虚月夜
はるより
烏と鶴
時は丑三つ時。
『
まだ顔立ちに幼さの残る彼は、櫛枝一門に連なる忍びの内の一人である。
歳は十五。一門のしきたり通り、十歳までは見習いとして下積みを行い、その後の『苗木』としての期間は異例の短さの三年間のみ。
若干十三歳で一人前の忍びである『樹』となった少年だった。
ちょうど三ヶ月前に主人である『親方様』より証名を授かり、今は『
為靏は前方の柱の傍に人影があることに気が付き、歩みを止めた。
「待ち伏せなんて、身内同士でしても仕方ないでしょう。……深八咫さん」
名前を呼ばれ、人影はゆらりと柱から離れると為靏の前へと歩み出る。
障子を通り抜けて差し込む月明かりが、血のように紅い眼を曝け出した。
「あれからもう三ヶ月だ。何の報告もないが、どうなってる」
「どうなってるも何も、お伝えするほどの情報を得られていないんです。」
為靏はため息をついて、ぎらぎらと輝く乾いた瞳に臆することなく言った。
「何一つ、か?お前程の奴が。大方、手を抜いているんだろ」
「深八咫さん。僕は『添木』のよしみというだけで、ここまでやっているんです。……悪いですが、これ以上は付き合えません」
その言葉を最後に立ち去ろうとする為靏。
当然、未八咫は彼を易々と行かせはしない。
自分よりも一回り華奢な肩を強い力で掴んで引き留める。
「……良いですか、深八咫さん。滅多な事は考えないで下さい。あそこには化け物のような強さの輩がごまんと居るんです」
「化け物か、良いじゃないか」
深八咫は為靏の言葉に乾いた笑い声を上げた。
「人でないのなら、殺すのが道理だ。」
「あなたは……。」
為靏は顔を顰めて、かつての『添木』の顔を見る。
久しぶりに正面から見据えた彼は、悍ましさすら覚える歪んだ笑みを浮かべていた。
張り付いたような笑みの中に、狂気を湛えた眼光が二つ植え付けられている。
「僕は、もう降りさせてもらいます。そもそも、あなたに猪之頭檀狹の居場所をばらしたところで……僕には何の徳もないんですし」
「損得の話じゃない。お前だって、あの人に恩があるはずだ。それを忘れたとは言わせない」
深八咫の笑みはまるで波が引くようにして消え去る。
彼があの人と呼ぶのは、かつて彼が慕っていた『古井戸』と呼ばれた忍びのことだ。
潜入任務中にヘマをし、政府によって処刑されたらしいが……詳細な情報が為靏に届く事はなかった。
確かに深八咫の言うように、為靏も幼い見習いの頃に古井戸から指導を受けた事がある。
だが彼が死んだのは自身が下手を打ったからであり……忍びが敵の手に落ちた時には、黙して死ぬのが当然の務めだ。
為靏には、深八咫がどうしてあれほどの憎悪に蝕まれているのかが理解できない。
深八咫自身がよく口にする『道理』という言葉を借りるのなら、古井戸が櫛枝一門のことを悟らせずに死した事実は、正しく道理に則しているように思えてならなかった。
「知らないなんて言わせませんよ。任務外の殺しは御法度、犯したものは死を持って制される」
「それが何だ。俺は本懐が遂げられるのならば、死ぬ覚悟くらい出来ている。」
それが道理だ、と彼は何でもないことを話すように言った。
「あなたが死んだら、深鈴様はまた一人になりますよ」
その為靏の言葉に、深八咫は一瞬憂いの表情を見せる。
しかしそれすらもすぐに掻き消え、再び飢えた獣のような獰猛さが戻った。
「俺は深鈴様の兄君でも父君でもない。ただの、忍びだ。いくらでも代えの効く……それこそ、お前でも」
「……。」
かつて、為靏と深八咫との間にそれほど深い親交があった訳ではない。
それでも、目の前の人物が真っ当な精神状態でない事は為靏の目にも明らかであった。
「馬鹿馬鹿しい。深八咫さんは誇りを持って死んだ古井戸さんをも汚すつもりなんですか」
「何?」
「……自分が飼ってる狂気の理由を、恩人に押し付けるなって言ってるんです。あなたは復讐を名目に殺しをしたいだけでしょう」
言い終わるか否か。
深八咫は為靏の胸ぐらを掴んで締め上げる。
「ぐ……っ!」
「黙れ」
呼吸を断たれた為靏は深八咫の手を引き剥がそうとするが、二人の間には歴然とした力の差があった。
少しずつ暗くなってゆく視界の中で、殺意に満ちた双眸だけが鮮明に焼き付いてゆく。
為靏には、わからない事だらけだった。
かつて自分の添木として関わっていた深八咫は、愛想はないし特段気立てが良いわけでもなかったが、自ら敵を多く作りたがる人間でもなかった。
その彼がどうしてここまで攻撃的になってしまったのか。
この『錦織屋敷』の血流として巡り続けるべき忍びが、どうして復讐などに溺れてしまったのか。
……せめてこの人に殺される前に、知りたかった。
その時、廊下の奥から微かに人の声が響き、為靏の身体が廊下に放り出される。
激しく咳き込む為靏。身体中に酸素が巡りだし、かっと身体が熱くなる。
「おい、大丈夫か!?」
駆け寄ってきた人物を見れば、相手は同胞の忍びの一人であった。
辺りを警戒しながら、為靏の背をさすってくれている。
「何があった?まさか、刺客か」
「……」
呼吸を落ち着かせながら、為靏は悩む。
ここで深八咫の事を話して良いのだろうか。
確かに彼はまともな状態ではない。このまま放っておけば、何かしらの凶事を引き起こすだろう。冷静に考えれば、すぐにでもそうするべきである。
ただそうすれば、深八咫の考えを為靏が知る事は不可能になる。
死の淵で、狂気に当てられたか。
それともあの、人の物とは思えぬ紅眼に魅せられたか。
……彼の殺意のわけを知りたい。
為靏の思考はいつの間にか、一つの衝動に支配されていた。
同胞は、黙ったままの為靏を心配そうに見つめている。
「お騒がせしてすみません。少し、僕が相手を怒らせてしまっただけです。」
「ということは、相手は櫛枝の忍びか」
「はい。でも、本当に何でもありませんので。」
為靏は立ち上がり、頭を下げるとその場を立ち去ろうとする。
「……報告は、務めだ。必要があると感じたら、必ず行えよ」
「はい」
それは為靏の行動を怪しんだ発言か、それとも歳若い彼が身内に脅されている事を案じた言葉か。
背を向けている為靏には判断がつかなかったが、彼は足を止める事はなかった。
ふと、廊下の途中の障子を開けて外を見る。
空にはまんまるの月が輝き、夜の世界を明るく照らしていた。
「確か『あの日』もこんな、雲ひとつない綺麗な月夜だったと、そう聞いたっけ」
為靏は崩れた襟元を正しながら……月の光を遮るように、ゆっくりと障子を閉めた。
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