第3話 アインシュタイン記念日

 実験がひと区切りついたところで時計を見ると、ちょうど正午になろうとしているところだった。ハミングをしながら学内の生協ショップへ行くと、ここにも見知った顔がある。


「やあ、山村さん」

「お疲れさまです」


 高砂たかさご研唯一のかわいい後輩は、ぺこんと頭を下げた。大きな白いマスクのせいで、小さな顔が4分の3くらい隠れてしまっている。

 本人に直接伝えたことはないけれど、山村さんのイメージはリスだ。小柄で華奢なことに加え、古式ゆかしき女学生たるおさげ髪、そして何よりも見ていて危なっかしいことこの上ない。実際、今も2Lの大きなペットボトルを2本抱えてよろめいている。「持つよ」

 山村さんの腕からひょいと抜き取ろうとすると、意外なことに強く抵抗された。


「ダメです」

「いや、持つって」


 山村さんはボトルの底をがんとして離さない。


「ダメです。私が買ったので私が持ちますから」

「別に奪って飲もうとしているわけじゃないんだけどな」

しばし膠着状態に陥っていたものの、最終的に山村さんが折れた。リスのようなふくれっ面で、山村さんは紅茶のペットボトルを渡してくれた。

「……1本だけ?」

「りんごジュースだけなら余裕です」


 山村さんはそういった瞬間、何もない平らなところでつまずきかけた。本当に大丈夫だろうか。

 研究室へ戻る道すがら、ふと思い出して口を開く。


「山村さん、ジュースは飲めるようになったんだ。良かったね」


 山村さんは一瞬微妙な表情を浮かべると、右手にペットボトルを持ち換えて左頬に手を当てた。


「あー、実はまだちょっと痛くて」

「口もちょっと開きにくそうだね」

「あ、わかっちゃいます?」

「いつもより声がこもっているからね」

「そうなんです。今日の昼ごはん用におかゆ買ってきました」


 山村さんは昨日まで親知らずを抜くために研究室を休んでいた。なんでも歯茎を切開してあごの骨を削る必要があったらしい。日帰りでは難しいとのことで、「1日入院することになりました」とどこか誇らしげだったことが記憶に新しい。

 骨を削るなんてこと、僕は死んでも御免だ。頼むから僕の親知らずはまっすぐすくすく映えてほしい。神様仏様、どうかお願いします。


 徳を積んで親知らずをまっすぐ生やそう、と俗にまみれた心で祈っていると、山村さんが何か言いたげな目で僕を見上げていることに気がついた。きらきらと澄んだ目や、ペットボトルを頑張って抱えている様子が本当にリスっぽい。


「どうしたの?」

「あのー、こんなこと聞いていいのかわかんないんですけど、いいですか?」

「内容によるね」


 しばらくもじもじしていた山村さんは、満面の笑顔を咲かせた。


「重松さんと市原さんって、付き合ってるんですか?」


 予告なく斜め下から投下された爆弾に僕は咳きこんだ。何かを口に含んでいるときであれば、盛大に噴射していたところだろう。


「いやいやいやいや、そんな流れだった⁉ そんな話する雰囲気じゃなかったよね⁉ 百歩譲ってそうだったとしても断固違うからね⁉」

「重松さん、顔真っ赤ですよ」

「そりゃ真っ赤にもなるわ!」

「推しと推しのカップリングって最高ですね」

「いや、だから違うから! それに勝手にコンテンツ化しないでくれるかな⁉」

「今本人に許可取ったので公式になりました。これでオッケー」

「いや、許可制とかそういうことじゃなくて!」


 古式ゆかしき女学生と言ったけれど、あれは嘘だ。そう、山村さんは重度の妄想少女だ。

 喜色満面という言葉がこの上ないほど似合う顔で、山村さんはずいとにじり寄った。


「私が休んでたこの2日間、高砂先生も出張でしたよね」

「まあ、そうだね」

「堀越さんは来てましたか?」


 話が読めた。非常に残念なことに読めてしまった。僕はあさっての方向を向く。山村さんは僕の逃げ場をふさぐように壁際に近づいた。


「……来てた、かな?」

「来てなかったんですね」

「……うーん、そうだったかもね」

「つまり、丸二日間、重松さんは市原さんと二人っきりだったってことですよね!」

「うーん、そういうことに、なるのかな……」


 背中にツーっと冷たい汗が流れる。


「これはもう、既定路線で確定ですね」

「いやいや、市原さんに限ってそんなこと」


 山村さんはキッと顔を上げると、さらに僕を壁に追い込む。たぶん山村さんは気がついていないんだろうけど、僕の足を思いっきり踏んでいる。そして、地味に痛いんだけどな。


「私、知ってるんですよ」

「何を?」

「たまにしかない休日、市原さんとデートしてますよね?」

「デートっていうか、寺社仏閣巡ったり博物館行ったりとか、そんな感じだよ」

「重松さん、世間一般ではそういうのをデートって言うんですよ」


 一体誰から聞いたんだ。僕は確かに市原さんと遊びに行ったことはあるけれども、山村さんには、というか誰にも言ったことがなかったのに。

 山村さんによる追及はさらに続く。


「重松さん、終バス逃しちゃった市原さんをときどき家に泊めてますよね?」


 刑事ドラマもびっくりの真剣な取り調べだ。こんな迫力で迫られたら、やっていなくとも自白してしまいそうだ。まあ、事実なんだけれど。


「いや、それは、さすがに市原さんを夜道一人で歩かせるのは、ちょっと、みたいなもので」

「それで家に連れ込んだと」

「僕は電車で帰ればいいじゃん駅まで送ってあげるよって、いつも言ってるよ⁉ 市原さんが『疲れちゃった』とか言うから仕方なく」

「それで結局添い寝すると、そういうことですね」

「僕は床で寝てるけどね⁉」

「なんだ、同じベッドじゃないんですね」

「僕をなんだと思ってるの⁉」

「大丈夫です、市原さん彼氏いないんで。これは告られ待ちですね」


 山村さんは確信を持って重々しくうなずく。


「重松さん、宵山よいやまでサクッと告白しちゃいましょう」


 サクッと実験終わらしちゃいましょう、みたいな軽い口調なのに、山村さんの表情が本気ガチすぎる。

 宵山とは、京都の三大祭りの一つである祇園祭の前祭さきまつりのことだ。山鉾やまほこが巡業する前日・前々日に、京都の中心地である四条通付近が歩行者天国となり、屋台がたくさん立ち並ぶ。夜の街に幻想的な提灯が並び、その日は祭りの興奮と熱気に誰もが心を浮かれる、というものだ。正確に言うと後祭にも宵山は存在するのだけれど、こちらに屋台は出ない。


「市原さんは、宵山より御手洗祭みたらしまつりとか貴船きふねとかの方が好きだと思うけど」


 返答に困った僕が苦し紛れに放った一言がまずかった。捜査一課の刑事の顔から一転、山村さんは深夜アニメを鑑賞するオタクの顔に戻る。


「推せる……! 一般論ではなく相手にとって最高の場所を用意しようとする気遣いの権化! これを推さずして何を推そうと言おうか……!」

「いや、ちょっと、山村さん」

「いいですよ、御手洗祭のついでに古本市デートの予約も入れてしまうってのも乙ですし、貴船の縁結びパワーを拝借してガン押しするのもありです。神様はきっと祝福してくれるはずです、相手が誰であれ人を愛する気持ちは尊いですから」


 暴走し始めた山村さんの肩をつかみ、僕の体から引き離す。山村さんは全く気がついていないだろうけれど、さっきから通行人の視線が痛くて仕方がないんだ。


「だから、僕と市原さんは山村さんが妄想してるような生ぬるい関係じゃないんだよ」


 お花畑から研究棟に引き戻された山村さんは非常に不服そうだ。


「じゃあ、どういう関係なんですか」

「倒すべき宿敵、かな」

「はい?」

「ほら、僕ら同期だしさ。何かとライバル心もあるっていうか」


 参考文献を要約して山村さんに説明したとき以上に、山村さんは納得していなさそうだ。山村さんは口を尖らせたまま僕の後を追ってきたが、「そういえば」とふと立ち止まった。


「重松さん、今日はアインシュタイン記念日らしいですよ。相対性理論に関する論文が最初に出されたとか」

「へえ、そうなんだ。知らなかった」


 僕は努めてにこやかに言ったつもりだけど、果たして実際はどうだっただろう。

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