第2話 始まる直前、5年前の教室

 例えば、高校生の頃のある日の昼休み。


 来海はいつも仕舞っている場所にハサミが無かったので、どうしたものかと困り果てていた。


 当時通っていた私立高校では、生徒用に電子レンジの使用が許可されており、来海はそれでラーメンを作っていた。洒落しゃれっ気が無い、などと思うにはまだ早い。時短の為に魔法瓶まほうびんにお湯を入れて持ち込んでいたのだから、最低値では無いはずだ。


 魔法瓶もある。お湯もある。チキンラーメンもある。電子レンジ用の容器もある。けれどハサミだけがいくら探しても見つからない。この客観的には無くてもいい存在が、けれど個人的には欠かせない存在が、なんとも思春期を刺激する。世界の中心が自分と思えたあの頃では、前髪の1センチが命取りになる。なぜか素手で開けると必ず失敗すると思い込み、ハサミの価値はオイルショックもびっくりのインフレーションを起こすのが来海の思春期だった。


 誰かから借りるしかない。しかし普段からよく喋る友人は、既に電子レンジ争奪戦のフロントラインにおもむいている。残っているクラスメイトは見事に関係値が薄く、となると距離で選ぶのが無難か。


「…………あの、飛鳥井さん。ハサミ持ってない?」


 それを聞いた隣の席の飛鳥井都が、箸で摘まんだ焦げ目の無い玉子焼きを口の前で止めた。それに併せて、彼女のポニーテールがふわりと揺れる。都は少しも表情を崩さずに、淡々と答えた。


「あるけど、どうしたの?」


 持ってない? とは、貸してくれ! の婉曲えんきょく表現であるのだが、どうにも気づいていないらしい。仕方なく、経緯から話すことにした。


「実はチキンラーメン開けるの苦手で……。それで、いつもハサミ使ってるんだけど、ちょっと、今日持ってくるの忘れちゃった。持ってるなら、貸して欲しいんだけど、いい?」

「……それじゃあ」


 と、都は箸を置いて、ぐいと腕をこちらに伸ばす。そのままチキンラーメンを掴むと、、事も無げに開けた。一欠片たりとも麺を落とさず、完璧に。


 多くの人が出来るはずのその所作に、けれど来海は驚いて声も出ない。


「とりあえず、受け取ってくれる?」

「っ、あっ、ごめん! ありがとう……」

「ハサミ、ロッカーに置いてあるから、こっちの方が早いと思ったのだけど、迷惑だった?」

「いや、全然全然! 大丈夫! うん、ホントに」

「ホントに?」

「ホントに!」


 そんな謎の確認をした都は、薄く微笑んでから玉子焼きを口に放り込んだ。次に白米を少しだけ取り、口に運ぶ。次にひと口ハンバーグ。次にミニトマト。と、そこまで食べ終えたところで、都が困ったように横目でこちらをちらりと見た。


 ようやく気付いた。来海はなぜか、彼女をじっと見つめてしまっていた。


「えっと、まだ何かあるの?」

「っ! いや、ない。なんでも」


 そして来海は慌てて立ち上がった。そのままチキンラーメンを作るための諸々もろもろを持って、足早に教室を後にする。電子レンジのある給湯室までの間に、脳内で勝手に反省会が開かれた。


 距離感を間違えていた。都にとって、来海はあまり仲良くないクラスメイトなのだから、用事が終わればそこから発展はない。そんなことは分かっていたはずなのに、というか、自分もそうなのに、一体どうして……?


 その答えを出すよりも先に、来海には気づくべきことがあった。実のところ、この校舎は少し古くなっており、廊下のタイルの一部がほんの少しだけ剥がれて、出っ張っているのだ。

 勿論もちろん、来海はそんなこと知っている。けれど頭の中で同時にあれこれ考えられるほど要領がいいのなら、チキンラーメンくらい難なく開けられてしかるべきだ。



 その日の5時間目。ぐぅと鳴ったお腹の音が、隣の飛鳥井都に聞こえていないかだけが気がかりだった。

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