第3話 終わりの後、1週間後の気づき

 一つ目、二つ目、そして三つ目のチキンラーメンの欠片を拾うと、来海は罪悪感を覚えつつ、それらをテッシュに包んでゴミ箱に捨てた。


 結局、チキンラーメンは素手で開けることにした。とうのも、そもそもこの家にハサミがない事を思い出したのだ。そんなよく使う小物に限って都のモノを使っていて、大半は彼女と共にここを去った。


 素手で開けた結果は、惜敗せきはいといったところか。なぜか上側を引っ張って剥がそうとしても思うように開かず、仕方なく側面を縦に千切るように開けた。あの日の都のようにはいかないな、とノスタルジーに浸りながら、菜箸で鍋の中のチキンラーメンをつつく。それはどんどんと形を崩して、わずか一分で出来上がった。さすがチキンラーメン、出来るのが早い。


 どんぶりも普通の箸も、流し台で食べかすの混ざった水を被っている。半年以上も都と交代で行っていた家事のルーティンは、たった一日でボロボロに崩壊した。


 まあ、菜箸と手鍋だからといって、味が変わることは無い。適当に畳んだタオルを下敷きにしつつ、テーブルにラーメンを置いた。


『お皿に移さないの?』


 同棲が始まった初日を思い出す。都が指を差しているのは、テーブルに置かれたフライパン──中身は青椒肉絲チンジャオロースだ。


『えー、洗い物増えるじゃん?』


 来海はそう返した。それまで、都は合理的な人間だと思っていたので、この理由なら納得して引き下がってくれると思ったのだ。


 けれど都はたいそう不満げに、ふくれっ面で言った。


『洗い物は私がやるから別にいいでしょ? それよりも、こっちのお皿の方が写真映えするの。こっちにしましょ』

『世にはお洒落なフライパンもあるよ』

『そのフライパンはお洒落じゃないの、特に色』


 すると都は、こちらの返答を待たずに青椒肉絲をお皿に移した。幾何学きかがく的な模様の描かれた陶器の大皿だ。確かに、褪せて所々茶色く変色したピンクのフライパンと比べると、随分と美味しそうに見えた。


『ね?』


 身長の低い都は上目遣いで薄く微笑む。未だにその細部を鮮明に覚えている。


『……じゃあ、今日は都が洗ってよ』

『勿論。というか、ほとんどの家事をやるつもり。私は居候いそうろうの立場だしね』


 実は都との関係が恋人になったのは、同棲どうせいが始まってしばらくしてからのことだ。


 大学が始まるほんの少し前、つまりこのアパートに入居して間もない頃、都から『しばらく住まわして欲しい』という連絡があった。なんでも、不動産会社の方で手違いがあり、入居前日になってようやくダブルブッキングが判明したらしい。その時には、既に友人と呼べるくらいにはなっていたので、来海は二つ返事で受け入れた。同性だからと、油断していたのもあるのかもしれない。家事については、最初の頃は都に任せっきりだったので、どちらかというと来海の方が居候しているようだった。その内罪悪感に負けて当番制を申し出たのだが、多分、色々と意識し出した頃のことだ。


 そして今になって思うのは、そんなことが起こりえるのか、ということだ。1ヶ月、2ヶ月前ならまだしも、前日にようやく不動産会社が気づいた? その間、ロクなやり取りや確認をしなかったのだろうか? 答えは知れない。ただ来海が都に愛を語った時、都は『高校からの想いがやっと実った』と言った。そこから想像できる物語を追うのは、流石に今じゃないだろう。そんなことを独りですべきじゃない。


 それはそれとして、あの後青椒肉絲の写真はばっちり撮った。青椒肉絲だけのものを一枚と、二人も一緒に写ったものを一枚。その写真はまだスマホの中にあったはずだ。


「……………………ほんとにあったっけ」


 まだチキンラーメンに手を付けていないのに、来海はスマホを取り出した。長いスクロールを終えて、ようやく青椒肉絲を見つけ出す。そして一瞬現れた安心の感情を、どうにか撥ね退けた。


「ほんと、よく映えてるなぁ…………おいしそう」


 飯テロ、なんて言葉があるが、この場合はなんと表現すべきだろうか。飯自殺? 飯自爆テロ? まあ、なんでもいいか。大事なのはこの青椒肉絲に食欲を刺激され、それを満たせるものが目の前にあると云うことだ。


 来海は改めてチキンラーメンに向き直る。実家から持ってきた底の焦げた手鍋、茶色ばかりの麵と汁。そしてそれ以上何かを思うよりも先に、菜箸を動かした。口の中で麺と油が滑る。おいしい、おいしい、おいしい、三回頭の中で唱えて、ようやく『美味しい』と本心が追いついた。


 見た目が変わっても中身が変わるわけでは無いと、来海は改めて思う。


 チキンラーメンの好きなところは、美味しさが一定なところだ。誰が作っても、何度作っても変わらない。例えば先ほどの青椒肉絲なんか、後に都が作ったモノの方がずっと美味しかったが、写真の上ではどちらも映えている。


 来海はまた写真フォルダーをスクロールして、都の作った方の青椒肉絲を画面に写す。ほら、同じだ。絶対に都の方が美味しかったのに、まったく、完璧に、同じじゃないか! 


 けれど確認の為に何度も写真を行き来していると、その内、違いに気が付いた。違いは青椒肉絲のことではない。違うのは二人の写っている方の写真──そのだ。


「こんな、こんな笑ってたっけ、都…………」


 些細ささいな違い、けれど確かに違う。都が作った時の方の写真では、彼女の目の細め方や、口角の上がり方が、完全に演技している時のそれだった。


 それは都の癖だ。彼女は本心から笑っている時の方が、笑みが薄い。逆に無理に作っていると大げさになるのだ。来海が作り笑いに気づいたのは、本当につい最近のことだ。


 来海は慌てて写真の日付を確認した。


 10月15日。つまり、都が『高校からの想いがやっと実った』と言った1週間後──二人が恋人同士になって、たった1週間後だ。

そこから分かることは何か。


 数学のテストの最終問題を解いている途中、最初の一問目に致命的な間違いを見つけたみたいに、心臓が煩さを増していく。


 もはやチキンラーメンの伸びを気にする余裕は無くなっていた。来海は次々と写真を確認する。10月8日以前と、それ以降を。


 全て見終えるのに30分以上かけ、ようやく見えてきたものは、明らかに10月8日以降、作り笑いが格段に増えているということだ。そして、日が増すほどに作り笑いが露骨になり、いつからか二人の写る写真自体が消えた。


 来海は思う。人生には様々な場所で分岐点がある。そして重要な出来事の分岐点ほど、ささやかなものだ。小テストの点数は前日の勉強時間で決まるし、高校の成績は小テストの点数で決まるし、いい大学に入れるかは高校の成績で決まる。つまり、いい大学に入れるかは何気ないとある日の勉強時間で決まるのだ。そこでスマホを持つか、ペンを持つかが分岐点だ。


 じゃあ恋人がそのまま一生を添い遂げるか、途中で終わるかの分岐点は何処だろう。浮気が原因なら、浮気さえしなければ続いたのか。遠距離恋愛が理由なら、お互いに地元の適当な大学を選べばいいのか。それが価値観の違いならどうすればいい? 自分の考え方なんてものは環境と遺伝子で決まる。親世代の恋愛が分岐点なら、もう自分ではどうしようもないじゃないか。


 来海と都はまさしくそれだ。10月8日に、恋人としての二人が始まった時から、その先にはデッドエンドしかなかった。


 来海はスマホをぶん投げようとして、途中でやめて静かに伏せた。


 伸びたチキンラーメンは完全に冷めている。そばめしにするとか、もしくはおやきにするとかで、まだ食べられるだろうか。ネットで調べればもっと色々と出てくるだろう。勿論、それらを作るには流し台を片付けて、材料も買わなくてはならない。そんな気力が残っているものか。


 誰かが代わりに全部やってくれたらいいのに。


 誰か? そんな相手がもしいるのなら、それはきっと一人だけだ。来海は思わずスマホを持ち上げ、顔認証でロックを解くと、ハッとして手を震わせながら画面を閉じた。浅いため息と共に虚無感が訪れる。


 そもそも、都に連絡を取ることは出来ないのだ。電話は着信拒否され、各種SNSはブロックされているか、やっていないかだ。彼女に通じる窓口がそもそも無い以上、先ほどまでの考えは過ぎた妄想でしかない。


 それに、話ができたとして、一体何を話すのだろう。


 いっそ馬鹿正直に言ってみるのもいいかもしれない。チキンラーメンが伸びたから、何とかしてして欲しい、なんて。


「・・・・・・・・・・・・いや、でも…………いや、いや?」


 頭の中で何かが繋がる。

 

 もしかしたら、本当にそれでいいのかもしれない。その時、ふと台所に置きっぱなしにしていた空のチキンラーメンの袋が目に付いた。

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