チキンラーメンを開けるのがへたくそなので代わりに開けて下さい

広瀬 広美

第1話 終わりの後、1週間後の床

 床に寝転ぶ松下来海くるみの目の前で、例の黒い虫が足を止めた。朝日を背中で反射し、触覚を左右に揺らしている。どこからどう見てもヤツだ。


 そのまま通り過ぎてくれればいいのに。


 そう思いながら、30秒ほど見続けた。これを睨めっこと表現すべきだろうか、来海はそんなことに悩んでいる。どちらかというと、お互いに避けようとして、何度も同じ方向に避けてしまう、あの現象じゃないだろうか。


「違う、違うね、全然違う」


 そう吐き捨てながら立ち上がった。それでようやく、ヤツもカサカサと動き出した。久しぶりに見たヤツは思っていたよりもずっと素早い。


 さて、キンチョールはどこに置いていただろうか。探そうと動かした首が悲鳴を上げる。いや、首だけじゃなくて全身がそうだ。床にそのまま寝ていたからだろうか。とにかく全身が痛くて仕方がない。


 その隙にヤツは本棚の裏に隠れてしまった。なんてこった。


「あー……。ねぇー! みやっ──。あっ、いや、そうだ。そうだった。いないんだった……」


 ははっ、と乾いた笑いが自然と出る。


 いない。そうだ、いないのだ。飛鳥井あすかいみやこはもう、この部屋にはいない。彼女は1週間前に出て行ってしまった。理由は単純明快。わがままで、無頓着で、無責任な恋人に、ついに愛想を尽かしたのだ。


 どうして1週間も前に出ていったのに、その名前を今更呼んだのか、と問われれば、それは先ほどまで夢に見ていたからだ。夢の中の都は、高校卒業直後に染めた青いセミロングを揺らして来海を叱っていた。食器を下げて。漫画を順番通りに並べて。爪はちゃんと切って。それがあんまりにも飛鳥井都なので、つい勘違いしてしまった。都との同棲が始まったのは、彼女が髪を黒に戻した大学入学後からだというのに。


 そのうち、ぐぅとお腹が鳴った。以前までなら都に犯人をなすり付けていたが、残念ながら今は容疑者が一人しかいない。


 消えたヤツを追うか、それとも食欲を満たすか。都なら、というか大半の人はヤツを追うのだろうが、来海は後者を選んだ。どうせキンチョールは無いし、ヤツを叩き潰すだけのバイタリティも無い。


 かくして、よろよろとふらつきながらキッチンに向かう。冷蔵庫を開けると、1週間前より消費に特化した中身は、缶ビールとソース系の調味料しか無かった。


 けれど、問題はない。冷蔵庫の他にも食べ物を置く場所はある。来海は流し台の下の扉を開け、そこからチキンラーメンを一袋引っ張り出した。


 ちゃんと野菜も食べたら? なんて声が聞こえてきそうだ。言いたいことは目の前に現れてから言って欲しいものである。


 片手鍋に水を入れて火にかける。その隙にハサミを探した。チキンラーメンを開けるためだ。


 わざわざチキンラーメンを開けるのにハサミを使う必要があるのか? 開けにくい調味料も無いのに? もちろんイエスだ。何を隠そう、来海はチキンラーメンを開けるのがへたくそなのだ。


 中学生の頃、既にハサミを使えばいいと知ってはいたのだが、どうしても見つからなかった時、来海は床にきつね色の乾麺をぶちまけた。それはもう、ドンキの巨大クラッカーのように激しく! 盛大に!


 以来、来海の生活必需品にハサミが加わることとなった。まあ、財布もスマホもしょっちゅう失くすので、もちろんハサミについても──

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