第4話 始まる直前、4ヶ月後の電話番

 飛鳥井都はやけに反発するベッドで目を覚ました。机の上に置いたスマホが、うんともすんとも言わずにいるところを見るに、まだ午前10時前のようだ。


 音の鳴らないスマホを、手に取らずにただ見つめる。


 分かっている。そこに着信は来ない。その可能性は全て潰しておいた。


 それでも見てしまうのは、やはり癖なのだろう。現代の病魔びょうまと云ってもいい、その高性能な板が、都は心底嫌いだった。


 この実家に戻ってきた時、父も母も何があったのか聞いてくることは無かった。明らかに帰省の時期はいっしていて、大学の授業もあるというのに、彼らは静かに受け入れてくれた。最初の頃はそれが嬉しく思う反面、罪悪感も共に湧いてくる。大学の費用は、紛れもなく両親が支払っているのだ。


 ただ、二度、三度、授業を休むくらいは何てことないのかもしれない。思えば、松下来海はよく休んでいた。


「…………はぁ」

「後悔してるなら戻ったら?」


 都のため息に、そんな反応をしたのは弟の飛鳥井一國かずくにだ。彼は扉にもたれかかって、陰鬱いんうつな姉をめんどくさそうに眺めている。


「……なに?」

「昼飯、できたから呼びに来た。……どうせ起きないならスヌーズ切っといてよ、うるさいから」


 そう言われて部屋の時計を確認すると、時刻は12時半だ。この一週間分の寝不足が一気に現れたようで、12時間も眠っていたらしい。どうりで身体がみょうにだるい。


「はぁ、わかった、ゴメン。すぐいく」


 本日二度目のため息と共にベッドから起き上がった。全身にまとうだるさを拭うために、カーテンを開けて伸びをする。するとついあえいでいるような声が漏れてしまい、それが聞こえていないか一國の方を見た。弟は依然、扉にもたれてめんどうくさそうにしている。なんでまだいるのだろう? 


「………………なに?」

「友達と喧嘩したからって、うちに戻ってくんのやめてよ。家が狭い」


 家族の中でも、一國だけは歓迎ムードでは無かった。最初のうちは心配してくれていたのだが、わずか2日で態度を一変させた。何があったのかには、心当たりがある。


「彼女連れ込めないから?」

「っ、そうだよ!」


 一國は頬を赤らめて叫ぶ。正直、弟のあれこれはどうでもいいのだが、どんな子と付き合っているのかには興味があるので、是非連れてきて欲しい。今は全ての恋人に呪詛を吐きたい気分だが、身内は別だ。


 ところで、家族には来海のことは友達だと嘘をついている。部屋がダブルブッキングで解約になったから、友達の家に居候させてもらっている、と。まあ、ダブルブッキング自体は本当に起きていたので、代わりの家が必要だったのは確かだ。ただ、頼む相手に松下来海を選び、決意を固めるのに一ヶ月もかかったのだけれど。


 いや、あの頃はまだ友達だったので、嘘ではないのか? 今の来海との関係は何と呼称すべきだろうか。


 友達から始まった恋愛は、恋人でなくなれば友達なのか。それとも、それすらゼロに戻るのか。友達で始まった同棲なら、友達の今は、また──いや、ないな。自分から別れを切り出しといて、あんなに辛く当たっておいて、あまりにも自分勝手だ。そしてあまりにも性を都合よく使い過ぎている。だって、もし来海が男友達なら、きっと親の許可は取れなかっただろうから。


「……カズはさ、彼女と喧嘩したことある? 今の、じゃなくてもさ」


 一國は一瞬、顔を歪ませた。なんでそんなことを言わなきゃいけないんだ、とでも言いたげに。しかし、都の表情に真剣さを汲み取ると、きちんと答えてくれた。


「まあ、前の彼女とならあるけど」

「どんな理由?」

「理由もかよ……まあ、あれだよ、ライン返さなかったから。『既読つけたんなら、なんか返せ! 冷徹男れいてつおとこ!』ってさ。既読で見たこと伝わるからよくない? って言い返して、それで」


 そして最後に、今はスタンプくらい送るけど、と付け加えた。


 なるほど、確かに何も返事がないのは寂しいし、彼女が怒るのも無理はない。けれど、だからって、一國が冷徹なわけではない。彼が心優しい人間であることは、姉の自分が一番知っている。こうしてめんどうくさい姉の、めんどうくさい質問に答えてくれている辺りが正にそうだ。ただ、返事は別に必要ないという、価値観を持っていただけで。


「じゃあ、その価値観の違いで分かれたの?」

「いや、別れたのは……まあ、向こうに好きな人が出来たみたいで」

「……え?」

「ただ、まあ、結構なし崩し的に付き合ってたから、終わり方はそんなもんかなって。全然後悔はないよ。じゃないと今の彼女とは会えなかったわけだし」


 そう言った一國の表情は晴れ晴れとしている。本当に一縷いちるの後悔も無いらしい。そんな瞳で、背の低い都を見下ろして言う。


「だから、価値観の違いは関係ないんじゃない? 違って当たり前なんだから。そもそも、俺は自分と似たヤツとなんて付き合いたくないし」


 それが答えだった。勿論、都と来海についての。


 来海の変化に気づいたのは、彼女が恥ずかしげもなく愛を語った数日前。きっかけは、来海から家事についての当番制を切り出されたことだ。


『なんとなくだよ。なんとなく』


 なんて言っていたのを真に受けて、都はそれを了承した。数日か、続いても2週間かそこらだろうと思っていたのだ。来海がそこまで根性のある人間には思えなかったし、そんな来海が愛おしかった。


 来海のどこにれたのか、と問われれば、それは支えがいだった。チキンラーメン一つも開けられない彼女が、繊細なガラス細工のように見えたのだ。そんな彼女に鋭いハサミなんて貸せないと思うほどに。


 けれど恋人になってからの来海は変わってしまった。きっと、恋人なら平等にあるべきだという価値観を持っていたのだ。都がしっかりしていた分より一層、わがままで、無頓着で、無責任な自分をりっしようとした。


 その度に、都の心はめ付けられた。あれをして、これをして、と言っていたのはその場の話で、永久にというわけじゃない。自分の小言が減る度、不安がつのっていった。いつか、自分は必要なくなるのではないかと。


 そんなデフレスパイラルは、やがて都の暴走で幕を閉じる。


 改めて、想う。悪いのは自分だ。来海の価値観を認められなかった。


「…………そっか」


 都がそう言うと、一國は不思議そうに頭を傾げた。そんな弟にして恋愛の先輩に、もう一つご質問をさせていただく。


「ところで、どうやって仲直りしたの?」

「してないよ」

「してない?」

「そう、で。一回、言い合ったあと、なんとなく、そのまま。たまに返すようにしたら、言ってこなくなったかな」

「そう……なあなあで…………そんなのでいいんだ」

「いいんじゃない? あっ、でも同居してる友達とはどうなんだろ。ちゃんと話あった方がいいのかな」


 どうやら一國はこの質問を、来海と繋げて考えていたらしい。恐ろしいニアミスだ。あってはいるが、間違っている。


 その時、階下から叫び声が聞こえてきた。ご飯よー! と、母親の声だ。


「うわっ、俺もう行くから、早く来てよ」

「わかった」


 部屋を出ていく一國の背を眺めつつ、頭の中でなあなあでと反芻はんすうする。なあなあで。


 けれど、なあなあにするには一手足りない。自分一人が曖昧にしても、不幸の延長だ。それこそ自分勝手なのかもしれないけれど、証明が欲しい。来海も曖昧さを愛せるのなら、きっと自分も愛してみせる。


 例えば、チキンラーメンくらいは一人で開けるとか。最近は来海もめっきり食べなくなってしまったのだけれど。


 するともう一度、母親の声が轟いた。


「はーい! 今行く!」


 適当に返事をして部屋を出る。階段を下りて、リビングに向かう。扉を開けて直ぐ隣に固定電話があるのが見えた。


 それは4ヶ月前に仕掛けたサプライズだ。恋人になってから、それをいつ両親に言おうかと考えたとき、それを運命に任せようと思ったのが始まりだ。


 流し台の下に置いてあったチキンラーメンを一袋拝借はいしゃくし、まずは上側を引っ張って剥がして開ける。そしてその内側にマジックで電話番号を書いた。実家の電話番号を。そして接着剤を使ってもう一度閉じた。まさかあの来海が、全く食べなくなるとは思わずに。


「うわぁ!」


 と、突然、一國が情けない声を上げた。彼が凝視する先には、例の黒光りする虫がいる。


「ちょ、母さーん! なんか、スプレー!」


 そんなので伝わるはずもないだろう、と思いながら、都は偶然リビングに放っておいた自分のカバンに手を伸ばした。邪魔なハサミを除けて、中からキンチョールを取り出す。


「これ、使って。あっ、でも後で返して。もしかしたら…………だから」

「え? あー、うん」


 そして母親も加わり、一層賑やかになったリビングで、都は耳をませる。


 その時、小うるさいリビングに新たな音色が混じるのを、確かに耳にした。

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チキンラーメンを開けるのがへたくそなので代わりに開けて下さい 広瀬 広美 @IGan-13141

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