第4話




 恋、とは面白いものである。


 ひとり恋慕の情を胸の内にしまっておけば、火鉢の灰の中でひっそりと赤みを保っているおき火のような状態で留まっているが、ひとたび誰かにそれを口にして同感を得ると、口火のようにチョロチョロとした小さい炎になり、やがて油を注がれたかのように勢いを増し始め、そして街を焼き尽くしてしまうような大火となる。


 大火になった暁には自律神経を冒して心身に不調をきたすほどに有害な性質を、慕情は持っている。




 花藻はここのところ少し様子がおかしい。


 誰かが声を掛けなければ日がな一日ボーっとして過ごし、仕事中にも水瓶の水面みなもに映った自分の顔を眺めつつ溜息をついたり、台所の柱にぶつかったり、座敷への上がり框を踏み外したりしている。


 先ほども、渡り廊下と城主一家の居住空間との境にある敷居につまづいて、持っていた膳を落とし、そのうえ水を張った桶にも接触して水をこぼし、宰領をしていた台所頭にこっぴどく叱られている。


 女中部屋に戻ってから、忍は青白い顔をして俯いている花藻に言った。


「あまり気にしない方が良いわよ、あんな粗相は誰でもするんだから」


「………」


 花藻は蚊の鳴くような声で何かを言ったが、忍には聞き取れない。


「ちょっと、あなた大丈夫なの?」


「うん……」


「でも顔が青いわよ。あんなジジイの言うことなんか忘れなさいよ」


「ううん、加知かぢさまのことじゃないの……」


「それじゃ、どうしたの? もしかして体のどこかが悪いの?」


「大丈夫……、多分……」


「そう? でも私にはとても大丈夫には見えないんだけど。どうしたの?」


「……なんだか気分がすぐれなくて」


「どういう風に?」


「それが分からないのよ……」


 花藻は俯きながら首を小刻みに振った。


「ちょっと疲れているんじゃないの? 二、三日宿下がりさせてもらえば?」


「別に疲れてはいないんだけど……。でも……」


「でも、どうしたの」


「分からない……」


 花藻はうつろな目付きで大きく溜息をついた。


「わたし、どうしちゃったのかしら……」




 花藻の異変に、雇い主の保成も気付いていた。


 保成は絶世の美女を二人も側に侍らせて鼻の下を伸ばしているような男だが、それだけに周囲の異変に気付くのも早い。


「花藻──」


 保成は、夕餉の膳を彼の前に据えると給仕もせずに、幽霊のように立ち去ろうとした花藻を呼び止めた。


「そなた、どういたしたのじゃ。顔色が悪いぞ」


「何でもありませぬ……、申し訳ござりませぬ」


「うむ……、いや、申し訳はどうでも良いのじゃが、どこか悪いのか?」


 花藻は回り廊下に坐りこみ、うなだれた。


「分かりませぬ……。ただ……」


「うむ? ただ、どうした?」


「……気が塞いでおりまする」


 保成は首を傾げながら立ち上がり、花藻のそばに寄って彼女の顔を覗き込んだ。


「気が塞いでおるとな。何か心配事でもあるのか? もしやそなたの親御が病を患ったとか?」


「……いいえ、父御ててご母御ははごも息災にござります」


「ならば忍といさかいでもしたか」


「左様なことはございませぬ」


「そうか……。おお、そうじゃ。先日加知に叱られたそうじゃが、あれを気にしておるのか?」


「いえ、加知さまのお言葉ではござりませぬ」


「本当か」


「はい……」


 保成は部屋の端にすました顔で坐っている加知をチラッと見やった。その顔からは表情は読み取れないが、俺は部下の粗相をたしなめただけで、何も悪いことはしていない、とでも思っているに違いない。


「うむ。しからば他に何か心当たりはないのか」


「………」


 花藻はうなだれたまま首を振った。


「うーむ」


 保成は花藻の細い肩を抱きたい衝動にかられて節くれだった手を伸ばしかけたが、思い直してその手を止め、鬢の辺りを掻きながら言った。


「……そなたが元気でなければわしは困る。よし、何日か暇を取らせるゆえ、ゆるりと休め」


「でもお役目が……」


「構わぬ。そなたの体の方が大事じゃ」


「……申し訳ござりませぬ」


「よいよい。そうじゃ、薬師くすしを遣るでな、見てもらうがよい」


「……有難き幸せ」


「うむ、もう下がってよいぞ。しかと養生して、早う良くなれ」


「ありがとうござりまする……」


 足取り重く去っていく花藻の後姿を眺めながら、保成は大きく溜息をついた。


「やれやれ、どうしたことかのう。あれがおらなんだら、わしも気が塞ぎそうじゃ……」


 保成の居室は妙に気まずい空気が流れた。台所頭の加知や年かさの下男などは、あんな小娘に執心していないでさっさと食事にしてくれ、とでも言っているかのような気を醸し出している。


 そんな連中の視線を無視して保成は膳の前に坐り直し、忍に顔を向けた。


「そなた、彼の者から何か聞いてはおらぬか」


「いいえ、わたくしも気になったものですから先日訊いてみたのですが、あのような調子で自分でも分からぬと申すばかりでした」


「左様か……。ここ数日でずいぶんと瘦せたようじゃが、飯もろくに食えておらんじゃろう」


「お粥しか喉を通らないようでして、賄いもほとんど残してしまいます」


「うーん、心配じゃ。あの者がこのまま死んでしまったら、わしは困る」


 保成は眉間に皺を寄せ、眉尻をハの字に下げて、困惑の表情を作って首を横に振った。忍はその顔を見て失笑しそうになり、慌てて下を向いた。


「これ、笑い事ではないぞ──」


「……申し訳ござりませぬ」


「そうじゃ、そなたにも暇をやるでな、彼の者の看病などをしてやれ」


「よろしいのですか、わたくしもお勤めをお休みして。お殿様のお世話をするべき若い女子おなごがいなくなりますが」


 忍は小首を傾げ、ことさらに若いおなご、という単語を強調した。


 周りに控える男たちをぐるりと見渡した保成は苦笑し、


「あ、いや、それは困るな……。給仕が男衆ばかりでは旨い飯も不味うなるわい」


「ではお女中頭にお頼みいたしまする」


「……え?」


「それともお方様か大お方様にお頼みいたしましょうか」


「……? それも困る……」


 保成は渋い顔をして唇を曲げた。


 ──妻や母親の顔などを見ながら飯が食えるか。


 脳裏に浮かびあがった古女房や老母の顔を振り払うように、保成は大きく咳払いをした。


「……ならばこうしよう。朝餉は男どもだけで我慢する。そなたの勤めは夕餉だけでよいから、昼すぎまで花藻のそばにいてやれ。何か思いを吐露するようなら、しかと聞いてやるがよい」


「かしこまりましてござりまする」


「よろしく頼むぞよ」


 保成はいくぶん肩を落として、溜息をついた。



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