第13話 どうしてこうなった!?

 今は何時ごろだろう。差し込む光から考えると、お昼が近くなっている気がする。

 季節は真夏。半地下とはいえ湿度が高いので、蒸し蒸しする。


 一張羅を汚したくはなかったが、疲れてきたアイリーンは手で払った床の上に腰を下ろし、ぼんやりと天井近くの窓を眺めていた。狭い窓から見えるのは空のみ。

 おなかがすいてきたし、何より喉が渇いてしかたがない。水分を摂らないのと汗をかくのとで、尿意は感じない。おまるの出番はまだ大丈夫そうだ。


 なんでこんなことになったんだろう。女官たちの態度が急変したのは、胸元のあざを見つけた時だった。男と会っていた? あのあざは男と会うとできるのか? そんなバカな。苦手な人物に会って鳥肌が立つことはあっても、会うだけであざができるようなことはないはずだ。意味がわからない。

 男と会う、という女官の言葉から、なぜかふとジェラルドの顔が浮かんだ。


 ――あいつ、か……?


 いや、彼に手荒に扱われた覚えはない。ジェラルドではない。じゃあやっぱり虫刺されなんじゃないか、だとしたらこれはかなり失礼な展開だ。外交問題に発展するぞ。知らないぞ。うちの姉はああ見えて怖いんだぞ。竜神を呼び出すぞ。そんなことができるのか知らないけど、なんかできそうな気がする。何しろ歴代一の女王と呼ばれる実力の持ち主だ。

 そんなことをつらつらと考えていた時だった。


 唐突に、ドアの鍵が開く音がした。

 アイリーンははっとなって、ドアに目を向ける。

 ドアが開く。

 姿を現したのは、背の高い、黒ずくめの男。


「――遅い! 遅い遅い遅い!!」


 アイリーンの誤解を解いてくれるのなら、ジェラルド以外いないと思っていた。だが彼は単なる荷物運び。そこまでしてくれる義理なんかない。ないけれど、安堵のあまり迂闊にも涙が浮かびそうになる。そんな自分をごまかすように、アイリーンは座ったまま大声で叫んだ。


「悪かった」


 そう言いながらジェラルドが手を差し伸べる。


「なんなんだよこれ、なんでいきなりこんなところに放り込まれなくちゃならないんだよ! 僕が、何かやったのか!!」


 ジェラルドの手をつかんで立ち上がれば、その手がぐっとアイリーンを引っ張る。

 えっ、と思った時にはもう、ジェラルドの腕の中に抱きしめられていた。

 頭が真っ白になる。

 なんでなんでなんで?

 この部屋に放り込まれた時よりも、真っ白度合いは高い。

 なんでこの男に抱きしめられてるんだろう?

 心配されているの? まさか? そんなことが。


「こんなところに押し込められているとは知らなかった。けがはしていないか?」

「けが……」


 事態を理解できないまま、アイリーンはジェラルドの言葉をオウム返しに呟いた。けが、けがってなんだっけ。単語がなかなか頭の中で意味をなさない。けが……ああ、けがは、けがだ。ようやく単語の意味を思い出す。


「……けがはしていないけど、ひどい目には遭った。姉さんに言いつけて竜神を呼び出してやる。帝国はすべて水没だ」


 けがという単語の意味を考えているうちにだんだん頭が回り始め、怒りもこみあげてきた。


「恐ろしいことだ」


 言いながらジェラルドがアイリーンを抱え上げた。

 ぎゃっ、と変な声を上げてアイリーンはジェラルドの首筋にしがみつく。どうして次から次へとこの男は突飛な行動を起こすのだ。しかも意図が読めないから、アイリーンは振り回されっぱなしだ。


 広い肩越しにジェラルドの背後を見れば、兵士のほかに立派な装いの壮年男性が立っているのが見えた。全員が唖然としている。


 どうやらジェラルドが連れ出してくれるみたいだ。事情が呑み込めないが、ジェラルドがへそを曲げるとまた嫌な目に遭いそうだなと思い、おとなしくジェラルドにしがみついておくことにする。


「――というわけだ。この娘は私がもらい受ける」


 どういうわけだ?

 だが、アイリーンの疑問に対する答えは誰からも与えられなかった。兵士は言わずもがな、立派な身なりの男性も何も答えなかったからだ。

 そんなわけで、アイリーンは軽々と抱き上げられたまま、ジェラルドに連れられて宮殿を後にすることになった。


 それにしても抱っこで移動なんて恥ずかしい。すれ違う人たちがみんな一様に驚いた顔をする。自分で歩けるから下ろしてほしい、と、言おうかと思ったが、心細い思いをしたばかりのアイリーンはジェラルドから離れたくなかった。


 ――守ってもらえるのって、いいな。こんなにもほっとできるんだ。


 アイリーンはジェラルドの肩口に顔を寄せた。

 何のにおいだろう? ジェラルドからはふんわりといいにおいがした。


 ――つがいって、こんな感じなのかなあ……。


 場違いにもほどがあるが、成人男性に抱っこなどされることがないから、そんなことを考えてしまう。

 つがいがいないことは「しかたがないよね」と割り切って受け入れたつもりだった。

 そうしないと自分がみじめになるし、何よりエルヴィラが動揺するから。

 だからアイリーンは極力、「しかたがないよね」と笑ってみせてきた。でも、やっぱり胸の奥でつがいがほしかったという気持ちはくすぶっている。

 伴侶がほしかったというよりは、誰かにとって唯一無二になりたかった。そういう気持ちが強い。


 誰が悪いというわけではないのだが、誰からも「唯一無二の伴侶」として必要とされていない現実は、アイリーンの心を深く抉っていた。

 それにつがいを得なければ二十歳で死んでしまう運命にも、かなりの理不尽さを感じる。

 子どもが作れないなら長生きする必要はないなんて、あんまりではないか?

 竜神も、つがいがいない者に対してもう少し優しい運命を用意してくれればいいものを。

 世の中は不公平だ。




 帰りの馬車でジェラルドから聞いた話によると、アイリーンの身体検査でいくつかの問題が見つかり、皇帝の側に上がるには不適切ということになったのだという。

 それに対し、出来損ないを送りつけてきたのか、話が違うと皇帝が怒り、竜の国との折衝に当たったジェラルドが呼び出され説明を求められた。


 ジェラルドは「妃としてふさわしくないのだとしても、竜の国の姫には違いない。単なる人質としてこちらに置いておけば問題ない」と言い切ったそうだ。


「今は竜の国を手に入れることが最優先、娘のできは二の次」

「国と国との取り決めとして竜の国の姫のバステラール家への輿入れが必要とあれば、自分がもらい受ける」

「どうせ竜の国と交渉を重ねるのは自分だから、姫が自分の手元にあれば竜の国は強く出られない」


 等々の言葉を繰り出して、打ち首だと騒ぐ皇帝をせっせとなだめてくれたらしい。

 もともとジェラルドも「女王ではない娘を送り込んだら問題になるかもしれない」と懸念してはいた。それが現実のものとなり、ジェラルドがとりなしてくれたことでアイリーンの首はつながったのだから、アイリーンとしてはジェラルドに頭が上がらない。


 そういうわけで、アイリーンは急遽、皇帝から第十皇子ジェラルドのもとへ嫁ぐことが決まった。

 なお皇帝への謁見は再度調整するという。


「それにしても、検査係にずいぶんひどい報告をされたらしいな。そなたを打ち首から救った俺はもっと感謝されてもいい」

「感謝……は、してるよ。なんだか奔走してくれたみたいだけど、その結果、僕を娶ることになったんだろ? とんだ貧乏くじを引いちゃったね。けど、このあざに関しては僕も身に覚えがないんだよ。なんなんだろう」


 アイリーンは服の上から胸元をさすった。


「そういえばあの女官たち、変なことを言ってた! 男と会っていたって。このあざって、男と会うとできるもんなの? だとしたらおかしくない? 僕は誰とも会ったりしてないのに、とんだ濡れ衣だ」

「……へえ」


 アイリーンの言い分に、ジェラルドが笑いを堪えたような顔をする。


「なんだよ。僕、なんかおかしなことを言ってる?」

「……いいや、言ってない」

「はっ。ところで、僕が皇帝に嫁がなければ竜の国に軍隊が送られるんじゃなかったの?」


 アイリーンは大きな目をジェラルドに向けた。

 一番気になるのはそこだ。

 役立たずのこの体を役立てるために、父親どころかむしろ祖父に年齢が近い皇帝の側に上がることを承諾したのだ。目的が果たされないのなら、何をしに来たのかわからない。


「そんなことにはならない。言っただろう、俺は竜の国と争う気はない、と。竜の国の位置的に、動くとしたらこの国の北部軍だ。北部軍は俺の指揮下にある。俺が攻撃すると言わない限り北部軍は動かない」

「え、あなたって、実はとても偉い人だったんだね」


 驚いて目を丸くしたアイリーンに、ジェラルドが噴き出す。


「気づいていなかったのか?」


 いや、偉い人だとは知っていたけど、具体的に何ができる人かは知らなかったので驚いたのだ。

 アイリーンは改めてジェラルドを見つめた。

 顔は整っていると思うが、目は切れ長で目つきは鋭いし、長めの黒髪は上げていて額を出しているせいで貫禄がある。服装は黒を基調とした軍服で、やたらに飾りがついているところに身分の高さを感じる。背も高いし体格もいい。ジェラルドは黙っているとかなりの威圧感だ。


「……ねえ、僕と結婚するって、本当? 形だけ?」

「悪いな。本当だ」


 でも、この人は、初対面の時はともかく、それ以降はなぜかアイリーンのことを邪険にはしない。

 今日なんて、助けてくれさえした。

 この国の人たちから見たアイリーンは、取るに足らない存在。しかもジェラルドは皇子で将軍だ。


 ――タダで助けてくれるわけがない、よな。


 アイリーンのような得体の知れないものを引き受ける義理はない。きっと何かあるんだろう。


「……助けてくれてありがとう。だけど僕は……あなたの花嫁には向かないと思うよ……」


 アイリーンが静かに言うと、


「俺には過ぎた花嫁に思えるがな」


 ジェラルドが静かに返してきた。

 どういう意味だろう。だがこれ以上口を開くと卑屈な言葉がどんどん出てきそうで、アイリーンは口をつぐんだ。

 馬車の外に目をやる。竜の国では見ることができないほど大勢の人が行き交っていた。ここはヴァスハディア帝国の帝都。


 ――この人は、僕の体が子どものままだってことを知らないから、こんなことが言えるんだ。知ったら……僕は、どうなるんだろう……。

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