第2話 江戸出立
空想時代小説
伊兵衛は、ひと月の間、どのように過ごすかを思案していた。仙台に直接向かえば7日ほどで到着する。20日で世間を知るというのもおかしな話だが、まずは庶民の生活を知らねばならぬということで、神田にやってきた。長屋のあるところを歩いて、洗濯をしているおなご衆の他愛のないおしゃべりを聞いたりしていた。中には、武士もいたが旅姿の武士はおらず、自分が浮いている存在であることもわかった。
裏通りに入ったところで、
「ケンカだ、ケンカだ」
という叫び声が聞こえ、伊兵衛もその声の方に走った。行くと人だかりができていて、町人どうしが脇差し程度の短い刀でにらみあっている。やくざ同士のいざこざのようだ。しかし、にらみ合っているだけで、なかなか斬りかからない。お互いに名前を言い合って、ののしりあっているだけだ。まわりの町人の中には、
「なんだ、あいつら。にらみあっているだけじゃねえか」
と、ささやきだしている者もいた。そのうちに、親分らしき男がやってきて、
「てめぇら、人前で何やってんだ。身内の争いをさらすもんじゃね。やっと(刀)をおさめて、番屋へ来い!」
親分らしき男は、岡っ引きの頭で、若い者はその下っ端らしかった。
「なんだ、終わっちまったよ。つまんねぇーな」
と、人々が離れようとした時、伊兵衛のふところに手が入り込んできた。伊兵衛はとっさに手刀でその手をたたいた。たたかれた男は、何も取らずに人混みにまぎれて逃げていった。
(油断もすきもない。これだから町衆と関わるなと綱元殿が言われたのだな)
しばらく歩くと、木剣で打ち合う音が聞こえてきた。町道場である。戦乱のない平和な世になってきて、町人でも剣術を習うようになってきた。小金をためた浪人が道場主になっていることが多い。伊兵衛は、格子窓からのぞき込んだ。へっぴり腰の面々が、相手をたたくわけではなく、木剣をねらってたたいている。だから木剣がぶちあたる音だけがひびいていたわけである。伊兵衛は、思わずクスッと笑ってしまった。その笑いを感じ取った門弟の一人が格子窓の向こうから
「貴様、笑ったな!」
「いやいや思わず」
「思わず笑ったのだな!」
「いや、失敬」
と、やりとりをしているうちに、他の門弟から囲まれ、道場の中に連れ込まれた。
「お主、我らの稽古を見て笑うとは、よほど腕に自信があるのだろう。一勝負せい!」
「そんな勝負などと・・・」
「問答無用! 木剣を持て!」
有無を言わせず、門弟の一人が木剣を伊兵衛に渡した。仕方なく伊兵衛は中段に構えた。相手は気合いに任せて、振りかぶって撃ってきた。しかし、間合いが遠すぎる。伊兵衛はさっと下がり、相手の打ちをかわし、背中をたたいた。強くたたいたつもりはないのだが、相手はすごく痛がった。ふだんたたき合う稽古をしていないからであろう。伊兵衛は綱元の元でたたき合う稽古をしてきた。綱元は歴戦の勇士であったから、まさに実戦の剣である。一人が負けると、後から後から続けてでてきた。まるでウンカのごとくである。しかし、皆、力まかせ、気合いまかせで構えも間合いも関係ない。伊兵衛にとっては剣をかわして、相手の腕や肩、背を打つだけで済んだ。ほとんどの門弟が伊兵衛にやられたところで、
「何事だ! このざまは!」
大柄の男が、稽古着姿で道場に入ってきた。
「道場破りでござる」
と倒れた門弟の一人が返答した。伊兵衛は違うという顔をしたが、
「拙者、道場師範代、片平慎吾。貴殿のお名前は?」
「拙者は仙台藩士、木村伊兵衛」
「仙台藩士とな。では勝負」
二人は間合いをとって、中段で構えた。伊兵衛は今までの町人剣道とは違うと感じた。相手が八相の構えに転じたので、伊兵衛は脇構えに構えた。すると、今度は上段にしたので、斜め中段に変えた。まるで、形の応酬である。武芸を知っているかどうかの確かめと伊兵衛は察した。すると大きく打ち込んできたので、すりあげて受け止め、つばぜり合いとなった。しばらくにらみあいが続いたところで、相手が小声で
「引き分けでいかが?」
と聞いてきた。突拍子もない問いかけだったので、返答をするか迷っていたら、相手が下がり、
「おそれいった。貴殿の実力、拙者と同等とみえる。けがをしなければ終わらないと思うので、ここで終わりとさせていただきたいが・・・」
伊兵衛は、呆気にとられ、返答に困った。狼狽しているうちに、別室に案内され、茶菓子が出された。
「ささっ、のどをうるおされよ。貴殿の腕前、なかなかのものでござる。本日は、道場主が不在ゆえ、拙者が対応させていただきまする。本来ならば、道場の看板を取られてもいた仕方ないところでござるが、今日はこれでご勘弁を」
と言って、紙包みに入った小判を差し出した。
「いやいや、拙者は道場破りではござらん。仙台に行く途中に、町を歩いていたら、木剣の打ち合う音が聞こえてきたので、格子窓からのぞいていただけです。それを門弟の方が勘違いされただけのこと」
「そうであったか。門弟に代わって、お詫び申しあげる。そこで、お願いでござるが今日のことは内密に。道場主に知れると私が叱られます」
と言いながら、紙包みをさらに押し出してきた。
「いやいや、道場でのことは他言するつもりはござらん。お気遣いご無用です」
「そんなことは言わずに、旅の路銀と思って受け取ってくだされ」
「路銀は藩から充分受け取ってござる。ご心配無用」
伊兵衛のその返答に、頭を下げた片平慎吾がにやりと笑ったのを、伊兵衛は気付かなかった。
「実は、拙者のおじは仙台藩士で成実公の家臣であります。仙台藩士と聞いて、一献かたむけたく、今から一杯いかがかな?」
「ご親戚が仙台藩士とあれば、むげに断るわけにはいきませんな。では一杯だけお付き合い申そう」
二人は、町へくり出した。片平慎吾が連れてきたのは、吉原であった。伊兵衛は吉原に来るのは初めてで、どんなところかもわからず、片平慎吾のすすめられるままに、座敷にあがり、芸妓相手に酒を飲み始めた。途中で何度も帰ろうという素振りを見せたのだが、片平慎吾の口車にのせられたり、芸妓にしなられたりで、とうとう酔いつぶれてしまった。その後のことは、まったく記憶にない。おなごが布団の中に入ってきたのは、夢なのか現実なのかわからなかった。翌朝、目を覚ますと頭ががんがんした。荷物が無事かどうか心配で、すぐに確かめたが、きれいに整えられ、大丈夫だった。だが、勘定をする段階で10両の請求がきた。二人分とのこと。片平慎吾にたかられたのである。道場まで行って、怒鳴り込もうかとも思ったが、酔っていて何を言ったか覚えておらず、「おごる」などと言ってしまっていたら、恥をかくことになる。綱元殿の
「酒は飲んでも、飲まれるな」
という教えを痛切に感じる伊兵衛であった。
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