第4話 トランジスタの日

 結局、僕は生協で昼ごはんを買い損なった。学生室で山村さんにペットボトルを奪われ、今度こそ昼飯を買いに行こうと思ったところで今日締切の課題の存在を思い出したからだ。テーマに沿った国際論文を読み、その内容をA4用紙1枚にまとめるというものだ。過去最速に迫るペースで読み進め、パソコンの画面上で課題提出ボタンを押したとき、僕はぐったりと疲れ切っていた。

 トイレから出たあと、痛むすきっ腹をさすりながら講義室の真ん中の方の机に突っ伏していると、耳元で凛とした声がした。


「隣、いい?」


 飛び上がるようにガバッと体を起こした僕を見て、市原さんはくつくつと笑った。


「そんなに驚くこと?」


 いかんいかん。自分で思っている以上に、先ほどの山村さんとの会話が尾を引いているらしい。ドキドキと激しく主張する胸を押さえながら、必死で平静を装う。


「もう座ってるじゃないか」

「形だけでも聞くのがマナーってものでしょ」


 市原さんは鎖骨の辺りまで伸びたつややかな髪を、鬱陶しそうに耳にかけた。大きな瞳にいたずらっぽい光をたたえているのもいつものことだ。


「実験はどう? 順調?」


 どぎまぎする胸を何とか鎮めようと、当たり障りのない話題を振った。僕らの共通の第一言語は研究だ。研究を通じて生まれるコミュニケーション。広がる会話の輪。ああ、なんて素晴らしいんだ!


「どうしたの? 今日、なんか変ね」


 嵐が吹き荒れている僕の胸の中を見透かした、なんてことはないだろうけれど、今の僕の心臓には負荷が大きすぎる。市原さんの上目づかいは、その、なんていうか、非常に攻撃力が高い。


「体調でも悪い? 顔も少し赤いみたい」


 市原さんは身を乗り出して、僕の額へと手を伸ばそうとする。僕はフィギュアスケーターになれるんじゃないかってくらい体をのけぞらせ、市原さんの攻撃を避けた。


「全然⁉ どこも悪くないし⁉ 普通だよ普通。世界中の普通を全部並べてフリーマーケットができるくらい普通!」


「あー普通普通」と言いながら、僕はへらへらと顔の前で手を振った。


「ほら、あれだよ。天気が良いから、嵐山に行きたい気分だよねってことだよ、竹がたくさん生えている小径こみちとか、今の時期だと山が青くてとてもきれいなんじゃないかな、そうそうボートも乗れるんだ、それにね百人一首の」


 汗をだらだらと流しながら口をぺらぺらと動かし続ける僕に対し、市原さんは筆で書いたように形の良い眉を寄せた。


「今日はくもりだけど」


 ぐうの音も出ない。でも僕の腹の虫は鳴くらしい。ぐう。

 講義室に入ってきたのは他の研究室の教授だ。こんなときに限って機材のセッティングに手間取っているようだった。もう本当にいたたまれないから、早く講義を始めてほしい。

 手伝いに行こうと腰を浮かせると、軽く引っ張られる感覚があった。僕のTシャツのすそを市原さんがつまんでいる。


「ひょっとして、今日ってあれの日だったりする?」

「うん、間違いなくあれの日だよ」


 これまでに裏切られること2回。市原さんの目を見て、今度こそはという期待の念を全力で送ったつもりだったけれど、どうやら届かなかったらしい。


「そういえば今日は課題の締め切りよね。……なに、まさか忘れていたの」


 大きなため息をついて前を向くと、ちょうど教授がスクリーンにスライドを映し出した。星座占いの通り、今日はどうやらうまくいかない日らしい。

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