第2話 自首する女


 早朝の大学キャンパスというのは、どの季節でも落葉が振りまけれているような気がする。季節が空きであれば、銀杏並木のような落葉の吹雪が見えるのかも知れないが、冬などの木枯らしであっても、どこからか風に舞って落葉が散乱しているように見える。

 そんな早朝でも、いくつかの教室の電気はついている。理数系の学部は、実験や実習で泊まり込んで行うことも多い。夜が明けてくると、新鮮な空気を吸いに表に出てくる学生もチラホラいる。

 その日は土曜日だったので、徹夜明けで、そのまま解散というチームも多く、疲れた身体を表の水飲み場で伸ばして、眠気を覚まそうと懸命だった。

「実験も、だいぶ終盤に差し掛かってきたので、いよいよ本格的に結果を求めていかないとな」

 と同じチームの者同士が話をしている。

 実際にはいけないのだが、ほとんど誰もいないキャンバスなので、隅っこの方でタバコを吸っているグループがいる。何も食べていないので、本当は食事が食べたいのに、タバコを吸う。しょせん味などしないのに、口の寂しさを潤すだけで吸ってしまうタバコ。違反行為であるだけに、余計に我慢できないという心理に陥っているようだ。

 いつものように、非常階段の隅で数人が、ヤンキーのような座り方で円を描いてたむろしていると、そのうちの一人が、

「おや?」

 と何かに気が付いたのか、首を伸ばすようにして、少し向こうを見ていた。

 それに反応して後ろを振り返るやつ、彼の場所からは、もっとハッキリと見えて、そこに白い棒のようなものが横たわっているのが分かった。まだ薄暗いのでハッキリと何か分からなかったが、眼が慣れてくるとそこにある棒が二本であることが分かった。

 丁寧に並行して並んでいる。綺麗にと言わないのは、平行線ではなかったからだ。恐る恐る近づいてみると。次第にそれが何か分かってきた。

「ギャッ」

 と叫んだが、腰が抜けてしまったようだ。

 その様子を見て、隣の男が、

「おいおい、どうしたんだよ」

 と言って声を掛けたが、彼もそれに気づくと、

「あ、あれ、足じゃないか?」

 建物の影で半分見えていない部分は想像するしかないが、確かにその二本の棒は、人間の足のようだ。

「死んでるのか?」

 まだ、足を確認できないやつが声を掛けてきた。

 彼は見ていないので、気が楽なのだろう。とりあえず誰かが確認しなければいけないが、さあ、誰が確認するというのだ。

「俺がいく」

 と、五人その場にはいたのだが、五人いれば一人くらいは、声を上げるやつも出てくるだろう。

 だからと言って彼に度胸があるわけではない。

――いざとなったら、他の誰かを盾にして逃げればいい――

 と普段から思っているやつなので、とりあえず根性のあるところを見せておけば、後で腰を抜かしても、他の連中よりはマシだろうという程度の度胸だった。

 見返りと求める度胸というのは情けないもので、それでも、この場で自分から言い出すというのは、確かに度胸があると言えるだろう。誰かがしなければいけないのであれば、彼の行為は決して卑下されるものではない。

 彼は腰を半分沈めて、相手に気付かれないように近づいた。本当は生きていて気絶しているだけなら、こっちは死んでいると思って近づいてしまうと、彼が起き上がった時、まるで、

「幽霊にでも遭遇したみたいだ」

 ということで、腰を抜かして動けなくなるかも知れない。

 まさかとは思うが、本当の幽霊であれば、どうすればいいのか、彼は幽霊の存在を半信半疑だったが、この状況になると、やはりいるのではないかという方にかなり傾きかけていた。

「幽霊なんているものか」

 とまるで、気持ちは小学生の臨海学校でやった、肝試しのようだった。

 そんなことをかんがえながら、そお足に見えるところに近づくと、だんだんと、身体の部分が見えてきた。その人は俯せになった状態で、ズボンのお尻がこちらに見えていた。どうやら体格から見て、男性のようである。

 気持ち悪くはあったが、そのままにしておくわけにもいかず、自分から確認すると言った手前、後ろに下がるわけにもいかなかった。

「おい、大丈夫か?」

 近寄ってみると、どうも動く気配がしない。思わずただ事ではないと思い、大声で叫んだ。

「救急車を急いで呼んでくれ」

 と後ろを振り向かずに言った。

 後ろを振り向く勇気もなかったのだ。もしここで後ろを振り向いて、

「ここに寝ている男性がいきなり起き上がって、こちらを攻撃してきたらどうすればいいんだ」

 などと考えると、後ろを振り向く勇気もなかった。

 ただ、身体は後ろを振り向いていたので、顔だけが倒れている男を監視しているというおかしな体勢になっていた。

 ただ気絶しているだけならいいが、そうでなければ大変なことだ。彼は理数系であったが、医学に関してはまったくの素人だった。できるとすれば脈を図ることくらいだろうか?

 呼吸や脈は何とか動いている。ただ、見ていると虫の息のようだ。

「おい、しっかりしろ。もうすぐ救急車が来るからな」

 と言って、彼の頭にさっき自分の手を洗った時に拭いた手ぬぐいを頭の下に敷いて、頭を高くすることで少し楽にさせてやろうと思った。

 その時、彼の首に目が行った。普段なら気にならないだろうに、そこに目が行ったというのは、違和感を抱いたからだ。

 首筋に赤くなった筋が何本か見えた。その瞬間、

――首を絞められたんだ――

 と感じた。

 彼は言葉を離そうとしていたが、声にならないのはそういうわけがあったのだ。

 素手で首を絞めたのなら、ここまで首のまわり全体に着くわけはない。何かの紐状のもので絞められたのは一目瞭然だった。

 彼はそれを見ると今まで混乱で何も考えられなかったのに、冷静さを取り戻し、考えるに至った。

――紐状のものということは、突発的に首を絞めたわけではなく、最初から絞殺するつもりだったんだ――

 と感じた。

 ただ、とどめが刺せなかったのは、

――きっと我々が校舎から出てきて、見つかるのを恐れたからではないだろうか?

 と感じた。

 すると、賊はまだこの近くに潜んでいるのではないだろうか。ただ、とどめが刺せなかったとはいえ、見つかるのを恐れて途中でやめたのであれば、一刻も早くここを立ち去りたいと思ったことだろう。

 だが、考えてみればおかしな気もする。確かに朝の大学キャンパスはほとんど人はいない。しかし、自分たちのような理数系の学生が徹夜で実習や実験を行っていることくらい大学生であれば分かりそうなものだ。それなのに、ここを殺害現場として選ぶのは少し違うような気がする。

 しかも、彼は紐状のものという凶器も用意しているのだ。突発的な犯行だとは思えない。

「もし、被害者が大声を出したり暴れたりすれば、どうするつもりだったのだろう?」

 そう思うと、何となく釈然としないところがあった。

 そのうちにキャンパスの外を救急車のサイレンのけたたましい音が、早朝の静けさを突き抜けるように鳴り響いた。

 このあたりは大学のキャンバスがあるくらいなので、閑静な住宅街の一角にある。なかなか早朝からの救急車のサイレンの音というのも経験がないに違いない。

――そういえば、昨年も救急車の音が鳴ったことがあったな――

 というのを思い出した。

 あの時は、午前中の学生の多い時間だったので、学生たちはビックリしただろうが、近所の人は、救急車の音くらいで驚くこともなく、誰も家から飛び出してくるということはなかったようだ。これだけ学生が密集しているのだから、たまに誰かが熱中症や、貧血を起こしても不思議はない。さすがに救急車というと大げさだが、意識不明にでもなると、救急車は必須であろう。

 救急車が当直し、担架を持った二人の白衣にヘルメット着用の男性が、まるで電光石火の早業のごとく、患者を担架に乗せて、さらに救急車へと載せる。

「大丈夫ですか?」

 と声を掛けるも、返事がない。

 人工呼吸器が掛けられ、けたたましいサイレンとともに、救急車は走り去った。一応、発見者である学生が一人、同行して病院に向かったことは言うまでもない。

 その後分かったことであるが、彼女は多量の睡眠薬を飲んでいたらしく、意識が朦朧とし、そのまま気を失ったということだった。命には別条ないということだが、意識が戻るまでにはしばらく掛かるということだった。一応警察がやってきて事情聴取も行われたので、まず聴かれたのは、第一発見者の学生だった。

「私は理工学部の学生で、三年生です。名前は砂川道夫といいます。あの日は、実習が朝まであって、徹夜だったので、朝になって顔を洗いに教室の表に出たんですが、そこで発見しました。足だけが見えていたので、おかしいと思って僕が近づいたんです」

「そうですか? その時、少しでも動いていましたか?」

「いいえ、まったく動いていなかったので、最初は死んでいるのかと思いましたが、脈波あったので、救急車を呼んだんです。その時に見たんですが、首に何かを巻いた跡があったんですが……」

 というと、警察も察して、

「ええ、そうです。どうやら犯人がいて、絞殺しようと試みたようですね。ところであなたはその時、怪しい人物を見かけなかったですか?」

「いえ、見かけませんでした」

「実際に殺されたわけではないので、死亡推定時刻のようなものがありませんから、いつ首を絞められたのかは分からないんです。しかも、病院に到着して治療を受けたのは、発見からでも結構時間が経っていましたからね」

 と担当刑事は話してくれた。

「あの、睡眠薬も服用していたと聞きましたが……」

「ええ、そうなんですよ。彼は睡眠薬を飲まされたのか、それとも自分から飲んだのかも今のところ分かっていません」

「そうですか。私が気になったのは、どうしてあんなところに倒れていたのかということなんですよ」

「というと?」

「あそこは大学でもあまり人が入り込まないところでして、我々理数系の学生であれば分かるのですが、見覚えもなかったし、どこかに行こうとしていた途中ではないかと思ったんですよ」

「どこかへ行こうと思ったとは、どこにですか?」

「それは分かりません。もし、どこか目的地があるとすれば、それがどこなのか、ハッキリとは分かりませんが、ただ、首を絞めておきながら、殺害にまで至っていないということは、きっと直後だったんじゃないかって思うんです。僕たちが出てきたので、慌てて逃げたとも思えます。睡眠薬を飲んでいて意識が朦朧としていたとすれば、動かなかったのは当然ですし、そのことが気になったものですから」

 というと、

「なるほど、そのご意見は貴重なものだと思って我々も視野に入れて捜査します。ただ、これが誰かによる怨恨か何かであれば、その人だけが目的だと思いますが、もし、誰でもよかったとなると、危険ですので、皆さんにも注意をお願いしますね。我々警察としても、警備を強化するようにいたします」

「そうですね、お願いします。でも、睡眠薬が使われているとすれば、怨恨の関係が強い気もしますけどね」

 というと、

「それは、飲まされていた場合ですね。たまたまフラフラしている人を見て、ムラムラと殺意がという場合もありますからね」

 と警察は言っていたが、それも何となく出来すぎている気がした。

 ただ、死体を発見した素人としては、どうしても被害妄想になってしまうのも仕方のないことで、犯人はどこかにいるのだろうが、睡眠薬の服用迄すべてその犯人に押し付けてしまうのは危ない発想だと反省した砂川だった。

 砂川という学生は、以前からミステリーや探偵小説を読むのが好きで、よく本を読みながら自分でも推理したりした。そして彼の特徴は、一度読んだ本を何度も読み返すことにあった。

 さすがに駄作だと思った本は、一度読んだだけで本棚の展示物にしかなっていないが、気に入った作品は気に入った場所を暗記できるほど読み込んでいた。だから好きな作家の作品の特徴は掴んでいるつもりだし、トリックの穴や、一度読んだだけでは分からなかった面白さを再発見することもあったのだ。

 ミステリーと言っても、結構昔の探偵小説である。戦前戦後の陰懺な事件がいつ起きても無理のない時代そんな頃の小説が好きだった。読んでいてドロドロした人間関係であったり、殺害方法の陰湿さ、ホラーを意識させる作品は、一気に読破してしまうにふさわしい作品だった。

 そのほとんどを小学生の時に読み、さらに最近、大学に入ってから読み直している。理工学部という理数系の学部に所属していることもあり、気分転換の意味もあった。

 しかも一度読んだ話なので、気軽に読むことができる。思い出しながら読んでいると、小学生ながらに感じた恐怖がよみがえってくるのだ。

 大学生になってから初めて読むよりもある意味新鮮なのかも知れない。砂川の好きな作家のセリフの中に、

「トリックというのは、そのほとんどはすでに出尽くしていて、これからの探偵小説は、それらのバリエーションによるものだ」

 と言っていたが、彼の作品では同じようなシチュエーションを他の作品でも使用することが多かった。

 それでも、別にそれを悪く言う人はいない。元々自分の作品なのだから、盗作云々という話になるわけもなく、逆にファンにとってはそんなサプライズが嬉しかったりする。

 ミステリーを読み込んでいるからと言って、さすがに殺人未遂事件を目の前にして、驚愕を受けないわけはない。もちろん、身体や口から血が流れていたりすると恐怖を感じ、足が震えてしまったかも知れないが、それでも首に残ったやく殺痕は、リアルなものだった。生きていたのは幸いなことだが、しばらくは恐ろしくて人の首筋に目を向けることができないのではないかと思うほどであった。

 まず一番の問題は、彼が意識を取り戻さないといけないことだろう。第一発見者というだけで殺人事件でもないのだから、砂川の役目はここまでだった。

 警察では、一応やく殺未遂ということで、捜査が行われた。睡眠薬を服用し、意識が朦朧しているところで、自分で自分の首を絞めるなどできるはずがないというのが、一致した意見だった。

 どこかに縄を吊って、首が入るほどの輪っかを作ったのち、その輪っかに首を突っ込んで、蹴とばすか何かして足場を外すというのが、一連の首吊り自殺のやり方だ。何よりも凶器となった紐状のものが発見されていないことで、犯人がいるということは確定しているも同然だ。

「紐だけ誰か関係のない人が持って行ったのでは?」

 という意見もないではないが、では、何のためにそんなことをするのか分からないではないか。

 もし、被害者を知っている人がいて、彼を殺害する可能性が一番高い人がいて、その人がこの状況を見て紐だけ持って行ったということも言えるかも知れないが、それは非常に考えにくい。

 なぜなら、紐を持ち去る必要はないだろう。その紐が自分に関係のあるものであったり、同じものを持っているなどハッキリとしたものでもない限り、証拠品を勝手に持ち去るということは、それがバレたら、それこそ言い逃れはできないだろう。

「どうして持ち去った? それはお前が犯人だからだ」

 と言われてしまうと、反論できるわけもないはずだ。

「ビックリして、衝動的に持って行った」

 と言っても、そんなの言い訳にしか聞こえない。

 警察の意見を覆すだけの理由がなければ、逮捕状が請求されて、最重要容疑者として取り調べが行われることになるだろう。厳しい警察の追求を逃れることが果たしてできるかと思えば恐ろしい。

 首に巻かれている紐を見て、気が動転するくらいだったら、警察の追求を逃れることもできず、すぐに犯行を認めてしまうことになるだろう。本当に犯人でなければ、下手なことはしない方いいに決まっている。

――おれとも、その場に紐を持ち去った人間にとって、決定的に不利になる何かがあったのだろうか?

 そう思うこともできる。

 ただ、この今目の前に見えているだけの情報では、推理しようにもなかなか難しい。とりあえずは、被害者の人間関係と、彼を恨んでいるものがいないかが捜査の中心になるだろう。

 もちろん、それに平行して、服用していた睡眠薬の出所や、凶器となった紐の捜索。紐は犯人が持ち去ったというのが有力であるが、現場で何が発見されるか分からない、その捜索も行われた。

 捜索が行われているその翌日、一人の女性が管轄警察署に出頭してきた。その表情には血の気がなく、いかにも、

「何かやりました」

 と言っているような表情である。

「あの……」

 と入り口から出てきた制服警官に声を掛けた。

「はい?」

 彼女の様子を変だとは思ったが、訝しがるような表情もせず、警官は答えた。

「実は私。人を殺したんです」

 と言って、その場に座り込んで泣き崩れていた。

 最初に見た表情は、目にクマができていた。きっと寝ていないのだろうと思ったが、泣き崩れた様子を見て、実際にこれまで相当泣いてきたのだろうという気もしていた。警官は一瞬うろたえたが、

「とりあえずここでは何ですから、中にお入りください」

 と言って、刑事課に連れて行った。

 そこにいたのは、今回のやく殺未遂事件を捜査していた門倉刑事だった。彼は相手が女性だということもあり、自首という大きな選択をしたことに対して敬意を表した。もしそれが本当で誰かを殺したのだとしても、自首するという行為に対して、無碍にはできないと思っていたのだ。

 彼女を奥の応接ソファーに座らせて、女性警官に持ってきてもらったお茶を勧め、落ち着いたかに見えたところで初めて質問した。

「ところで誰を殺したというのかね?」

 すると彼女は泣いていた顔を上げて、

「深溝雄一という大学生です。彼の首を絞めました」

 深溝雄一というのは、昨朝大学キャンパスで発見された例の男性だった。自分の担当事件でもあることで、門倉刑事はドキッとした。

「彼は死んでいませんよ」

 と、門倉刑事がいうと、彼女は非常に驚いた様子で、今まで滝のように流していた涙がピタリと止まったくらいだった。

「そんなことはありません」

 と言って、さらに食い下がってくる女に不信感を抱きながら門倉刑事は言った。

「意識はまだ戻っていませんが、死んだわけではありません」

 とキッパリと答えた。

 まだ信じられないという顔をした女性だったが、本当であれば、自首してくるくらいの覚悟を持ってきたのだから、相手が生きていると知れば、喜ぶべきであろう。何しろ自分は殺人犯ということにはならないのだから……。

――それとも、そんなに彼女は彼に死んでほしいと思うほど恨みがあるということか?

 と門倉刑事は考えてしまった。

 これは一体、どういうことになるというのだろうか?

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