七瀬彰人

 時は、深八咫と為靏が事を交えたあの月夜から二ヶ月遡る。


 この日深八咫は、約一年間足取りを追ったある人物の行方に辿り着き、その場所へと足を進めていた。

 七瀬彰人ななせ あきと。桜機関の研究施設に『七瀬謙吉』として潜入していた古井戸の、義理の息子にあたる少年である。

 ある日、桜機関から手渡された『メモリィズ』を服用した事による怪物化という末路を迎えた彼の母親役と共に行方不明となっていたが……その彰人を、帝都の片隅にある飲食店で見かけたという噂が舞い込んできた。


 深八咫は恩人は家族共々皆殺しにされたものだとばかり考えていたため、信じられない心持ちであった。

 しかしながら残った僅かな希望を捨てきれずに、役目である深鈴の護衛を同胞に任せて屋敷を飛び出してきたのである。


 教えられた通りに大通りを抜けて二つ目の角を曲がり、そのままとある横丁まで突き進む。

 見えてきたのは、帝都にあるにしては西洋的な建物。これを人々は『モダン』と言うらしい。

 扉の上の提げ看板には、『カフェー・マスカレェド』の文字。

 そして店の前を、身の丈よりも大きな箒で掃き清めている少年がいた。


 少年は歩み寄ってきた深八咫に気付くと、少し緊張した面持ちを見せた後にぺこりと頭を下げる。


「お客さん、ですか?中は空いてて、すぐ入れます、けど」

「……七瀬彰人君で、間違いないかな」

「へ?」


 名前を呼ばれた少年は、眼を丸くして上を見上げる。

 しかしそこにあるのは、やはり少年には心当たりのない顔であった。


「そうか、そうだったのか」


 深八咫は力が抜けたようにその場にしゃがみ込むと、両手で包み隠すようにして少年の手を取る。

 少年はその行動により一層戸惑いを強めた様子であった。


「よくぞ生きていてくれた。ならば俺は、君のために……」

「な、なんだよ、離せって」

「安心してくれ。この小さな手を汚す必要なんてない、全て俺が……必ず俺が殺してみせる」

「はぁ!?殺す!?」


 じっと自身を見据えながら言う深八咫に脅えた少年は、彼の手を振り解こうとする。

 しかし深八咫は続く言の葉を彼に聞かせるため、少年を離そうとはしない。


「君の父と母の仇は、俺が討つ」

「かたき……」


 少年は、呆然として深八咫の眼を見た。

 復讐と憎悪に濡れた、紅い色だ。


「ああ。二人を殺した輩だ。きっともうすぐ、成し遂げられる。これで、報いることが出来る」


 深八咫が見ているのは少年か、はたまたその瞳に映った自身の姿か。


「君の父は、とある男に苦しめられた挙句に殺された。君の母は、同じ男に手渡された毒によって殺された。」


 ごくりと生唾を飲んだ幼子は、もう会えなくなって随分と経つ優しい面影を思い出す。

 少年の表情が少しずつ、寂しさと恋しさに崩れてゆくのを深八咫は見ていた。


「その男には同じ……いや死んだほうがマシだという責苦の中で、自身の行いを懺悔させるんだ。あの人たちにとっての希望に手をかけた事を後悔しながら、命を終わらせてやる。必ず。」


 深八咫は再び自身に刻み付けるようにしてそう言った。

 少年は涙の薄い幕越しに揺れる瞳を深八咫に向けて、尋ねる。


「……なんで、そんな事するんだよ」

「は……?」

「頼んでないじゃんか、そんなの!」


 その身体は震えていたが、少年は確固たる意志を持って目の前の大人を睨みつけていた。

 思いもしなかった少年の反応に、深八咫は唖然とする。

 目を丸くする深八咫へ、少年は更に子供の率直さを以てして怒りをぶつけた。


「どっかの知らない奴が勝手に死んだって、全然嬉しくない!」

「君は、憎くはないのか?大切な家族を奪った輩に……罰を与えたいと思わないのか!?」

「だってそんな事しても、芭菜も謙吉も帰ってこないじゃん!」

「父母を苦しめた人間を罰して、彼らの恨みを晴らしたいとは思わないのか!?」

「晴れるわけないだろ!もう、二人とも、泣きも笑いもできないんだから!」


 そう叫び、少年は声を上げて泣き始める。

 目の前の事態を受け止めきれずにいる深八咫の前で、赤くなった小さな頬を幾筋もの涙が滑り落ちていった。


 ……猪之頭檀狭を殺しても、古井戸の恨みは晴れない?

 地面に落ちる無垢な雫とは真逆の、どす黒い澱みが深八咫の意識に染み込む。


 それにぞっとして、無意識のうちに深八咫の手に力が入った。

 指先が柔らかな皮膚に食い込んだ次の瞬間、その深八咫の手の甲に軽い痺れが走る。

 瞬きの後、彰人と入れ替わるように深八咫の目の前に現れたのは、褐色の肌と黄金の瞳を持つ男であった。


「……これ以上彼を追い詰めるのであれば、それ相応の振る舞いをせざるを得ないが。」


 音もなく現れた男は、柔和な笑みを浮かべているように見える。

 しかしその眼光は鋭く、その瞳孔はまるで爬虫類のように細長く窄められた。

 少年は男に抱かれ、その首に縋り付くようにして泣き続けている。

 そして、辺りにはちらほらと野次馬が集まり始めていた。


「……。」


 ここで騒ぎを起こすのは得策ではない。

 そう判断した深八咫は大人しくその場を後にして走り去る。

 男はそんな深八咫を追う事もなく、ただその姿が街角へ消えてゆくのを憂いを帯びた表情で見つめていた。

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