第7話「塩谷さん、しょっぱい負け方をする」

 たっぷり一時間かけて、ゆうたちは身体の筋肉を温めた。

 ちなみに優は、それだけでもうヘトヘトである。

 こんなに激しく運動したのは久しぶりだし、もともと身体能力はとぼしい方である。それに比べて、咲矢さくや刹那せつなも全く疲れていない。息すら乱れていないのだった。


「はい、オッケー。エビも逆エビもやったし、アップはこんなもんかなー」

「因みに優、逆エビっていうのはさっきのウネウネ運動で、決して逆エビ固めボストンクラブのことじゃないぞ」

「はいそこ、プロレス脳やめい。ったく、血は争えないのねー」


 たしか、そんな名前のプロレス技があるらしい。

 しかし、実際に優が体験したエビや逆エビは、マットの上での体捌たいさばきの練習である。全身のバネの伸縮を使って、手足に頼らず身をかわして動かす運動だ。

 なるほど確かに、柔術は寝技の攻防が激しい格闘技だけはある。

 ただ、準備運動だけですでに優は肩を上下させていた。

 出入りする呼吸が熱を運んで、灼けるように喉が熱い。


「あら、優クン? だいじょぶ?」

「え、ええ、まあ」

「ちょっとハードだったかしらね、でも男の子だし元気出しなよー?」

槇島まきしまさん、あの」

「ああ、咲矢でいいわよ。刹那ちゃんも、そろそろ慣れてほしいしそれでお願い」

「わかった、咲矢」

「さん、をつけろー、クソデカ娘ー!」


 それにしても、女性陣の体力には驚く。

 刹那も咲矢も、ラッシュガードと呼ばれるアスリート用のシャツを着ている。これがなかなかにピッチリしてて、両者の特徴的なボディラインを浮き上がらせていた。

 刹那はなんというか、メリハリが激しくてグラマラス、というか色々ダイナマイトだ。

 対して咲矢はすらりとスレンダーで、小柄なのも手伝って幼くさえ見えた。

 二人共下はスパッツで、動きやすい格好をしていた。


「ふむ、優クンは少し休憩ね? 水分取って。スポドリ飲み放題だから」

「ど、どうも。なんか、すみません」

「んーん、興味持ってもらえただけでおんの字よん? じゃあ」


 ギラリと突然、咲矢の目元が引き締められた。

 瞬間、空気を察して刹那も身を正す。


「刹那ちゃーん? 軽くマススパー、いっとく? そろそろアタシの本気で、いわゆる『』が必要だしねー?」

「優、マススパーっていうのは打撃ナシで組技や寝技を練習するスパーリングだぞ。あと、わたしはかなりわかってるぞ」

「だから、そゆとこ! そゆとこだぞー、刹那ちゃん? ま、いっか。ヨシ、やろう!」


 ヒョイと身軽な動きで咲矢がリングに立った。

 刹那もトップロープをくぐる形で続く。

 他のスタッフが時計を持ち、周囲の客たちもざわざわと集まり出した。

 ボクシングのテレビ中継でよく見る、あのゴングの音が響き渡る。


「うーし、んじゃまあ……当てなきゃ蹴ってもいいよん? 刹那ちゃん」

「まさかの打撃アリ発言。咲矢さん、わたし嬉しい」

「試合らしさも見せないとね。まあ、当たらないけ、っどぉう!?」


 ブォン! と空気が唸って切り裂かれる。

 刹那のミドルキックに、大きく咲矢がバックステップした。次のワンツーパンチも、オープンフィンガーグローブが咲矢に触れるか触れないかの距離に繰り出された。

 これが、実際に身体を鍛えて技を学んだ人間の動き。

 刹那の打撃コンビネーションは、さながら流れる清水しみずのよう。

 静かに、時に激しい濁流だくりゅうとなってよどみなく繋がりつらなる。

 それ自体が一つのコマンド入力で発動する乱舞技みたいだった。


「チッ、避けられた」

「あ、こら! なんつった今!」

「いえ、咲矢さんナイスディフェンス。……おかしいな、割りと本気だったんだぞ」

「おかしいのはアンタでしょ! 当てるなつってるの、ほら、脚使って! 脚!」


 シュシュッと咲矢も左右の拳を繰り出す。

 握りも軽くて、当てる気のないパンチだ。だが、そのスピードは本物だし、素人しろうとの優にも技のキレが伝わってくる。脇の締まった綺麗なフォームだ。

 まるでプロ……というか、咲矢はこういう技術を教えるプロフェッショナルなのだった。

 だが、リーチと体格が全く違う。

 刹那と咲矢では、大人と子供のようなものだ。

 その証拠に、刹那は僅かな足さばきでパンチを回避し、上体だけのスウェーで身を反らす。当たらないとわかっていても、避ける刹那の表情は真剣そのものだ。

 周囲の客たちも、心なしか盛り上がってるようである。


「おお、頑張れ咲矢ちゃん先生! おじさんたちみんな、応援してるヨ!」

「そうそう、ワシらにとっちゃあ孫みたいなもんだからねえ」

「ジム通いで少し身体を動かすだけで、晩酌のビールが美味いのなんのって」

「新入りのおっきい子もがんばれー!」


 打撃のやり取りはしかし、不毛で一方的なものだった。

 手足の長い刹那の連打は、あっという間に咲矢の接近を引き剥がす。そして徐々に、丁寧な上下の打ち分けで咲矢はコーナーに追い詰められつつあった。

 だが、不思議と咲矢の顔には余裕の笑みが浮かんでいる。


「わはは、打ち合いなら全然勝負にならないんだぞ」

「とか言って、ほら! 安易に上段を蹴らない! そのハイキック!」


 瞬時に試合が動いた。

 優位を過信した刹那のハイキックが、まるでカミソリのように空間を切り取る。

 勿論もちろん、当たらないし当てる気のない蹴りだ。

 だが、見ている優にはハラハラするような鋭さだった。

 そして、その時にはもう咲矢の姿は消えていた。

 いな……身を低く上段蹴りを避けた瞬間、彼女は両足でマットを蹴っていた。瞬間移動のようなタックルで、咲矢が刹那の片足に組み付く。

 その俊敏な動作が、優には全く見えなかった。


「はい、ふところ入った。これでテイクダウンしてマウントに……あ、やばっ。またかー」

「そう、またなのだ。咲矢さんのフィジカルでは、わたしは倒れないのだ」


 大振りなキックを繰り出した直後で、刹那には露骨な隙があった。その間隙かんげきに咲矢が電光石火の片足タックルを決めたのだが……そこから先に全く動きがない。

 まるで根を張った大樹のように、片足でも刹那はビクともしなかった。

 しかも、余裕のドヤ顔で優をチラチラ見てくる。

 やっぱり刹那、ちょっと犬っぽい。


「どうだ優、力こそがパワーだ! このあとガブって潰してでわたしの勝ちだな」

「えっと、塩漬けって?」

「うん、最高にしょっぱい勝ち方だ。感嘆に言うと、柔道の抑え込みをもっと地味にしたような」


 ガブるというのは、タックルに耐えた側が相手の首を抑え込む、上から体勢を潰す技である。そして塩漬け……ちょっとオプティフォンで調べたが、総合格闘技でまれに見られる、要するに『』だそうだ。

 実際、あの巨体で上から押し潰されたら、咲矢は身動きできそうもない。

 けど、咲矢は刹那の太い太い太腿ふとももに組み付いたまま笑った。


「あのねー、刹那ちゃん? こう見えてもアタシ、プロなんだけど?」

「ん、確かに咲矢さんの寝技は凄いぞ。でも、わたしが上なら全然話にならないんだぞ」

「お、生意気なまいきっ! 四十八手しじゅうはっても知らない生娘きむすめが、寝技の何たるかを見せちゃうから!」

「キン肉マンの漫画で、五十二の関節技なら見たぞ」

「はいそこ、知った気にならない! もうっ!」


 周囲から「おお!」と声があがった。

 なんと、刹那を押し倒すどころか……。テイクダウンを諦め、自分からマットに転がったのである。

 しかし、優は見逃さなかった。

 すかさずマウントポジションを狙う刹那が、ピクリと震えて止まる。

 彼女にも、安易な攻め手が罠にかかるという直感が走ったようだ。


「見ててね、優クン。これがさっき言ってたデラヒーバ……デラヒーバさんが考えたからデラヒーバガードって言うの」

「う、これは厄介……これがデラヒーバ。早速さっそく見て盗んで覚えるんだぞ」

「ふふ、カモォーン? ほらほら、刹那ちゃーん? ぼさっとしてると崩しちゃうぞー?」


 咲矢は無防備に転がってるだけにも見える。

 しかし、その片足は刹那の内股から右足をフックして、完璧に距離をコントロールしていた。上から圧力をかける刹那が有利に見えても、なんとなく優にはわかった。

 柔術の攻防は、論理的で合理的なサイエンスなのだ。

 力押しではなく、全ての行動に意味があって、手順がある。

 布石ふせきやフェイント、誘いを交えて戦われる格闘ゲームに少し似ていた。


「優も見てるし、いいとこ見せるぞ! フンス!」

「だから、力押しじゃ駄目だってーの! ほらほらっ」


 仕切り直そうと思っても、刹那は離れられない。かといって、そのまま上をとってもマウントポジションには持ち込めそうもない。完全に下から咲矢にからめ取られていた。

 そうして、状況が一変する。

 僅かな動きで、長身の刹那がバランスを小さく崩した。

 それをうながした咲矢は、瞬時に後ろに回り込む。

 尻もちをついた刹那は、背後からチョークスリーパーをめられてしまったのだった。


「今のが、デラヒーバからたぐってのバックテイクスイープね。で、ギュッ! っと」

「ふが、ふががが! ふがぐぐ!」

「うは、うははは! 思い知ったか巨大小娘メガこむすめめー! 毎日散々フィジカル勝ちしやがってー」

「ふがが、ふがっが!」


 なんだか楽しそうである。

 周囲からも喝采かっさいがあがって、ようやく刹那は咲矢から解放された。

 柔術、ようするにの精神なのだろう。あの柔道も、昔は柔術をスポーツ化することで体系化された武道だと聞いている。

 そして、優は確信した。

 自分の操るゲームのキャラクターが、真に得るべきモーションの数々……それは今、四角いマットの中に無限に広がっているのだった。

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