第5話 ハーフタイムデー

 ぱっと目を開いてスマホのホーム画面をつけると、時刻はすでに16時を回ったところだった。ぼんやりとした重い頭が少しずつ動き始め、それまでの自分の行動が鮮明になってくる。

 空腹と眠気という、人間の持つ三大欲求のうち2つと格闘しながら3限の授業を何とか乗り切り、逃げるように学生室へと戻った。午前中に行った測定結果を確認しようとパソコンを立ち上げたものの、僕はついに力尽きて睡魔に負けてしまったらしい。


 部屋をぐるりと見回すも、僕以外の面々は実験をしているのか、今は誰の姿もない。ふと僕のパソコンの脇で目が止まった。どういうわけか、白く平たい小皿の上に三角柱型の和菓子が鎮座し、その前には黒文字くろもじが添えられている。


 小学生の頃、僕は来る日も来る日も朝顔の観察を続けた。そして大学に入り、研究室に配属されてからは高砂先生の無理難題に振り回され……たのではなくご指導いただき、観察眼は磨かれているはずだ。この僕にかかれば、これくらいの和菓子、なんてことはない。


 くだんの和菓子の下側は、外郎ういろう羊羹ようかんのように見える。その白い台の上には、大粒の小豆がところ狭しと並んでいる。静かながら品のあるその佇まいに、極度の飢餓状態にある僕はごくりとつばを飲み込んだ。

 どうやらこれが、音に聞く水無月みなづきというやつらしい。水無月は京都の夏の風物詩として有名な和菓子だけれども、僕はまだ一度も食べたことがなかった。毎年この時期になると、和菓子屋の店先には箱一杯に直角二等辺三角形の水無月が並び、水無月を求める長蛇の列ができるらしい。以前から食べてみたいとは思っていたものの、人混みを嫌う繊細な僕は、水無月を巡って血で血を洗う、熾烈極まる戦いに身を投じようとは思えなかったのだ。

 そんな夏のアイドルがどうしてこんなところに。しばらく椅子に座ったまま宙を眺めていたが、全くらちが明かない。

 部屋のキッチンスペースへと移動すると、かぐわしい日本茶の香りが近づいてきた。取り換えられたばかりのゴミ箱には、濡れた緑茶のティーバッグと紙コップだけが入っている。シンクに渡された水切りかごには包丁が置かれていて、調理台の電気ケトルに手を当てるとまだぬくもりがある。軽く持ち上げるとお湯が残っていることがわかったが、念のため少しだけ水を足してからスイッチを押す。


 糖分の足りない頭を振り絞って考える。

 あの水無月は誰か別の人のものだろうか。いや、水無月はどう見ても僕の領地に置いてあった。僕の机回りはすっきりと片づけられているし、そもそも学生が少ない今現在、両隣の机は空いている状態だ。置き場所がなかったため仕方なく僕の領土に侵攻した、ということはあり得ない。机を間違えた、ということもないだろう。なぜならそこで持ち主が昼寝をしていたのだから。つまり、誰かが意図的に水無月を僕の机に置いたということになる。あの水無月は僕の分だ。つまり、に違いない。

 カチリと音がして、電気ケトルのスイッチが上に上がる。さいは投げられた。


 この水無月の美味いことといったら! 黒文字で一口大にカットした水無月を口に運ぶ手が止まらなかった。

 下層の外郎ういろうには程よい弾力があり、控えめで甘さはすべてを包み込むような優しさをも感じさせる。今にもこぼれんばかりにのった大粒の小豆は、素材本来の甘さを活かすべくふっくらと炊きあげられている。上品ですっきりとした味わいは涼やかで、水無月が氷のかけらに似せて作られた、といのも納得できる。

 ティーバッグが入ったままの状態で、紙コップの熱いお茶をすすっていると、この無機質な学生室が極楽浄土のように見えてくるから不思議なものだ。

 輪廻転生の行きつく先には水無月が待っているんだな、と思っていると、学生室の扉が開かれた。


「お、重松、水無月はどうだ。美味いか」


 ちょうど最後のひとかけらを飲み込んだところだった。水無月の儚さを名残惜しみながら、座ったままでくるりと椅子を回した。


「ええ、とても美味しかったです」


 万感の思いを込めて重々しく告げたところで、はたと気がついた。舞い上がっていた気持ちが徐々に下がっていく。


「ひょっとして、ですけど」

「うん?」

「この水無月って、高砂たかさご先生がくださったものですか」


 おそるおそる尋ねてみると、先生はあっさりとうなずいた。


「ああ、そうだ。お前ら学生を餌付けるためだ」


 潔く言い切ってしまうところ、僕は嫌いじゃない。

 先生は手に持っていたビニール袋をしゃわしゃわと振ってみせる。


「……ありがとうございます」


 勝手に期待して浮かれた自分があほらしくなってきた。


「どうした、元気がないぞ」


 口にするか一瞬迷ったけれども、今日の散々な一日を振り返ると投げやりな気持ちになってきた。


「今日が僕の誕生日だからですよ。心優しい研究室のメンバーが、僕の誕生日を祝おうとこっそり準備してくれたんだと思ったんです」

「……そうか」


 もう本日何回目かわからないため息をついたところで、先生が手に持っていたものに目が止まった。


「先生、それも水無月ですか」

「重松はもう食べただろう」

「僕はそこまでがめつくありません。で、それどうするんです」


 先生は不思議そうな顔をした。


「どうって、これも冷蔵庫に入れておくつもりだが。水無月は


 わけがわからない。先生が「イリジウムは10属だ、そんなことも知らんのか」とでもいうような顔で言うものだから、僕はゆっくりと顔色をうかがった。


「つまり、先生は水無月を3つだけ買って、それを冷蔵庫に入れておいたということですね」

「トレーに入ったままの状態で、な。さっきからそう言ってるだろう」


 一言も言ってない。一を聞いて十を知る教授の脳内では補完されている言葉も、僕ら凡人の耳には届かないからだ。

 教授が水無月を3つしか買わなかったのは、特定の学生をいびるためではない……と信じたい。おそらく、今日たまたま堀越さんが登校したからだ。ふらっと来てはまたしばらく来なくなる人なので、元々カウントされていなかったのだ。


「わざわざもう1回買いに出たんですか?」


 ビニール袋には、市内を南北に流れる鴨川を越えた先の、超人気和菓子店の名前が入っている。水無月が販売される今日、すさまじい長蛇の列で店の前を通れなくなるという噂のある、あの店だ。


「そういうことだ。感謝して食え。……おっと、重松はもう食ったんだったな」


 どうやら教授はこの状況を楽しむことに決めたようだ。誕生日を祝ってもらえない哀れな学生というおもちゃを手にし、ことごとく遊び倒すつもりらしい。厳しいアカデミアの世界で生き残るにはこういう逆境を楽しむくらいの図太さが必要なんだ、きっと。

 高砂先生ほどの図太さは僕にはないけれど、僕にだって多少の物事を考えるくらいの脳みそはついている。


「重松の様子から察するに、お前は水無月を冷蔵庫から出したわけじゃないんだな」

「ええ、そうです」


 水無月を僕の机に置いたのは誰か。そして、それはどうしてか。

 しばし考え、それらしい答えは得られたように思う。

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