第18話 アイリーンの波乱万丈な帝都生活四日目
帝都に来て四日目、アイリーンはメイド頭にたたき起こされて洗濯に動員された。昨日はまともな食事は深夜のみ、量も足りていないので空腹でフラフラする。洗濯は体力を使うので終わった時には、さすがのアイリーンも会話をする気力すらなかった。
一緒に作業をしていたメイドに促されて、使用人食堂に連れて行かれる。パンにスープ、チーズという組み合わせだった。ようやく人心地ついたところで、今度は厨房の皿洗いと鍋磨きに回される。
「丁寧に扱うんだぞ。割ったら給金から天引きだからな」
カエルおじさんが言ったそばから、手が滑って皿が真っ二つに割れた。
「おまえ、よくも高い皿を!」
「給金なんてもらってないけど。僕は下働きのためにここに来たわけじゃないから」
「え」
落ちた皿を拾いながら、アイリーンは呟く。カエルおじさんが変な顔をしたが、アイリーンは構わず落ちた皿を拾い集めた。
言われた場所に割った皿を捨て、洗えと言われた皿とカトラリー、そして鍋を磨くともう昼の支度の時間だった。ぴかぴかに磨いたばかりの鍋が、再び火にかけられる。なんだかな。
使用人たちの昼はコンスタンツェの昼食後らしいが、皿洗い中に現れたバークによってアイリーンは昼から風呂掃除、草むしりを命じられた。「そういうことなら」とカエルおじさんが余り物のチーズとパン、コンスタンツェ用のスープを分けてくれる。邪魔にならないよう、厨房の片隅で食べた。
食べ終わったころに、年長のメイドがアイリーンを呼びにくる。
案内されたのは、初日にアイリーンが使ったのとは別の風呂。コンスタンツェのものだという。この屋敷には風呂が複数存在するようだ。贅沢なことだ。
アイリーンに「丁寧に洗ってね」と掃除道具だけを渡すと、彼女はさっさといなくなってしまった。
――何をどうすればいいのさ。
ふーむ、と掃除道具を抱えてアイリーンは考え込んだ。
そもそもここは浴室なのだが、どこから水が出るのかわからないのである。ちなみに竜の国では竜神の湖から水を引き込んだ共同浴場がいくつかあった。水は水道の弁を開ければいくらでも流れ込んできた。……そういう仕組みは、ここにはないみたいだ。
「お風呂の洗い方って、知ってます?」
とりあえずこのバケツで水汲みするか、と考えていたところに、後ろから声が飛んでくる。
振り返ると、昨日アイリーンが話しかけた小柄なメイドが立っていた。藁色の髪の毛をひっつめ、キャップの中に収めている。大きくてくりくりとした瞳にそばかすの浮いた頬、優しげでどこか愛嬌のある顔立ちの娘だ。
「……知らない。どうすればいいの?」
「ここの掃除って、本当は二人一組でやる仕事なんです。一人でもできるけど、二人のほうが早いから」
そう言って彼女は浴室に入ると、浴槽のふちに置いてあった丸っこい蓋を取り、体をかがめて浴槽に手を入れて底の穴にはめた。
「浴槽にためたお湯は、さっきの蓋を引っ張れば抜けます。……仕組みを教えるからついてきていただけますか? ……あたしはマリエっていいます」
「僕はアイリーン」
マリエについて浴室を出、廊下を歩き、屋敷の裏に出る。
浴室の裏あたりにつくと、建物から樋のようなものが突き出している。その隣には壇がついて少し小高くなっている、小さな水車。
マリエがその段を上って水車を動かし、水を汲みあげた。そしてその水を屋敷から突き出している樋に流す。
「この樋はさっきのお風呂につながっているんです。だから二人一組のほうが効率的なんですよ。一人が外で水汲みをして、一人が中で洗うんです。お風呂の準備も、こうして水を流して浴槽にためて、この下に薪をくべてお湯をわかすんです」
「へえ~~~~」
風呂の沸かし方は竜の国と同じだが、ジェラルドが使う浴室は別にあったところを考えると、この屋敷ではたった一人のために湯を沸かすようだ。すごい。なんという贅沢。
「水は豊富なんだね」
「ここフォンテーンはアンバー川の水を地下水路に引き込んでいるから、水は豊富なの。ちなみに、ジェラルド様の浴室も、あたしたち使用人の浴室も仕組みは同じです。風呂の掃除当番や火の番が回ってきたら、あなたもやることになると思うわ。……本来は二人か三人でやるものだけど」
「あー、僕は一人でやんないといけないってことかー」
嫌われているようだから、誰もアイリーンとは組みたくないのだろう。今回ばかりはマリエが助けてくれたけれど、毎度助けてくれるわけではないだろうし、結局一人でやることになることは目に見えている。
「……なんだかイジメみたいで、気分が悪いですね」
一人じゃ要領よくやるのは無理だなー、僕がもたもたしても文句は言わさん、と心の中でこぶしを握り締めていたら、ぽつりとマリエがこぼした。
「え、そうなの?」
「料理長が、あなたは無給で使われているって、言ってたんです」
「……まあ、僕、使用人じゃないしね」
確かに、さっきそんな会話をした。
「あたしたちがいろいろ我慢しているのは、給金がもらえるからですよ。それももらえないのに、あなたがこんなふうに働かされるのは、間違っていると思う」
マリエは思いつめた顔で、バケツを吊るしているロープを握り締めている。
「……昨日、ちょっとだけ宮殿に行ったんだけど」
アイリーンは壇を上がってマリエの隣に立ち、マリエの手からロープを奪う。
「女官たちにすごーく下に見られたよ、僕」
バケツを水面に落とし、ロープを巧みに揺らして水を汲む。力を入れて、ロープを引き上げる。
アイリーンの告白に、マリエが驚いたように振り返る。
「この国の人たちにとって、竜の国の人たちは『格下の民族』なんだよね。同じに見てない。ジェラルドがいくら僕のことを竜の国の姫だと説明しても、誰も聞く耳を持たない。風の王国の姫なら、こんな扱いはされないと思うな」
引き上げたバケツの水を樋に流す。水は重い。繰り返すと重労働だ。
「この国は多民族国家なんです。まわりの国を飲み込んで大きくなってきたんですよ。一番偉いのは皇帝陛下のルーシス族だけど、『その他』はどれも似たような扱い。……コンスタンツェ様も、『その他』の出身なんですけどね」
マリエはどこか思いつめたような顔をしている。
「あ、そうなの?」
アイリーンは空になったバケツを再び井戸に落とした。
「あたしも、『その他』です。黒い髪の毛と瞳がルーシス族の証なんです」
「じゃあ僕は『その他』以下の扱いか」
「それじゃ奴隷になってしまう。……奴隷にされるのは、犯罪者か、捕虜だけです。アイリーン様、あなたの国は、この国と戦って負けたわけじゃないでしょう?」
「様はいらないよ。無給で使われているってことは、どうやら使用人の一人にも数えられていないみたいだしね。……国に関しても、今のところはね」
アイリーンはロープを揺すって再びバケツに水をためる。
「呼び捨てなんてできません。ジェラルド様はあたしたちに、アイリーン様はご自分の国を守るためにたった一人でこの国にやってきたのだと教えてくださいました。だから、くれぐれも粗相のないように、丁重に扱いなさい、と。それなのに、ジェラルド様が出発されたあとコンスタンツェ様が、ジェラルド様の指示を撤回されて自分の指示に従うようにとおっしゃったの。あたしたち、どっちに従うべきかわからなくて」
「ふうん」
「執事のバーク様はコンスタンツェ様の手下よ。使用人のトップは執事だから、バーク様に従う者も多いわ。でも……料理長は違うみたい。あたしも……面と向かって逆らうことはできないけれど、コンスタンツェ様のやり方は間違っていると思うの」
なるほど。
使用人の中にも派閥みたいなものがあるらしい。
「アイリーン様、ジェラルド様にお手紙を書いてください。バーク様に気づかれないように出しますから」
マリエがアイリーンに向きなおる。アイリーンは、そんなマリエをじっと見つめた。
マリエの瞳は灰色がかった緑だ。芽吹いた水草が揺らめく、春のせせらぎのよう。きれいだと思う。
――優しい子なんだな。
帝国の人間が全員、優越思想に取りつかれているわけではないことが分かっただけでもよしとしよう。
アイリーンはにっこりと笑った。
「ありがとう。どうしても、って時は頼むかもしれない。ま、僕に関わったことでコンスタンツェ様に睨まれないように気を付けてね、マリエ」
名前を呼ぶと、マリエが驚いたように目を見開いた。
風呂掃除をしたあと、アイリーンは草むしりに駆り出された。
炎天下の庭で草取りなんて、竜の国でもやらない。真夏の農作業というのは、朝晩に作業をして、昼間は家で昼寝をするものなのだ。
きっとヴァスハディア帝国でもそうなのだろう。夕方は見かける庭師が、真昼間はいない。
真面目にやるのが面倒くさくなり、アイリーンは木陰に寝っ転がって午後を過ごした。夕方に起きてちょっと草をむしればいっか、と思ったのだが、なんだかんだで疲れていたのだろう。夕方、マリエが探しに来るまで、アイリーンは木陰でぐっすり眠り込んでいた。
マリエに引きずられるようにして厨房に行けば、片隅に一人分だけ食事が用意してある。昼よりも量が増えている気がする。
「お嬢ちゃんは細っこいからな、しっかり食わないと倒れちまうぞ」
カエルおじさんこと料理長がぶっきらぼうに言う。どういう風の吹き回しだろう。礼を述べてありがたくいただく。そのあと、マリエに連れ出されて使用人用の風呂場に押し込まれた。
「一番風呂です。今はコンスタンツェ様の給仕で使用人は出払っているから、ゆっくり入っても大丈夫。着替えはここに置いておきます。洗濯は……自分でやってもらえるかしら?」
「もちろん」
もともとそのつもりだったのだ。マリエに感謝し、アイリーンは一番風呂をいただくことにした。
久々にさっぱりしたアイリーンは、メイド頭に申し付けられた皿洗いを機嫌よくこなし、「よく頑張ったな」と料理長からコンスタンツェのために用意されていた予備のプディングまでもらって、上機嫌で壁の崩れた部屋に戻った。
プディングを食べている間、厨房にいた料理長やマリエからジェラルドの事情を聞いて「コンスタンツェ様に嫌われるわけだわ」と思ったアイリーンである。
ジェラルドは国境防衛において活躍が目覚ましいので、宰相の娘との縁談が上がっているのだそうだ。
宰相と縁づけば、ジェラルドの立場はさらに強固なものになる。『その他』であるコンスタンツェはこの縁談を推し進めたい。だがジェラルドはこの縁談を望んでいない。
ジェラルドがなぜこの縁談を拒んでいるのかはわからないが、相手が見えてきたことで自分がジェラルドの花嫁にされた理由がわかった。
結局彼はアイリーンを利用したいだけなのだ。
わかっていたことだけど、その事実はけっこう心にずっしりくる。
普段の彼が優しいだけに。
――ジェラルドにとって僕って、そんなもんなんだな……。
アイリーンにとってジェラルドは、この国で守ってくれる唯一の人であり、アイリーンの言葉に耳を傾けてくれる稀有な人。
そしてなぜか近くにいると、その動きに目が奪われてしまう人。
後ろから見ると、すごく背中が大きい。
実は姿勢もいい。
顔もいい。……うん、顔は本当にいい。ちょっと怖いけど。
声もいい。彼の低い声は、いつまでも聞いていたいくらい心地いい。
アイリーンはけっこう、いやかなり、ジェラルドのことを評価している。
でも彼にとってのアイリーンは、そこまででもない……。
そんなことを考えていたらなんだか悲しくなってきた。
アイリーンはベッドに突っ伏して枕に顔を押し付けた。
泣くものか。ちょっと目頭が熱いのは、昼間の疲れのせい。
ここが使用人用の個室でよかった。もしジェラルドの部屋で一人ぼっちだったら、もっともっと悲しくなったと思うから。
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