかしら……」


 行列に並んでから一刻も経ったころ、忍はため息交じりに呟いた。二人はやっと列の半ばほどまで進んたが、観音堂まではまだ一町以上ある。これでは彼女らの順番が来るまでもう一刻程度はかかるだろう。


 ほとんどの者は気長に待ち続けているが、辺りでは立ち疲れてしゃがみ込んでいる年寄りや、待ちくたびれてぐずり始めている幼童がちらほら見え始めている。二人の前の幼児も泣き始めたが、母親が抱きかかえてあやしながら乳を含ませると泣き止んだ。


 後ろを振り返ると行列は一向に短くなっておらず、むしろさらに長くなっているようである。今一番後に並んでいる者が長谷堂にたどり着く頃には、日が暮れてしまうかもしれない。


「あなた、本当に大丈夫?」


「本当にって、何が?」


「だってずっと立ちっぱなしだし──」


 あなた病み上がりでしょう、疲れてこない? と言おうとして、忍は花藻を見た。


 すると意外にも、被衣から垣間見える花藻の瞳はキラキラと輝き、頬は紅潮していて、疲労の色が現れているようには見えない。その姿にいささか安堵しつつ、忍は言った。


「ろくにご飯も食べないで寝込んでいたじゃない、身体が持つか心配なのよ」


「ううん、大丈夫。観音さまにお願いしないといけないから、その前にへこたれるわけにはいかないわ」


「……、呆れたわ」


 忍は苦笑した。


「でもあまり無理はしないで、辛くなったら言ってね。床几か何か、腰掛けるものをお城に行って借りてくるから」


「うん、ありがとう」


 そう言って頷く花藻の顔は、少女漫画に出てくる恋する乙女、そのものである。



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