第5話 身代わりの花嫁
「女王は、自分の時代の記録を残す決まりになっているの。だから、過去の女王たちが残した記録を見ながら、自分で決めてきたわ。女王になった時に引き継いだ秘密の部屋があって……入り口はがらくただらけ。女王のごみ箱ね。女王を辞める時に女王時代のものは一切持ち帰ってはいけない決まりだから、記録も持ち物も何もかもそこへ放り込んでいくのよ。抜けている時代もけっこうあったから、中には守っていない人もいたみたいね」
エルヴィラが涙に濡れた顔のまま、小さくふふ、と笑った。
「でも助かったわ。それらを見て、この季節には、こういうことが起こりやすいから、こういうお告げをしよう、って、自分で決めてきたの。あとは外の国に出している偵察者からの情勢ね。もう二年くらいになるかしら」
「待って……二年も!? 一人で?」
アイリーンは驚いて聞き返した。エルヴィラはそんな素振りは一度として見せていない。現にエルヴィラの本音を聞きやすい立場のアイリーンでさえ、気づかなかった。
「誰にも言ってないもの。本当は誰かに相談するべきことだったのかもしれない。でもどうしても気がかりなことがあって。ああだけど、最初は竜神の声が聞こえていたのよ。いつ頃からかしら、だんだん弱くなって……、まったく聞こえなくなったのが二年くらい前」
エルヴィラは弱々しく微笑んだ。
「次の女王が生まれる気配もない。でもこの国には女王が必要。わかるでしょ?」
「でもだからって、一人でそんな大切なことを決めてしまうのは……」
「ええ、そうね。でも、私にはそうしなければならない理由があった。もちろん、ずっと続けるつもりはなくて……あなたを見送ったら女王からは降りようと思っていたの」
「……」
エルヴィラの告白に、アイリーンはなんと返事したらいいかわからなかった。
「……気がかりなことのために、竜神の声が聞こえるフリをしているの? それって、なんなの……?」
エルヴィラがぼやかして伝えてきていることはわかる。言いたくないことなんだろう。アイリーンは注意深く聞いてみたが、案の定エルヴィラは首を振るだけだった。
無理に聞き出すのはやめよう。ただ、姉が重い決断を下し、一人で乗り切ろうとしていたことだけはわかった。
「ねえ、竜神の声が聞こえないってことは、竜神の加護は?」
アイリーンはもうひとつ気になることを聞いてみた。
エルヴィラが首を振る。
「弱くなっていると思うわ。あなたも気づいているんじゃない? このところ、この国の上空を横切る飛行機が増えたわね」
「……そうだね。でも上空だから、そういうこともあるのかなと思ってた」
この国に降りてくるわけではないから。
「それは、たまたまね。たまたま、あの人たちは私たちに用がなかっただけ。でも昨日は、あの人たちは私たちに用ができて、あっさりと飛行機が湖に降りてきた。竜神の加護があれば天候が悪くなって、私たちの領域に近づくことはできないはずだもの」
外の人が案内なく竜の国に近づこうとすれば、必ず雨や霧が発生して遭難する、ということは外の世界でもよく知られた話だ。竜の国には竜神の加護があるから近づくな。外ではそう言われていることをアイリーンも知っている。
「でも、この国を守るはずの竜神の加護が失われていることが、外の国にバレてしまったわね。……今までのようにはいかない。生き残るためには、政治的な駆け引きをする必要がある」
エルヴィラが力なく呟く。
「どうしてこのタイミングで竜神の力は消えてしまったのかしら。そしてよりによってこんな時に、ヴァスハディア帝国からの使者。私は、どうしたらいいのかしらね」
抵抗すれば命はないほどの大国からの、理不尽な要求。女王である姉は決断を迫られている。
女王とはいえ、エルヴィラの役目は竜神の声を人々に伝えるのが務め。国の命運を背負うなんて荷が重すぎる。でも対外的に見てこの国で最も価値がある存在は女王なのだろう。
だめだ。エルヴィラを皇帝の側妃になんてやれない。つがいがいる者を、つがいじゃない人のもとにやることなんて絶対にしちゃいけない。けれど帝国に人質を出す必要はある。女王の代わりができる者。帝国が、納得してくれる者。誰がいるだろう?
「……僕はどうかな」
ふとアイリーンは、頭にひらめいたアイデアを口にしてみた。
「だめよ、それは!」
ぎょっとした顔をして、エルヴィラが叫ぶ。
「妃ということは、閨の相手もさせられるのよ。第一、あなたは……その体じゃ……。大切な妹に、そんなことはさせられない。私はあなたに安らかに過ごしてほしいのよ。もう……もう、あと一年もないのに」
「だからだよ」
アイリーンは明るい声で頷いた。
「僕の残り時間は、もう一年もない。生きている間にきちんと誰かの役に立って死にたいんだ」
「アイリーン!」
「つがいがいないのってね……すごく寂しいんだ。姉さんもいる。ノエルもいる。僕のことを大切にしてくれる人がちゃんといるのは知っているけど、僕は誰かにとっての唯一無二ではないんだ。僕は、僕にしかできないことをずっと探してた。姉さんの身代わりは、僕にしかできない。女王の妹だもの、僕には人質としての価値がある。これはほかの人にはできないことだよ」
アイリーンが微笑むと、エルヴィラが顔を歪めた。
「……ヴァスハディア帝国の皇帝は、私たちの父さんよりもずっと年が上よ。それにあの国は一夫多妻制よ。正妃様のほかにもお妃様がたくさんいるわ。私とそう年が変わらない皇子も皇女も山ほど……どんな目に遭わされるかわからない」
「皇帝の寵愛を得るために行くんじゃないから、別にかまわないよ。第一、僕にはつがいがいないんだから、何されたって問題ないんだって」
アイリーンは自分の平らな胸を叩いた。
「問題ありまくりよ……好色ジジイと聞いているわ。竜族の娘なんて変わり種を放置するとは思えない。あなたは無自覚かもしれないけど、アイリーン、あなたは美人の部類に入るわよ。きっと閨の相手をさせられるわ。つがいがいようといまいと、心が伴わないなら男の相手は苦痛でしかないのよ」
どこで覚えた言葉なんだか、とんでもなく乱暴な言葉を繰り出してきた姉に、アイリーンは噴き出した。
竜族はつがい以外と閨を共にすることにかなりの精神的な苦痛を伴う。体は成熟しているのでつがい以外の相手と子を作ることもできるが、そんなことをすると心が死んでしまう。
「ありがとう。僕のこと美人なんて言ってくれるのは姉さんくらいだよ。……僕の命はあと一年もないもん。ここで死ぬのを待つだけなんてつらいよ。生まれてきてよかったと思える理由がほしいんだ。僕に生きる理由をちょうだいよ、姉さん」
「……だめよ、だめ。絶対にだめ。私の大切な妹を帝国になんて送れない。帝国が私の身代わりで納得してくれるなら、ほかの人を探すわ」
「それはだめだよ。つがいがいる娘はだめ。つがいがいないような子どもは論外。姉さんが行くというのは言語道断。女王は竜族の心の支えだから、この国からいなくなっちゃいけない」
「私はもう竜神の声は聞こえていないのよ。女王の資格なんてないの。いてもいなくても」
「資格がないならなおのこと側妃になる必要なんかないよ。それに姉さんにはつがいがいる。姉さんが側妃になることを受け入れても、ノエルは受け入れられないと思うよ」
「……っ」
「姉さんが側妃になると、不幸になる人が多い。僕なら、そんなに多くない。それに姉さんと同じくらい価値がある立場の人って、そんなにいないよ? 冷静に考えてみて? 僕以外に誰ができるの? ほら、決まり!」
できるだけ明るい口調で言ったつもりだったが、エルヴィラが堪えきれずに嗚咽をもらす。
「僕はずっと姉さんに守ってもらってきたから、最後に恩返ししたいし」
アイリーンは手を伸ばしてたったひとりの家族を抱きしめた。姉の体はこんなに華奢だっただろうか。アイリーンはエルヴィラの背中をゆっくり撫でながらそんなことを思った。
「恩返しなんて……私は……私こそ、あなたがいてくれたから強くいられたのよ……あなたがいなくなったら、私、どうしたらいいの……」
「ノエルがいるじゃない。そんなに泣かないで、ね? 僕はかわいそうなんかじゃない。僕ね、嬉しいんだ。最後に自分の役目が見つかって嬉しいんだ」
「帝国に行ってしまったら、あなたはもう竜の国に戻ることはできないかもしれない」
「……そうだね。でも、姉さんの代わりが務められるのは僕以外にいないと思うんだ」
それはわかっているのか、エルヴィラはもうそれ以上は何も言わなかった。
姉を抱きしめながら、ふとアイリーンの脳裏に例の偉そうな男、ナントカ将軍が浮かぶ。姉を連れていこうとしているのはあいつだ。行くのが女王からその妹になったと言って、納得してくれるだろうか。
アイリーンはその日の午前中に再開された評議会で自分が代理で行くことを提案、あっさりと承認された。評議会としても女王を差し出すことにはためらいがあったようで、代理としてアイリーンの名前も挙がっていたという。しかし、エルヴィラが嫌がること、アイリーン自身の体のこと、寿命のこともあって、保留になっていたのだそうだ。
確かにアイリーンの命は一年もない。アイリーンがいなくなったあとに代わりの娘を差し出せと言ってくる可能性は高いのだが、アイリーンとしてはそこまでは対応できんな、と思う。まあ、とりあえずの時間稼ぎはできるので、評議会にはなんとか対応していただきたい。
幼い体つきのことも問題視される可能性はゼロではないが、寵愛を得るために行くのではないからいいだろう……と、個人的には思う。
別につがいがいない娘を送ってくるなとは言われていないわけだし、一応、体の機能としては閨の相手はできなくもない……らしいし……。
――大切なのは、女王に匹敵する価値がある人物を差し出すことなんだし。
アイリーンはそう思うことにした。
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