第2話 国際小惑星デー

 大学の研究室というものは、それこそちょっとした企業みたいな規模のところもあれば、金も機材も試薬も人もなく閑古鳥が鳴いているようなところもある。高砂先生が教授に昇格し、自分の研究室を開いたのがつい数年前ということもあって、僕が所属するこの研究室はまだ発展途上だ。先生のおかげで金はそれなりにあるものの、いかんせん人が少ない。

 メンバーは学部4回生B4山村やまむらさん、同じ修士1回生M1市原いちはらさん、僕、そして修士2回生M2堀越ほりこしさん……はあまり来ない。実働メンバー3人のうち、山村さんと市原さんはこの春にやってきたばかりなので、教授が面倒ごとを押しつける相手が僕になるのも理解はできる。ちなみに納得はしていない。


 1限の授業を終えてお手洗いから戻ってくると、僕は鍵を開けて学生室に入った。試薬管理や情報セキュリティが厳しくなったとかで、どの部屋に入るにも鍵が必要だ。鍵を家に忘れた日には、研究室の他のメンバーに開けてもらわなければいけない。世知辛い世の中だ。

 入って左側には僕らの机や実験に必要な器具などが並んでいる。右側には流しと食器棚、小さめの冷蔵庫。さすがにコンロはないものの、調理台には電気ケトルも置いてあり、自由に使ってよいことになっている。

 学生室には珍しい先客がいた。僕も背は高い方で、背の順は後ろから数えた方が早いけれども、堀越さんは僕が見上げなければならないほど高い。はっきりと聞いたことはないけれど、185cmはゆうにありそうだ。そして以前見たときよりも、また一回りガタイが良くなったようだ。写真家を目指しているという彼は、研究そっちのけで著名な写真家とともに津々浦々世界各地を飛び回っている。そして時おり、こうやって研究室にふらっと現れてはまた消える。

 自由の校風で知られるこの大学には、本当に様々な人がいる。控えめに言って、僕も世間一般からすると相当変わっている方だと思うけれど、この大学の中では平々凡々な部類に入る。

 研究設備はそれなりに揃っているため、研究に没頭しようと思えばいくらでもできる。学業以外の部活やサークル活動も盛んだし、作家デビューする人やプロボクサーを目指す人、起業する人なんかもいる。研究一筋で生きてきた教授陣の中には研究活動以外認めない人もいるけれども、高砂たかさご先生は柔軟なタイプだ。いや、ただ単に学生に興味がないだけかもしれない。でも、その分のお鉢が回ってくるのはこの僕だということを忘れないでもらいたい。

 堀越さんは狭い学生室には似つかわしくない大きな体で、開け放した冷蔵庫の前で立っている。


「お久しぶりです、堀越さん」

「おー、久しぶり」

「生きて帰ってこられたようで何よりです。で、何してるんですか」

「いやあ、涼しいなと思って」


 子供ガキか。浅黒く焼けた顔で白い歯を見せてハハハと笑う姿は、少年のように無邪気だ。

 僕は知っている。高身長、高学歴、高収入……になるかは怪しいとしても、鍛え上げられた筋肉とそれなりに精悍な顔立ち、裏表のない性格、写真への情熱とひたむきさ。これだけのハイスペックを並べれば、そりゃあ当然モテる。鬼のようにモテる。同じ研究室のよしみで連絡先を教えてくれと、他の研究室の人からせがまれたことも一度や二度じゃない。


「そういえば、俺のプロテインドリンクを知らないか?」

「一体いつの話をしているんですか。とうの昔に捨てましたよ」


 そんな風に子犬みたいにうなだれるくらいなら、最初から冷蔵庫に放置しないでほしい。まるで僕が悪いみたいじゃないか。

 自称美化委員の僕は、毎日冷蔵庫を確認しては2日以上放置された私物を捨てることにしている。教授の友人だか企業の人だか、誰からかわからない差し入れの飲物やお菓子を入れていると、冷蔵庫はすぐにいっぱいになってしまうからだ。僕の美化活動は研究室のメンバーに了承を得たうえで行っていることだし、文句を言われる筋合いはない。罪悪感は……ないでもない。

 僕は無言で冷蔵庫を閉めた。扉堀越さんに当たったような気がしないでもないが、あれだけ頑丈なのだから問題ないだろう。

 ふと流しに目を向けると、特大マグカップと共用のガラスピッチャーが1つ。犯人なんて考えるまでもない。僕はスポンジに洗剤をつけて手を動かし始める。


「堀越さん、何度言ったらわかるんですか。使った食器は放置しないでくださいよ」

「あー、悪い悪い」

「しかもこれ堀越さんの私物ですし。せめて洗って流しのかごに入れといてください」

「あー、今洗うな」

「もう洗ってます」

「いつもありがとうな」


 泡だらけの手のまま首を横に回すと、堀越さんの口元がゆるい弧を描いているのが見えた。

 堀越さんに連絡を取ろうと躍起になっている女子たちの目には、日常生活においてちょっと抜けているところも母性本能をくすぐるとかで素敵に映るらしい。ちなみに、僕の濁った目には育ちすぎた小学生に見える。

 食器棚の引き出しから取り出した布巾を使い、ガラスピッチャーの外側を拭く。堀越さんのマグカップを食器棚に戻すと、蛇口やシンクの中を雑巾でサッと拭った。何もないシンクやすっきりと片づいた部屋は気持ちが良いので好きだ。気がつくと片づけずにはいられないのは、ある種さがのようなものだと言っていい。

 食器棚の引き出しを開いて安物の茶葉を1袋取り出し、洗い立てほやほやのピッチャーに放り込む。冷蔵庫を開け、常備されている飲料水のペットボトルを取りだした。


「冷蔵庫の冷たいお茶も作ってくれていたのか」


 目を丸くする堀越さんを見ていると、またため息をつきたくなってくる。ため息をつくと幸せが逃げるらしい。僕の幸せは逃げ続けたあげく、今頃ブラジルくらいまで行ってそうだ。

 これ以上幸せを逃さないために、僕はチクチクと堀越さんを攻撃した。


「知ってました? 堀越さんが来た日はお茶の減りがやたら速いんですよ。僕は冷たいお茶をあまり飲まないのに」


 ちなみに僕が冷たい飲み物をあまり好まないのは、お腹が弱いから、というのが1つ。もう1つの理由は、甘いものには温かい飲料を合わせるべき、という強い信念からだ。先週高砂先生がアイスクリームを差し入れてくれたときも、他の面々に笑われながら熱いほうじ茶をすすっていた。もちろん、僕の流儀を他人に押しつけようとは微塵も思ってはいない。


「そりゃあ俺は代謝がいいからな」

「燃費の悪いヘリってところですかね」


 頭の上にはてなマークを3つくらい浮かべたように首を捻る堀越さんを見て、今度こそ僕はため息をつく。

 ミネラルウォーターを目分量でドバドバと注ぐと、全体が少しずつ若草色に染まっていく。大変遺憾なことに京都の水道水はとても不味いことで有名なので、水道水で水出し茶を作るのは僕のポリシーに反するのだ。


「堀越さん、夏だけじゃなく冬場でも冷たいお茶ばっかり飲みますもんね」


 猫舌を極めた堀越さんに氷のように冷たい言葉をお見舞いしたつもりだったが、僕の刃は輝く太陽少年の前にすっかり溶け切ってしまったらしい。


「日本のお茶は美味いからな」


 もう、どうにでもなれ。

 ちょうど空になったペットボトルを今にもあふれかえりそうなゴミ箱に放ると、その脇にあった段ボールの中から飲料水を1本取り出す。

 賭けてもいい。お茶が出きってしまうより前に、堀越さんは飲むだろう。

 冷蔵庫のポケットにミネラルウォーターを突っ込み、ゴミ箱の口をしばって学生室を出ようとしたところ、堀越さんに「そういえば」と呼び止められる。


「今日は何の日か知ってるか?」


 僕の胸は高鳴る。まさか、これはひょっとすると流れなのか?

 僕は淡い期待を悟られないよう、細心の注意を払いながら不思議そうな表情を浮かべた。


「いえ、知りません」

「今日はな、なんと」

「はい」

「国際小惑星デーらしい」

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