9.ボクと彼女の


 急に呼びかけられて唖然あぜんとするボクに、夕奈さんはバツの悪そうな顔をしながら、小さく口を尖らせて言う。


「………待ってるんですけど」


 何のことを言っているのか分からず、返事もできないでいたボクに。


 彼女は少しだけ、ムッ、としながら、ゆっくりと歩み寄ってきた。


「どうして、言ってくれないの? あの時、私が……放っておいて、なんて言ったから……もしかして、怒ってる、の?」


 少しだけ寂しそうに、目を伏せて。けれどすぐさま、ふう、と軽く深呼吸して。


 決意を固めたように、きっ、と再びボクを見据みすえてきて。


 そうして彼女は、もうほとんど目の前まで歩み寄ってきた、けれど。


 これは、おかしい――どう考えたって、おかしい。


 ここまできて、ボクと夕奈さんの間に『モノサシ』が見えないのは、おかしい。だって、こんなにも。



 くらいの距離になって、『モノサシ』が繋がらないことなんて、今まで一度も無かったはずだから。



 まさか急に、『モノサシ』が見えなくなってしまったのだろうか。ついさっきまでの教室で、クラスメイト同士の『モノサシ』は見えていたのに?


 ボクにしか見えないことで、勝手に戸惑っているボクに、夕奈さんは当然待ってくれるはずもなく。


「あなたが言ってくれないなら……私から、言うわよ」


 すうー、と今度は大きく深呼吸してから、自身の胸元に右手を置いて。

 彼女は夕陽に照らされた頬を、更に薄っすらと赤らめながら。



「ねえ――〝一緒に帰らない?〟」



 初めて、彼女から――その言葉を、聞いた。


 ……完全な不意打ちに、呆気にとられるボクに、夕奈さんは唇を震わせながら、大きく息を吐き。


「はあ~~~……もうっ。緊張したわ。あなたはいつも、こんなことして、私を誘ってくれていたのね。今さら、そんなことに気付くなんて……何だか、ごめんなさい。その……イヤだって言われても、仕方ないけれど」


 また寂しそうな顔をする夕奈さんに、はっ、と我に返ったボクは、慌てて否定し――久しぶりに一緒に帰ることを、喜んで受け入れる。


〝うん、一緒に帰ろう〟と、ボクがそう言った瞬間。


 彼女は。


「! そうっ……ん、んんっ。じゃ、じゃあ、そうしましょ」


 今まで、ほんの数えるくらいしか見たことのない中で、一番の輝くような笑顔を見せてくれた。



 ……今でも、信じられないことだけど。


 どうやらボクは、彼女に嫌われている訳ではないらしい。


 自分の机で帰り支度を整える彼女の、珍しいほど上機嫌な様子からして、それは間違いないはずだ。


 だけど、どうして『モノサシ』が見えなくなってしまったのだろう。今だって互いが互いを意識しているはずなのに、相変わらず『モノサシ』は繋がらないままだ。


 もしかして、夕奈さんとの間の『モノサシ』だけ、見えなくなってしまったのだろうか。今までにそんな経験はなかったし、どうにも分からないことだらけで。


 あれこれと、ボクが考えていると――夕陽の差し込む教室で、彼女の澄んだ声が響いてくる。


「もうすぐ、夏休みね」


 見慣れた彼女の後姿、けれど少しだけこちらに向いて、横顔を見せてくれる。


「私、他に友達……とか。いないし。やること、ないのよね。ぼっちなのは、まあ私のせいなんだけど。だから、なんていうか、えっと……」


 夕奈さんの回りくどい誘いが、少しだけおかしくて、失笑してしまう。すると彼女は、ムッ、と膨れるという、以前と同じようなやり取り。

 それが何だか、むず痒く感じるくらいに、嬉しくて。


 そしてボクは言う――〝夏休み、一緒に遊ぼう〟と。


 すると彼女は、少しだけ動きを止めてから、分かりにくいほど小さく微笑んで。


「宿題も、でしょ。……しっかり計画しないとね。話しましょ……色んなこと、ね」


 言いながら、帰り支度を終えた夕奈さんが、足早に教室を出ようとして。


「それじゃ、一緒に、帰りましょ」


 そんな彼女の背を、追いかけた時―――――



 ボクは、ようやく気が付いた。



 ああ、は、消えてなんか、いなかったんだと。


 きっとは、今まで見えていなかっただけで、ずっと、そこにあった。


 ボクと、彼女の、二人の間に。


 見つけた。




 短くて、小さな小さな、は――――



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