第24話 忍び寄る影

 ジェラルドはいつの間にか腕の中ですうすうと寝息を立て始めたアイリーンを抱き上げ、ベッドに移す。夜遅くまで自分に付き合わせているので、このところのアイリーンは寝不足気味なのだ。


 時刻は昼過ぎ。夏のけだるい午後の風が、開けっ放しの窓から部屋の中に吹き込む。

 ベッドに腰掛けて、気持ちよさそうに寝ているアイリーンを見下ろす。頬にかかっている藍色の髪の毛をかきあげてやると、アイリーンがほんの少しくすぐったそうに身をよじった。

 その仕草に、たとえようもない愛しさがこみ上げる。


 女性経験がないわけではないが、今まで不思議なくらい女性に興味が持てなかった。もちろん同性に興味があるわけでもない。軍人にしては珍しいタイプらしく、「将軍は淡泊すぎる」とよく言われているから、アイリーンに告げた通り性欲も控えめなのだろうと思っていたが、どうやら勘違いをしていたらしい。単に、ここまでハマった女性がいなかっただけだった。

 すっかりアイリーンに囚われてしまった。この自分が。黒衣の将軍と呼ばれ、北の部族連合やグラード王国にも名を知られているジェラルド・イル・バステラールが。

 男の子に見間違えられるような娘の虜になってしまうとは。

 だが、不愉快ではない。


 藍色の瞳をひらめかせて笑うアイリーンのはつらつとした笑顔は、何物にも代えがたい。けれどアイリーンの中にはまだジェラルドの知らない憂いがある。

 時々、アイリーンの藍色の瞳が翳ることに、ジェラルドは気づいていた。

 アイリーンを陥落させた手ごたえはあるのに、彼女をとても遠く感じるのは、アイリーンに何か大きな気がかりがあるためだろう。

 それを取り除けば、アイリーンは完全に自分のものになる。そのためには、アイリーンの心を開く必要がある。


 ――時間はある。ゆっくり向き合えばいい。


 何しろアイリーンと出会って、まだふた月足らずなのだ。

 週末だけ帝都に滞在するつもりだったジェラルドだが、庭で倒れているアイリーンを見て気が変わった。自分がついていなければアイリーンの扱いがぞんざいなものになると気が付いたからだ。

 後ろ盾がない心もとなさは母も身に染みていると思っていたが、祖国を守るために差し出された娘を守ろうという気にならなかったのは残念だ。

 そしてアイリーンだ。


 気丈に振る舞っていたが、「つがいがおらず大人になれない」という事実を明かした時の涙を見れば、それが彼女にとって相当な重荷だったことがわかる。

 体が大人になれないことも、月の物がないことも解決してやることはできないが、少なくとも自分は気にしていないと伝えてきたつもりだ。伝わっているだろうか。

 しかし、アイリーンを抱けば抱くほどジェラルド自身もアイリーンが子どもを生めない体であることが気になるようになってきた。このことは、アイリーンに気取られてはいけない。アイリーンには非がないからだ。そしてアイリーンは関係を深める前にはっきりと「子どもができない」とジェラルドに伝えている。その上でジェラルドはアイリーンを選んだのだから、彼女に子どもができないことを話題として持ち出すのは厳禁だ。


 それにしても北部軍の司令部に「新婚なので休みを延長する。文句は受け付けない」と言ったとたん、北部軍からわざわざ航空機を使って届けられるようになった書類には閉口した。

 そういえばそろそろその書類が届く頃ではないだろうか。そう思った時、コンコンと居間のドアがノックされる音がした。

 ジェラルドはベッドから立ち上がり、寝室のドアを閉じると居間のドアを開いた。


「本日のお届け物です」


 そこにいたのは使用人のマリエだ。そう言って渡してきた書類の束の上に、いつもは存在しない見慣れないメモが置いてある。

 手に取ってみると、イヴァンが話したいことがあるので屋敷内に待機中だと書いてあった。

 イヴァンはジェラルドの腹心であり、北部軍司令部の副指令の相談役でもある。司令部を離れることが難しい人物だ。


「イヴァンのもとへ案内してくれ」


 何かあったのだろうか。ジェラルドは目の前にいるマリエに告げた。





「お休みのところ申し訳ありません」


 応接間に入るなりイヴァンが立ち上がって頭を下げる。


「いや、いい」

「それにしても、仕事の鬼のジェラルド殿下が必要最低限しか書類の確認をされないなんて、司令部の連中は全員驚いていますよ。奥様となられる方と仲良くされるのは、いいことですが、正式な婚礼はまだですよね。あまりかわいがっていると、用意した婚礼衣装が入らなくなって慌てても知りませんぞ」


 内容に反して口調が冷たいので、ちょっとは仕事しろと言いたいようだ。


「もしそんなことになったら大喜びするがな」

「大喜び……どれだけ奥方に溺れているんですか。ただ、私としてはあの娘をレティシア様より先にお迎えするのはどうかと思いますがね。愛人に留めておかれた方が」


 ジェラルドに睨みつけられていることに気づき、イヴァンはそこで言葉を区切ってコホンとひとつ咳をした。


「まあ、立場でいえばあの娘も一国の姫なので、殿下との身分は釣り合いが取れてはいますがね。……それはそれとして、偵察部隊から気になる情報が入っています。グラード王国のカナート基地に航空機が集められているようなのですよ」

「カナートか……」


 山脈を挟んで一番ヴァスハディア帝国に近いグラード王国の軍事拠点だ。帝国への偵察や攻撃は、たいていここから行われる。


「カナートからなら西部の都市が狙われるのか。カナートの動きに注意しなければな」

「グラード王国内に放っている諜報員から気になる情報が入っています。おそらくグラード王国は航続距離の長い小型の航空戦力の開発に成功している、と」

「……なんだと……」


 今までヴァスハディア帝国とグラード王国の航空技術はほぼ互角で、お互い、山脈に最寄りの基地から山脈を飛び越えた最寄りの都市までしか飛べない。航空機による爆撃ともなると、爆弾の重さがさらにネックになっていた。


「狙われるのは西部地域ではない可能性が高いです」

「……帝都を総攻撃、か……」


 ジェラルドは考え込んだ。あり得る。


「偵察機を頻繁に飛ばして向こうの動きを細かく見張るしかないな。もし本当に爆撃をするつもりなら……少なくとも帝都の手前で落とさなくてはならん」

「カナートから爆弾を抱えて山脈越えできるような機体を、うちの航空機で落とせますかね」


 イヴァンが聞いてくる。


「できるできないではない、やらなくてはならない。しかし、爆弾を抱えて山脈を越え、帝都までとはね……やたら燃費のいい馬力があるエンジンの開発に成功したということだろうか。機体の軽量化や強度の問題も避けて通れないのに、化け物だな」


 ジェラルドの溜息に、イヴァンも頷く。


「一機でも無傷で鹵獲できればいいが、まあ難しいだろうな」

「一機も都市部に近づけないことができれば御の字ですよ。それにしても、ですね」

「ああ、それにしても、だ」


 イヴァンの言いたいことはわかる。グラード王国は大陸西部の工業国家と手を結び航空戦力の開発に心血を注いでいる。ヴァスハディア帝国も、大陸西部の最新技術の導入をはかっているが、物理的な距離の部分でグラード王国には引けを取っている。歴史的に見て、ヴァスハディア帝国はグラード王国よりはるかに大きな力を有している時間が長かった。とはいえ、これからはどうだろう。

 いつまでも隣国を侮っていると痛い目に遭うのではないか。

 それは隣国だけでなく、ヴァスハディア帝国に属していない周辺国に対してもそうだ。たとえば竜の国のような存在を、この国は侮っている。だが侮っていい存在だろうか?

 ジェラルドとイヴァンがなんとなく黙り込んだその時、執事のバークが現れた。


「宮殿より使いです。急ぎとのことですので、すぐにご確認を」


 そして恭しく盆の上に乗せた一通の手紙を差し出す。急ぎということは今すぐ確認して返事をしろということだ。

 ジェラルドは封筒を手に取ると、盆の上に一緒に乗っていたペーパーナイフを使って封を開けた。


『おまえが連れて行った竜族の娘について確認したいことがある 手紙を確認次第、至急参上せよ』


 短い文面。署名はグレアム・サナ・バステラール。父たる皇帝の名が記してある。

 ジェラルドは目を細めた。


「この文章は今しがた届いたものか?」


 ジェラルドが確認すると、バークは頷いた。


「届けた使者は未だ留まっているのか」

「さようでございます」

「……いいだろう。望み通り今すぐ行こうではないか。使者に伝えよ」


 ジェラルドは立ち上がると、手紙とペーパーナイフをバークの盆に乱暴に乗せた。

 バークが下がると、ジェラルドはイヴァンに目を向ける。


「というわけだ。少し宮殿に顔を出してくる。北部軍司令部に戻り伝えよ。警戒を怠らず、何かあれば即時対応するように。私からは以上だ」

「了解しました。あともうひとつ、お耳に入れておきたいことが。これは竜の国につけている見張りからの連絡ですが、アイリーン姫が出発後すぐにあの国から帝都を目指していた者たちがいたのです。竜の国から帝都までは陸路でひと月。先日帝都入りしてすぐに皇帝へ謁見を申し出て……その後、使者の姿が確認されておりません」


 イヴァンの報告に、ジェラルドは表情を険しくした。


「……」

「お気を付けください」

「……ああ。報告、感謝する」


 ジェラルドは頷くと部屋をあとにした。

 皇帝は地政学的に竜の国を手に入れたいとは思っているが、竜の国そのものに関しては下に見ている。アイリーンに対してもさして関心がないから、女官たちに「側妃になるには不適合」とされたアイリーンをさっさと追い出した。女王ではなく、ふしだらな妹を送りつけてきた行為には怒り狂ったが、竜の国の姫そのものにはたいして興味がなかったはずだ。

 そもそもなぜ竜の国の使者が皇帝に謁見を申し出たのか。まあ、皇帝に用があってもおかしくないからそこはいいとして、問題はなぜ、謁見を申し出た使者が行方不明になっているのか。


 ――俺は読み違えたのか?


 皇帝は本当に竜族の血を欲していた?

 使者を待たせたまま身支度を整える。黒い軍服をきっちり着込み、髪の毛を撫でつけ、それなりに重みのある剣を佩くと、この数日間アイリーンと過ごしていたせいで忘れがちだった、将軍としての気持ちに切り替わる。


 険しい目つきで、ジェラルドは宮殿に向かった。

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