5.ボクにできることは、何もない
実を言えば、『モノサシ』が見えるようになってからは、登校するのが
教室という狭く人の多い空間ではどうしたって、右を見ても左を見ても、『モノサシ』が視界に入ってしまうから。
他人との距離を文字通り測るのには便利でも、『モノサシ』の長さ次第で複雑な人間関係を連想し続けてしまうのは、さすがに疲れてしまう。
何本ものモノサシが目の前を横切ったり、急に後ろから伸びてきたりするのは、正直なところ心臓に悪いし。別々のモノサシが交差する光景には、混乱してしまうことだってある。
だから今日のような日曜日は、一人になって落ち着ける、本来なら喜ぶべき日……だった、けれど。
だからだろうか、一人で家にこもっているのも落ち着かなくなって、ボクは何となく外出した。
適当に本屋を巡り、喫茶店で涼んで、行き交う人をぼんやりと眺めて。
そうしていると、人と人とを繋ぐ大小さまざまな『モノサシ』が見えてくる。それはもう、長かったり、短かったり、急に長さが変わったり、さまざまだ。
あの友達同士は本当に仲が良いんだな、あのカップルは破局寸前なのかも……店頭声掛けのお兄さんは、色んな人に忙しく『モノサシ』を伸ばしていて大変そうだ、とか。
母親と赤ちゃんとの間の『モノサシ』が、目を
仲睦まじい友達同士が、帰り際に離れようとしているのに……名残惜しむように『モノサシ』がふわふわと漂い続けているのが、何だかむず痒くて。
……そんな風に、柄でもない人間観察のようなことを、していたせいだろうか。
喫茶店を出たその時、ボクは見つけてしまった。
夕奈さんと――彼女の少し前を歩く、女性の姿を。
見た目は二十代半ばくらいに見えるその女性のことを、ボクは夕奈さんから、以前に一度だけ聞いていた。
いつもの放課後の帰り道、公園で――といっても聞いたのは、本当にただの一度きりで、たったの一言だけ。
『私が、中学を卒業した頃……父が、再婚したの』
その時、ボクと夕奈さんとの『モノサシ』は、消えてしまっていた。つまり意識がボクに向いていない……それどころではないほど、彼女にとって深刻な事情があったのだろう。
そんな事情を知っていたから、夕奈さんが追うようについていく、その女性……義理のお母さんとの関係に、ボクは気づいてしまった。
何度も。
夕奈さんは、何度も、義母である女性に、『モノサシ』を伸ばそうとしていた。
「あの」とか、「えっと」とか、夕奈さんは短い単語の後に、明らかに気を
買い物帰りなのだろう、「荷物、重くないですか」とか、「疲れて、ないですか」とか、彼女らしく、不器用な言い方で。
……そう、不器用なのだ、夕奈さんは。
放課後、一緒に帰るのが当たり前になって、彼女のことは分かってきていた。
物言いで冷ややかな印象を与えがちな夕奈さんは、ただ言葉足らずなだけで、本当に心が冷え切っている訳じゃない。むしろ誰よりもデリケートだからこそ、多くの言葉を発することに、強い抵抗感を持っている。
そんなデリケートな彼女だからこそ、高校生になったばかりの多感な時期に、それだけの環境の変化があれば、戸惑ってしまうのは当然だ。
教室に一人でいた時の彼女の表情が、愁いを帯びていた気がしていたのも、あながち間違いでもなかったのかもしれない。
きっと家に居づらくて、それで放課後に一人で時間を潰していた時、一体どんな気持ちだったのだろう。
それでも夕奈さんは、不器用でも、懸命に、長い長い『モノサシ』を伸ばそうとしている。何度も、何度も……何度も、健気なほどに、繰り返し。
だけど、彼女の義母である、その女性は。
「え? ああ……大丈夫よ、別に。気にしないで」
ほとんど振り向きもせずに言って、夕奈さんの『モノサシ』を拒絶した。
夕奈さんから伸びた『モノサシ』を、一瞬で、消し去って。
――それが、夕奈さんと義母である女性との、関係の全てだった。
しゅん、と明らかに落ち込み、うなだれる夕奈さん。その様子は、見ていられないほど痛々しくて、放っておけなく思えて。
……だからといって。
ボクに、何が出来るだろう。今なんて、通りすがりなだけの、他人のボクに。
人と人との心の距離を測る『モノサシ』が見えるだけで、それを自在に長くしたり短くしたり出来る訳じゃない。
かと言って
そもそも夕奈さんの性格的に、ここで口を挟んでも、絶対に喜ばないだろう。むしろ嫌がられてしまうのは、目に見えていた。
だからボクが選ぶべき正解は――何も見なかったことにして、立ち去ること。
下手に首を突っ込んで、夕奈さんに嫌われて、挙句に彼女達の仲も好転しない……最悪なのは、それ。
そうだ、せっかく彼女と仲良くなれてきて、『モノサシ』も今や5㎝ほどに短くなったのに……わざわざ出来もしないことをして、『モノサシ』を長くするなんて、どう考えても馬鹿げている。
何も見なかったことにして帰ってしまえば、また明日から、夕奈さんと今まで通りに過ごせる。
何なら一緒に帰る時、少しずつフォローしたり、ケアしたり、その方が彼女のためかもしれない。
だからもう、何も見なかったことにして、このまま帰ってしまおう。
夕奈さんが、どこか苦しそうに『モノサシ』を伸ばして、そのたびに拒絶されていても。
ボクに出来ることは、何もない。
義母であるその人から、ほんの一瞬だけ伸びる、その『モノサシ』が。
長い長い『モノサシ』が、夕奈さんの胸を貫いているのが、見えていても。
何もない。
ボクに出来ることは、何も――
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