第19話 不思議な夢

 午前中に洗濯、皿洗い、ほかの使用人たちより早めの昼食後にコンスタンツェの風呂掃除、草むしりというのがアイリーンのルーチンワークとなってきた。

 洗濯と皿洗いは何人かと一緒にやるが、風呂掃除に関しては、基本的にマリエがついていてくれる。気を遣われているんだと思う。


 草むしりは基本的に一人だ。勝手にブチブチ抜いていたら、庭師に「こっちをやって」と頼まれるようになった。アイリーンの事情はほかの誰かから聞いているらしく「お姫様に家事労働は大変だろう? 昼間は暑いから、木陰で休んでもいいよ」と言ってもらえたので、昼寝の時間も確保できた。ありがたい。この屋敷の使用人も、みんながみんなアイリーンを下に見ているわけではないようだ。それがわかっただけでもよかった。


 ――なんだかこの国でもやっていけそうな気がしてきたぞ。


 だがそろそろジェラルドが帰宅するころではないだろうか?

 ジェラルドが帰宅したら、さて、自分はどうなるのでしょう?


 屋敷に到着して七日ほど経過し、使用人生活にも慣れてきた頃。

 夢を見た。


 アイリーンは真っ暗な闇の中にいた。ここはどこだろう。前も後ろもわからなければ、上も下もわからない。困っていたら、その闇の中にぼうっと赤い光がふたつ現れ、ゆっくりとアイリーンに近づいてくるのが見えた。

 やがて赤い光からこぼれる明かりで、赤い光の正体が見えてくる。

 体全体を覆う白銀のうろこ。大きな口。覗く牙。長い巨体。

 竜の国の人間なら誰でも知っている。この姿は言い伝え通り。


 ――竜神……!


 アイリーンは恐ろしさのあまり、身動きできなくなった。


『決めたか』


 竜神の声が頭の中に響く。


 ――決めるって、何を?


『竜族の行く末だ』


 ――竜族……?


『おまえの命が尽きる前に答えを出せ』


 そう言うなり、赤い光はフッと目の前から消えた。


 目が覚めた時、一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。

 汗をびっしょりかいていた。心臓がバクバクいっている。

 なんなの、今の夢。


 ――竜神だよね。竜族の行く末? 何のことだろう?


 考えられるのは、


 一、疲れて変な夢を見た。

 二、竜神が誰かと間違えている。

 三、実は竜神から何か使命を与えられている(でも覚えていない)


 あたりか。


 ――一、かな。


 竜神の声を聞くことができるのは姉だけだ。そして竜神は現在進行形で力が弱まっており、声を発することができない。ゆえに、この夢が竜神のお告げなどであるはずがない。


 ――だとしても不気味な夢だったな……。


 動悸が治まるのを待ってから、アイリーンはいつも通り着替えて仕事場に向かった。

 今日は何だか体が熱っぽくてだるい気がする。夢見のせいだろうか。それとも疲れか。……いや、昨日、泣いているうちに寝てしまったのがよくなかったに違いない。実は、窓を閉め忘れていたのだ。今朝は肌寒くて目が覚めた。夏とはいえ、明け方はけっこう気温が下がる。


 慣れてきた作業にもかかわらず、洗濯を終えた時にはすっかりくたびれてしまった。そのまま足を引きずるようにして厨房に行き、皿を洗う。

 昼食はいつも通りたっぷりあったが、なんだか胸がつっかえてしまい、初めて残した。


「どうした、疲れが出てきたか」


 料理長に聞かれ、アイリーンは「たぶんね」と答えた。料理長から「無理はするな」と言われたものの、休んでいいとは言われなかった。

 昼からは草むしりだ。


 ――今日もいい天気だな……。


 アイリーンは、抜けるように青い空と強い日差しに溜息をつく。帝都フォンテーンは内陸にあるために、全体的に降水量が少ない。近くを流れるアンバー川から張り巡らされた水路が、フォンテーン周辺を潤しているのだった。

 だから乾いた地域にもかかわらず、大規模な庭園を構えることができる。郊外に行けば畑も広がっているらしい。


 気温が最も上がる昼下がり。休んでいいと言われているので、適度に草を抜いたあと、アイリーンはお気に入りの場所にころんと横になった。

 途端に強烈な眩暈に襲われる。


 ――あー、これ絶対に夏風邪だ……。


 すごくだるいし、気のせいか熱っぽさも増している。

 さらさらという葉擦れの音、木陰を抜ける風の心地よさ。目を閉じた瞬間に、ふわっと意識が遠のく。



   ***



 誰かが呼んでいる。

 誰?

 いい気持ちで寝ているのに、うるさい。

 誰なの?


「う……」


 呻きながら目を開けると、目の前にジェラルドの顔があった。いつもは上げている前髪が額にかかっている。髪の毛を下ろすと雰囲気が急に若返るので、なんだか「らしく」ない。

 目が合うと、ジェラルドの黒い瞳がふっと緩んだ。


「気が付いてよかった」

「気……?」

「そなた、倒れていたんだぞ」


 倒れていた?

 アイリーンは目を動かしてジェラルドの向こう側を眺めた。

 庭園だ。大きな木陰。アイリーンがいつも昼寝をしている場所。

 よくよく見れば、ジェラルドの背後には庭師とマリエが立っている。

 見上げた空の色はわずかに金色を帯びている。夕方のようだ。寝過ぎたのかもしれない。


 ――どういうこと?


 身じろぎしようとして、アイリーンは自分がジェラルドに上半身を抱きかかえられていることに気が付いた。


「僕……?」

「汗びっしょりだな。少し熱もあるみたいだ。とにかく中に入ろう」


 アイリーンの体をジェラルドが抱き上げる。前にも王宮でジェラルドに運ばれたことがあるが、あの時は全然知らない人たちに見られていた。だが今回、アイリーンを見つめている庭師とマリエは知った人物だから視線が気になる。恥ずかしい。


「だ、大丈夫だよ。歩けるから下ろして」


 アイリーンはジェラルドの分厚い胸板を両手で突っぱねながら抗議したが、急に体に力を入れたせいで眩暈に襲われた。


「おとなしくしろ」


 頭を押さえるアイリーンの様子に、ジェラルドはアイリーンを抱えたまま足早に庭園を突っ切って屋敷の正面から中に踏み込んでいった。

 日が傾いてきているとはいえ、夏の日差しがまぶしい屋外から建物の中に入ると、明るさの差のせいで真っ暗に見える。玄関ホールにはいくらか人の気配が感じ取れた。


「これはどういうことですか、母上」


 ジェラルドの静かな、だが抑えきれない怒気を孕んだ声が間近から聞こえる。ジェラルドはそこにいる人物が誰なのかわかるようだ。


「なぜアイリーンが外にいるんです? それも庭に倒れていた。気に入らないからとはいえ、あまりの仕打ちではありませんか?」

「……私は外に出した覚えはないわ」


 感情を抑えた声。コンスタンツェだ。


「では使用人たちが勝手にやったと? 私は使用人全員に対し、アイリーンの立場と待遇について説明をしました。私の指示に従わない者がいるということですか? ここに?」


 ジェラルドの言葉は冷たい。

 ようやく建物の中の明るさに慣れてきたアイリーンは、玄関ホールにコンスタンツェとバーク、そして何人かのメイドたちが立っているのを認めた。全員がジェラルドとアイリーンを見つめている。


「バーク、答えろ。使用人たちの意志でアイリーンを追い出していたのか?」

「……ええ。私の独断です」


 ジェラルドの鋭い問いに、執事がゆっくりと答える。


「見損ないましたよ、母上」


 ジェラルドがコンスタンツェを睨む。


「よくも誰にも頼れない娘に対して、そのようなことができるものです。前にも言いましたが、この娘は一国を背負ってここに来ている。母上、あなたと同じです。母上もかつて一族の命運をかけて皇帝に嫁いだのではありませんでしたか?」


 ジェラルドの言葉に、コンスタンツェが怯むのがわかった。


「この娘には竜の国の人々の命運がかかっている。そして、私は皇帝からこの娘を託されている。個人の気持ちで処遇を変えていいものではないんですよ。それから、この家の主は私です。不在がちだからといって無視されては困りますね。我々には後ろ盾がない。この家や暮らしがどうなるかは私次第であることを、ゆめゆめお忘れなきよう」


 ジェラルドがコンスタンツェだけではなくバーク、その場にいる使用人を見渡す。

 そしてコンスタンツェが何か言い出すよりも前に、踵を返してジェラルドの居住区である東棟へと向かった。




 連れて行かれたのは、案の定、ジェラルドの私室だった。


「とりあえず着替えよう……そなたの荷物がないな?」


 アイリーンをソファに下ろしたあと、ジェラルドが寝室をのぞく。片隅に置いてあったはずの長持がないことに気づき、ジェラルドが眉をひそめる。


「いつ帰ってきたの?」


 荷物のことを知らないということは、ジェラルドはアイリーンのこの七日のことは知らないのかもしれない。とりあえずどこまで知っているのか探らなくては。


「たった今だが」

「なんで僕が庭にいるってわかったの」

「そなたがどこにいるか聞いたら、誰も知らないという。探せと命じたら、マリエが庭にいると言うので案内してもらった」

「ジェラルドはマリエを知ってるの?」

「使用人は全員知っている」


 さも当然のように言う。身分が高いくせに、なんだか意外な気がした。


「マリエは何か言ってた?」

「何も」

「……あ、そう」


 マリエ、手紙を書けと言っていたくせに(結局出していないけど)。少しくらいは意見してくれてもいいんじゃないの? とは思ったが、彼女がジェラルドに告げ口する理由も義理もないのだから、責めるのはお門違いではある。


「まあ、とにかく少し寝ろ。寝ないと回復しないぞ」


 ジェラルドが横になるように促すので、アイリーンはふかふかのクッションを引き寄せて頭を乗せ、ソファへ横になった。


「……ジェラルド。みんなは上の指示の従っただけだよ。それに、けっこう楽しかったし」


 いずれすべては明るみに出るだろうと思い、アイリーンは転がったまま告げる。


「使用人扱いされていたんだろう?」

「まあ、そうだけど、別に鞭で打たれたりはしてないし」

「この屋敷では鞭の使用は禁止にしている。……やはり少し熱があるみたいだな。マリエに何か冷たい飲み物を持ってこさせ……どうした?」


 ジェラルドが熱を測るべくアイリーンの額に手を当ててきたのが嬉しくて、アイリーンはくすくすと笑いだした。


「……お飾りなのに、心配してくれるんだね」

「お飾り?」

「お飾りの妻……でも、いなくなるとやっぱり困るから?」

「そなたは飾りではない」


 ジェラルドがむっとしたように言う。


「縁談避けなんでしょ」

「結果としてそうなっただけであって、そなたをお飾りの妻にするつもりはない。それとも、アイリーンはお飾りでいたかったのか?」

「……僕は本物の妻にはなれない」


 そんなつもりはなかったのに、ぽろ、と涙が一筋こぼれた。


「僕は……竜族だから」

「……。確かに、俺は竜族のことはほとんど知らない。それについてはあとで聞こう。体の具合が悪いと気持ちも塞ぎやすいから、今はとにかく休め」


 ジェラルドはそう言うとアイリーンの額から手を引き揚げ、静かに部屋から出て行った。

 ぱたん、とドアが閉じる音が聞こえた途端、どっと疲れが押し寄せる。

 世界が回る気持ち悪さに呻きながら、アイリーンは目を閉じた。


 開けっ放しの窓から吹き込む風が心地いい。


 ああ、ジェラルドになんであんな面倒くさいことを言っちゃったんだろう。嫌われてしまう。お飾りの役割を求められているならあっけらかんとお飾りの役目を果たせばいい。どのみち一年もしないうちにアイリーンはいなくなるのだから……彼を煩わせてはいけない……。


 前髪を揺らす涼しい風に、アイリーンの意識は再び沈んでいった。

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