第36話 黒衣の将軍の溺愛花嫁
「姉さーん!」
エルヴィラが足元に気をつけつつ軍用機のタラップを降りたところで、待ち構えていた妹がぴょんぴょんと弾みながら近づき、抱き着いてきた。
アイリーンが帝国に嫁いで十か月。季節は雪解けを過ぎ、緑がまぶしい季節になっていた。
「久しぶりだね、姉さん! 会いたかったよ!」
「私もよ、アイリーン。大きくなって」
十か月ぶりに会う妹に、エルヴィラは目を輝かせた。
記憶にあるアイリーンは短い髪の毛に男物の服、体つきも直線的で実に凛々しい雰囲気だったが、目の前にいるアイリーンは髪の毛も伸び体つきも丸みを帯びて、すっかり大人の女性だ。以前から顔は似ていると言われていたので、こうして大人になったアイリーンを見るとかつての自分を見ているみたいで面はゆい。
二十歳の頃のエルヴィラはすでに女王だった。裾の長いドレスを着て、悠然と微笑まなければならない。本当はアイリーンのようにチュニックに細身のズボンといういで立ちで、颯爽と歩いてみたかったのだけれど。
ただ、竜族の男服はアイリーンの凛々しい雰囲気によく似合っているのだが、帝国の英雄たる黒衣の将軍の花嫁としてはどうなのだろう……。
「ああだけど、竜の国からリーウベルフまでって、思ったよりも遠いのね。疲れちゃった」
エルヴィラが笑うと、
「そうだよ、そうだよ! おなか痛くなったりしなかった? 赤ちゃんびっくりしなかった?」
アイリーンが不安そうにうろうろしては、ふくらみが目立つようになってきたおなかを触ってくる。
「それは大丈夫よ。ものすごくふかふかのクッションを用意してもらったから」
エルヴィラが後ろを振り返ると、大きな鞄を両手に抱えたノエルがタラップを降りてくるところだった。小脇にはこれまた大きなクッション。
おなかに赤ちゃんがいるエルヴィラのために、乗り物の振動が伝わりにくいようジェラルドが用意したものだ。
去年の夏、突然竜神が去っていったあとのこと。
竜神から別れを告げられていたため、竜の国の人々は突然加護が失われたことに対しては呆然としたが、それによって何かしら暴動が起こるというようなことはなかった。ほどなくして現れたジェラルドと評議会が話し合い、なるべく早く竜族をヴァスハディア帝国に移住させる、そのための支援は惜しまないという形で決着。ジェラルドいわく、「最愛の妻の故郷の人々なので、できるだけ支援をしたい」とのこと。
さりげなくのろけるジェラルドにその場にいた全員が、「あの、アイリーンが、黒衣の将軍を骨抜きにしている……!?」と動揺したのは言うまでもない。
冗談だろうと思う人間も少なからずいたが、まあとにかくジェラルドがのろけまくるので、だんだん聞いているほうがアホらしくなってくるという始末。
それはさておき、移住計画についてである。
小さな国とはいえ、それでも一万人程度はいるため、飛行機で全員を連れていくことは不可能である。山道を自力で移動できない者だけを飛行機に乗せ、あとの者たちは段階的に陸路を通ってヴァスハディア帝国へ移動していくことになった。
竜神が去った時点でエルヴィラは女王を辞し、ノエルとひっそりと結婚。
ほどなくして赤ちゃんを授かる。
女王ではなくなったが、竜の国を去るのは最後にしようと決めていた。
ヴァスハディア帝国の支援を受けつつ、冬が始まるまでに大勢の人が竜の国を去っていった。
冬の間は山道も閉ざされる。人がいなくなければ物資も不足するだろうということで、帝国が定期的に(それでも冬は天候が乱れやすいため、時々欠航便を出しながら)生活物資を飛行機で持ってきてくれたので、ありがたい。
そして春になり、残っている人々も移住を開始した。
エルヴィラは妊娠中なので、陸路での移動ではなく飛行機での移動となった。
飛行機の中から見た懐かしい土地の風景を、エルヴィラは一生忘れないだろうと思った。
竜の国は、とても美しかった。
けれど、もう人が住める場所ではなくなった。
竜神の加護を失った竜の国はたった一冬で、周辺と変わらぬ荒れた大地と冷たい風、いつまでも消えない雪に支配された場所になってしまった。
土地の豊かさも、丈夫な体も、すべて竜神の加護によるものだったのだ。
アイリーンはおそらく、竜神の花嫁だったのだろう。
グラード王国の使者が来た時には、アイリーンが竜神の花嫁である可能性を知りながら国外に出したとエルヴィラはずいぶん糾弾されたものだが、竜神自ら声を発して去っていったことや、別れの言葉が前向きなものだったことで、「あれは竜神自身の意思だったのだ」と、エルヴィラはそれ以上追及されることはなかった。
アイリーンが竜神の花嫁かどうかは、アイリーンを湖に沈める以外に確認方法がない。そして竜神がいなくなってしまった今となっては、確かめる方法もない。
ただ、エルヴィラは山奥の竜の国という閉じられた世界で、竜神の加護に頼って生きていく竜族に未来があるかどうか疑問に思っていたので、これでよかったのだと思う。
竜神も「人の世で生きろ」と言っていた。
たぶん、竜神も同じ懸念を抱いていたのではないか……?
そして百年に一度現れるという「竜神の力が弱まる時」は、「弱まった状態でもうまく切り抜けられるなら、竜神の加護のない世界でも生きていける」という、竜神による予行演習だったのではないかと思う。
体に流れる竜の血すら消えてしまうとは思わなかったが、つがいが見つからなければ大人になれない体質なんて、なくなったほうがいい。竜族同士でつがいになるなんて、範囲が狭すぎる。
出会いの数だけ、未来の選択肢は増える。これは間違いない。
エルヴィラはリーウベルフでの話をするアイリーンの横顔を見る。
ジェラルドのこと、その部下のこと、仲のいいメイドのこと、町の人たちのこと。
竜の国にいたままでは出会うことがなかった人たちは、確かにアイリーンの人生を豊かにしてくれている。そして今のアイリーンは生き生きとして、本当に楽しそうだ。
おなかの子には、できるだけ多くの人に出会ってほしい。そして素敵な出会いを重ねて、素敵な大人になってほしい。そう、アイリーンのように。
「あなたの結婚式ももうすぐね。婚礼衣装も嫁入り道具もすべて、将軍閣下が手配してくださったのでしょう? 私たちの移民に関してもたくさんお気遣いいただいたから、お礼を言わなくちゃ。どちらにいらっしゃるのかしら」
エルヴィラがたずねると、
「今日は仕事で帝都に呼び戻されてる。新しい皇帝陛下のお気に入りなんだ。しょっちゅう帝都に呼び出されてるんだよ。せっかくリーウベルフに新居を構えたのに、全然帰れないって怒ってる」
「まあ」
「ジェラルドへのお礼だったら、僕がたくさん言っといたから大丈夫。それより姉さんの家に行こう! 僕がいろいろ準備したんだよ」
アイリーンがそわそわとしながら言う。
「ええ、聞いているわ。楽しみね」
「子ども部屋も用意したんだよ。とりあえず三つ。まだあと三つは増やせるから」
「……アイリーン、私を何人の子どもの母親にしたいの?」
その場でフミフミと足踏みをする落ち着きのない妹に、エルヴィラが呆れる。
「姪っ子や甥っ子は多いほうがいいな! 誕生日プレゼントを用意する楽しみが増えるから」
うふふ、と楽しげにアイリーンが笑う。
「ああ、そうだ。私もあなたに誕生日プレゼントを用意してきたのよ。新居についたら開けてみましょう」
エルヴィラがノエルに目をやる。ノエルは持参した鞄のひとつを揺らしてみせた。
アイリーンが目を輝かせる。
アイリーンの用意した馬車に乗り込んで、新緑のリーウベルフを移動していく。
目抜き通りと思われる場所に差し掛かると、予想以上の発展ぶりにエルヴィラは目を瞠った。
そして通りを行く人々の顔に見覚えがあるので、嬉しくなってきた。
竜族のほとんどは、このリーウベルフ周辺に移住してきている。
「竜の国がもっと栄えたら、こんなふうになっていたかしら」
笑顔でアイリーンを振りむくと、
「郊外の田園風景なんて竜の国そのものだよ。まあまだ苗木だから木はちっちゃいけど」
アイリーンも笑った。
「ねえ、少しだけ通りを歩いてみてもいいかしら」
なんだか馬車で移動するのがもったいなく思えてエルヴィラが提案すれば、アイリーンが頷いて御者に指示を出し馬車を止めてくれる。颯爽と先に降りて身重のエルヴィラに手を差し出す仕草は、夫ノエルよりも洗練されていて、きっとアイリーンは普段からこんなふうにジェラルドにエスコートされているのだろうと感じさせる。
レンガで舗装された通りはカラフルで、通りに並ぶ植樹には色とりどりの花が咲き乱れる。行き交う人々の話声、店から聞こえてくる音、遠くからは楽器の演奏音まで。
竜の国のお祭り当日のようだが、アイリーンによると「いつもこんな感じだよ」とのこと。
ヴァスハディア帝国はすごい。
こんな国と争うことにならなくてよかった。
もっとも争う前に、国土そのものがなくなってしまったが。ヴァスハディア帝国が補給基地にしようともくろんでいた竜の国はもはや人の住める場所ではなくなってしまったことで、帝国も補給基地化することは諦めたらしい。
「あ、ドルフだ」
アイリーンが指さした先に、精肉店がある。アイリーンたちに気づいたのか、店内からドルフが赤ん坊を連れて出てきた。遅れてドルフの妻が現れる。
アイリーンが手を振れば、三人が手を振り返してくれた。
「赤ちゃん、かわいいね~。奥さん似でよかったよね!」
アイリーンが笑いながらエルヴィラを振り返る。
エルヴィラはその様子にはっと目を瞠った。
――この風景……。
いつか、竜神が見せた風景、そのものだった。
ああやっぱり、あれは竜神のお告げだった。
あの夢はすべてあり得た未来。その中から、エルヴィラは「大人になったアイリーンが異国の街並みを歩く未来」に進んでほしくて、ヴァスハディア帝国に送り出したのだ。
けれど……。
「ねえ、アイリーン。これでよかったのかしら」
ぽつりと呟く。
「何が?」
「国が、なくなってしまったわ……」
あなたを助けたがために。
その言葉は言えないが、アイリーンにはわかったらしい。
「僕は、姉さんに生かしてもらって……幸せだよ……。それに、これは本物の、初代の竜神の花嫁が言っていたことなんだけど。竜神の加護が竜族を縛る呪いに変わる前に、手を離すべきだって。親の助けがなくても大丈夫になってほしいって……思っていたみたいだよ。だから、これでよかったんだよ」
ジェラルド経由で、アイリーンが会ったという「始まりの二人」の物語を、エルヴィラも聞いている。
「確かに、竜神は最後に『私の力は必要ない。こんな山奥ではなく、人の世で生きなさい』と言い残して消えたわ。だからこそ、竜族の人々も、竜神の加護が失われたことを前向きにとらえてくれたんだけれど……そういうことなのね……振り回されたわねえ、私たち」
エルヴィラがしみじみと言えば、アイリーンも頷いた。
「竜神の力に助けてもらったジェラルドが、ずっとこの国を守ってくれるから。僕と約束してくれたんだ。だから竜神なんかいなくても大丈夫。竜族も、この国も」
アイリーンは空を仰いだ。
「愛されてるわねえ」
エルヴィラの言葉に、アイリーンが振り返って満面の笑みを浮かべた。
「そうなんだよね! ジェラルドってば僕にメロメロなんだよね!」
「そういえば以前お会いした時の将軍閣下も、ずいぶんのろけていらっしゃったわね。うちの嫁さんがかわいすぎるって、あの顔で」
「……えっ……」
「竜の国のみんなの前で」
「……ええっ……」
姉の告白に、妹が引きつる。
「あなたたち、本当にお似合いよ」
エルヴィラが笑いかければ、アイリーンも釣られるように笑い返してくれた。
初夏のリーウベルフ。
涼やかな風が吹く街角に、藍色の髪の毛の姉妹の楽しそうな声が響く。
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