第20話 将軍は花嫁に囚われる
アイリーンをソファに寝かせてジェラルドが部屋の外に出ると、廊下にマリエが立っていた。北の氷狼族に侵入されやすい北部国境のとある町で、氷狼族によって家族を失い途方に暮れていたところをジェラルドが引き取ったのだから覚えている。
男のかっこうをしたガリガリの子どもだった。女の子だと知り驚いたと同時に、そんなかっこうをしなければどんな目に遭うかわからない場所で生きてきたことに心が痛んだ。
男の子に見えるという点ではアイリーンと似ているが、アイリーンとは境遇が決定的に違う。
アイリーンは守ってくれる人たちがいたが、マリエにはいなかった。
この世の中は不公平だ。
帝都のど真ん中では命を脅かされることもなく贅沢に暮らす人もいるかと思えば、罪もないのに生まれた場所が国土の外れだというだけで、命を脅かされる人もいる。
自分の任務は、こうしたともすれば零れ落ちてしまう人の命を救うことにあるのだと思っている。
「どうした?」
マリエは誰も行方を知らないというアイリーンの居場所をすぐに言い当てた。そのことからも、アイリーンと親しくしていたことが見て取れる。
「アイリーン様のことについて、お話があります」
本来なら使用人が直接、主人に声をかけることは許されていない。執事あるいはメイド頭を通すのがマナーだからだ。それをすっ飛ばしてきていること、マリエがどこか思いつめた顔をしていることから、立ち話で聞く内容ではないのかもしれないと書斎へ連れていく。
そこで聞いた話は、ジェラルドが想像していたよりもずいぶんひどいものだった。そして音を上げず明るく振る舞うアイリーンに協力的な使用人もちらほらいる、と聞いてなぜだか嬉しくなった。
それにしても、だ……。
母のアイリーンの仕打ちには思わず頭を抱えそうになった。
どうしてそこまでいじめることができるのか。
おそらくはアイリーンが山奥に住む、謎に満ちた竜族だからだろう。実在していることは知られているが、その姿を見た者はほとんどいないということもあるし、ヴァスハディア帝国との交流もないことから、帝国での竜族のイメージは未開、蛮族、それから不思議な力を持つ血の持ち主。
少数民族というよりは、珍獣扱いである。
それを裏付けるようなアイリーンの見た目と傍若無人な態度。あれを帝国の物差しで「姫」というのはかなり厳しい。
だが、ジェラルドはアイリーンを気に入っているのだ。
明るくて、前向きで、表情豊か。そして彼女の中には、守るべき大切なもの――家族や、故郷――がはっきりとある。その大切なものは、ジェラルドにとっても価値があるもの。
加えて、マリエから聞いたアイリーンの打たれ強さ。これはもう称賛に価する。
アイリーンはこの国に来て間もない。なぜもう少し大目に見てやれないのか。
***
アイリーンの目が覚めたのは、すっかり夜になってからだった。
――ものすごく寝た。
変な夢も見なかった。おかげで気分爽快、体調もばっちり回復した。睡眠は大切。
居間のソファで寝たはずだが、ベッドに移されていた。
裸足のままぺたぺたと居間に向かえば、ちょうど食事を運んできたマリエに鉢合わせする。
「目が覚めたんですね! 熱が出たと聞いて心配していました!」
「うん、もう大丈夫。熱は下がったし元気にもなったよ」
マリエには抱き着かれそうな勢いで喜ばれ、そういうことならとうきうきと風呂に連れて行かれた。この七日間、アイリーンがせっせと掃除していたコンスタンツェのバスルームではなく、ジェラルドのバスルームだ。
背中を洗おうかというマリエを追い出して一人で入浴を済ませ、外に出てみれば用意してあるのはふわふわとかわいらしいデザインの、ナイトドレス。
「……正気?」
思わず引きつってしまった。誰が用意したんだ、こんなもの。アイリーンの持参品の中にはなかったはずだ。しかしほかに着るものがない。しかたない。
――道化に見える。こんな姿、誰にも見られたくない。
アイリーンは溜息をつき、襟と袖、裾に繊細な刺繍が施されたナイトドレスをまとうと、そっとバスルームのドアを開けた。外にマリエが控えているかと思ったが、廊下には誰もいなかった。チャンスだ。
室内履きを手に、裸足のまま廊下を駆け抜ける。
幸いなるかな、廊下では誰ともすれ違わなかった。よかった。
しかし、ジェラルドの部屋に滑り込んでほっとしたのもつかの間、室内に目を向けるとジェラルドの驚いたような顔を見つけてしまった。
しかも、髪の毛を下ろしているジェラルドだ。シャツにスラックスという非常にラフな姿である。髪の毛を上げて軍服を着ている姿しか知らないから、びっくり度が三割増しだ。
「わあああっ」
アイリーンは思わず叫んで手にした室内履きを放り投げると、胸元を隠すように腕を交差させた。
らしくない姿を見られてしまった。恥ずかしさで顔に血が上る。
「こ、これはあの、これしか服がなくて……っ」
真っ赤になりながら言い訳すると、ジェラルドがくすりと笑った。髪の毛を下した姿はいつもより若々しくて、威圧感も薄れる。こっちのほうが感じはいい。ああでもだから普段は髪の毛を上げているんだ。まわりの人たちからナメられないように。
「俺が用意したんだ。まあ見繕ってくれたのはマリエなんだが、似合ってるじゃないか。かわいい、かわいい」
「か、かわいいとか、言うな! 僕から一番遠い言葉だよ!」
見ろこの鳥肌! と腕を突き出したら、ジェラルドが寄ってきたので慌ててしまった。なんで腕を突き出した自分!
「確かに鳥肌が立ってるな」
ジェラルドがしみじみと呟いたあと、顔を覗き込んでくる。
「もしかして竜族が国から出ないのは、あの場所から離れてはいけないから、なのか? 国を出てしまったから、具合が悪くなってきているのでは?」
「竜族が国から出て行かないのは、ほかに行くところがないからだよ。国から出たくらいで具合が悪くなったりしないって」
アイリーンは腕を引っ込め、目の前にいるジェラルドを見上げる。
「ではそなたの体調不良は、ただの疲れか?」
「たぶんね」
ものすごく心配されているので、寝冷えをしてしまった……とは、ちょっと言えない……。
「何人かの使用人に確認して、だいたいの流れはわかった。母の暴走を止められなかった俺のせいだな。悪かった」
唐突に抱き上げられて、寝室に運ばれる。いったい何度目だろう。だんだん慣れてきている自分にびっくりする。
「違うよ。それは違う。……みんな、異形の者は怖いんだよ」
「異形?」
「竜族の上に、僕はこんな姿だろう? 得体の知れないものは気味が悪いもんね。ここにいる人たちは、まともな神経をしていると思うよ」
アイリーンが自嘲する。
「俺はそうは思わない」
アイリーンをベッドに置き、そのすぐ脇に腰を下ろしたジェラルドがそっと頬に触れてくる。
「気味が悪いなんて思ったことは、一度もない」
「……こんな体なのに?」
アイリーンは頬に触れているジェラルドの手をつかむと、無理やり自分の胸の上に置いた。
「僕はやせっぽちなんじゃなくて、本当に、胸がない。骨と皮だけ! もう十九歳になるのに、二十歳まで時間がないのに! 大人になれない体なんてどう考えてもおかしいだろ!? 不気味だろ!? 月のものだってない。僕は……僕は……皇帝の言うとおり、出来損ないなんだよ……っ」
いつもは考えようにしていたことを言葉にしてしまった途端、事実が生々しく胸に突き刺さる。
なぜ自分は大人になれないのだろう。
なぜ、誰も選んでくれないんだろう。
なぜ、二十歳を過ぎたら死ななければならないのだろう。
十八歳を過ぎてからは考えないようにしていた。つがいは十八歳までに見つかる。見つからなければ運命は決したようなもの。
考えないようにしていたけれど、悔しいに決まっている。悔しくてやるせなくてつらくてつらくて、必死に目を背けていなければ心が闇に飲み込まれていきそう。
泣くつもりはなかったのに、ぽろぽろと涙がこぼれ始め、アイリーンは胸元にあるジェラルドの手を振り払うと、あわてて手の甲で目をぬぐった。
人前で泣くなんてみっともない。こんなの「アイリーン」じゃない。アイリーンは明るくてサバサバしていて、運命なんて気にしない女の子。そうしていないとエルヴィラが気にするから。クマ男ドルフに同情されるから。
自分はかわいそうな女の子だなんて絶対に認めない。泣いてわめいて運命が変わるなら、竜神の湖があふれるくらい泣いてやる。でもそんなことをしても運命は変わらない。抗うだけ滑稽だ。まわりの同情を誘うのもいや。みじめさが増すだけだ。
だから、つがいがいないことなんてなんとも思っていない。そういう運命なんだからしかたがない。
受け入れたはずだった。
――そのはずなのに、なんで……。
涙が止まらないんだろう。
「出来損ないだから、お飾りのまんまでいいんだ……僕は、ジェラルドに気を遣われる価値なんてないんだよ」
「アイリーン」
ジェラルドが呼ぶ。アイリーンは俯いたままかぶりを振った。気まずくて彼を見ることができない。
「アイリーン」
もう一度、ジェラルドが呼ぶ。絶対に顔は上げない。
「ひとつ聞くが、そなたがエルヴィラ猊下の代わりに陛下の側に上がることになったのは、その体が理由か? そなたの国は、体が幼いという理由でそなたを差し出すことにしたのか?」
「違うよ。これは自分で決めたこと」
ジェラルドの問いかけに、アイリーンは俯いたまま答えた。
「なぜ、と聞いていいか」
「出来損ないの僕にでもできることだったからだよ。生まれてきた意味がほしかったんだ」
「なるほどな。……さっきも言ったが、俺はそなたを不気味だとも出来損ないだとも思ったことはない」
「今ならどうなの? 今なら、思うんじゃないの?」
「いいから聞け」
ジェラルドが駄々をこねるアイリーンを遮る。
「初めて会った時、いきなり斬りかかってきたな。姉を守ろうととっさに動いたのがわかった。俺はその姿に衝撃を受けた」
「……僕たちの神聖な場所に土足で踏み込み、いきなり銃を突き付けてきたのはそっちだ。僕は謝らない」
「ああ、謝らなくていい。それだけのことをしたと今ならわかる。まあとにかく、あの時のそなたは動きがよかった。しなやかで迷いがなくて。一目で気に入った」
「……」
「だからそなたが女の子だとわかった時は、本当に驚いた。その上、国を離れられない姉の身代わりとして、たった一人でヴァスハディア帝国に来るという。こんな強くて美しい姫を皇帝に捧げることが我慢ならなかった」
「……は?」
美しい? 何を言っているんだ、こいつは?
アイリーンは泣いていたことを忘れ、思わず顔を上げてジェラルドを凝視した。ジェラルドの目元がほんの少し赤い。
「俺はそなたが言うところの『出来損ない』の姿しか知らないが、その姿に惚れ込んでそなたを娶ることにした。今すぐ首を切れという皇帝を説得するのは大変だった」
「……惚れ……?」
今、何て?
「僕は、縁談避けのお飾り妻じゃないの?」
「なんでそうなるんだ? だいたい縁談を潰すのにお飾りの妻を用意するなんて面倒なこと、誰がするか。俺はアイリーンを気に入っているから娶ることにした。これ以外の理由はない。人質という立場だが、俺ならそなたを守ってやれるし、アイリーンが居心地いいと思う場所を作ってやれる。ああもちろん、この七日のことは謝るし、待遇は改善する」
ジェラルドが手を伸ばし、アイリーンの頬に触れる。大きな指がスッと皮膚の上をすべる。涙のあとを拭ってくれたらしい。
「そういう思いやりは妻の役割を果たせる人に与えるべきだ。僕は、大人にはなれない」
それどころか二十歳を過ぎたら、この世にすらいなくなる。
「それなんだが、どういうことなんだ? そなたの姉上は大人の女性に見えたが。姉上は大人になれて、そなたが大人になれない理由があるのか?」
「理由は、ある。……僕には、つがいがいないから」
竜族の秘密は守るべきなのかもしれないが、ここまで心を砕いてくれているジェラルドに対し、さすがに嘘はつけない。アイリーンは、竜族の秘密を口にした。
「つがい?」
案の定、ジェラルドが怪訝そうに聞き返す。
「竜族は、つがいが見つかって初めて大人になる。僕には、つがいがいない。だから体が子どものままなんだ」
「つがいとは、伴侶のことか?」
ジェラルドが聞く。アイリーンは頷いた。
「俺がいる。俺ではなれないのか?」
「竜族同士じゃないとつがいになれない。僕は、本当だったら、とっくにつがいが見つかっている年齢なんだ。言っただろう、出来損ないだって。……僕は、誰にも必要とされてないんだよ」
ああ、言ってしまった。
アイリーンは項垂れた。女王の妹は事実だが、実際のところは出来損ないを押し付けられたのだと知ったら、どう思うだろう。ジェラルドの自分を見る目が変わるのが怖かった。
一度は温かい眼差しを向けてくれた人から冷たい視線を向けられるのはつらい。知らない人たちに異民族というくくりで見下される方がまだましだ。
「だから、俺がいると言っているだろう」
ジェラルドが静かに告げる。
「出来損ないと言う根拠は、子どもが生めないことか? 体つきが幼いことか? つがいが見つからないこと?」
「……全部だよ。全部」
ジェラルドの問いに、アイリーンは沈んだ声音で答える。
「子どもに関してはどうすることもできない。だが体つきが幼いこととつがいが見つからないことに関しては、俺の力で解決できるな」
「……何言ってんの」
竜族特有の体質のことだ、誰かに解決できるものではない。解決できることならこんなに悩まない。解決できるなんて言い切ったジェラルドに怒りを覚え、アイリーンは涙に濡れた藍色の瞳を向けた。
「俺は皇族だが、子どもを残さなくてはならない立場ではない。だから子どものことは考えなくてもいい。体に関しては」
突然、ジェラルドがアイリーンの肩を押す。バランスを崩してアイリーンはベッドに仰向けに倒れ込んだ。その上からジェラルドがのしかかってくる。
「体に関しては、俺が問題ないと言えばなんの問題もない。俺以外に見せる機会なんてないんだからな」
「……っ!?」
「自信を持て、アイリーン。そなたは今のままでも十分美しい。エルヴィラ猊下にも負けない。出来損ないなんかじゃない」
「……っ、そんなわけが……!」
「証明してやろうか?」
言い返そうとしたアイリーンを見下ろしながら、ジェラルドが言う。
「証明?」
「手っ取り早い方法がある」
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