加害者のない事件

森本 晃次

第1話 ウマの合う二人

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。ご了承願います。


 同じ人間でも、すぐ近くに自分と同じようなことを考える人間もいれば、まったく正反対の人間もいる。ここで話しているのは、

「……考える人間」

 であり、

「……考えている人間」

 ではないということを、諸君、覚えておいてくれたまえ。

 さて、人間というもの、いや、これは人間に限るものではないが、虫の合う人とつるむというのはこれは誰であっても同じであろう。会話も弾むし、一緒にいて楽しい。しかも批判されることはないので、自尊心が壊されることもない。

 しかし、そんな人とばかり一緒にいるということが、果たして可能なのだろうか? 人間というものは、まったく相いれない性格の人とも一緒にいてこそ生きられるということもある。

 例えば、まわりから見ても貧弱で、肉体的に誰と渡り合っても勝てそうにない人間は、少々の相手であっても勇敢に戦うような人のそばにいて、何とか自分の身を守ろうとするのではないか。いわゆるコバンザメのようにである。ただ、この場合、相手にも何か有利な点がなければ、この関係は成立しない。例えばこちらが相手に比べると利口であり、相手のお頭の回転を補って余りあるほどのものであれば、相手にとって不足はない。お互いにフィフティフィフティの関係になれるというものではないだろうか。

 そんな場合は少々意見が合わなくても仕方がない。生きていくためには共存共栄を目指さなければいけない時もあるだろう。

 ここに二人の男がいる。名前を深溝雄一と、明日香和恭吾という。この二人は恐ろしいほど馬が合い、一緒にいてもお互いに考えていることが分かるようで、まわりの人たちからは気持ち悪がられるほどの仲良しだった。お互いに何か不吉なことがあれば、本人よりも先に相手の方が気付いて、警告してあげることで難を逃れたということも何度もあったそうだ。

「そもそも、何度も難を逃れたというが、そんなに難があることの方が問題なんじゃないか?」

 とあまりにも二人の仲がいいことで、そんな余計なことを考える人もいるくらいで、確かに彼の言う通りでもあったは、二人はほとんど気にしていない。お互いが分かってくれていれば、それでいいという考えであった。

 だが、これは二人が一緒にいる間だけのことで、別々になると何をしているかは実際には分からない。相手は気付いているのかも知れないという思いがあることで、安川恭吾の方は気を付けるようにしていやが、深溝の方はどちらかというと天真爛漫だった。

「注意深いのは安川の方で、深溝の方は、あまり深くは前後のことを思い図ったりはしないタイプだ」

 ということであった。

 馬が合うと言っても、性格が同じだというわけではなく。お互いに相手のことがよく分かっているという間柄であったのだ。

 二人が知り合ったのは、大学に入学した時だった。今は三年生になっていて、それぞれ成人する年齢に達したが、成績は深溝の方がいい。なぜか生真面目で勉強熱心なのは安川の方なのだが、きっと要領の点で二人には大きな違いがあるのでだろう。

 ただ、お互いに相手のことを尊敬していて、尊敬している部分を羨ましく思っているのも事実だ。安川に対しては注意深いところ、深溝に対しては天真爛漫なくせに成績がよくて、要領のいいところだった。だが、羨ましいと思っているくせに、相手のようにはなりたくないという気持ちもあり、いずれ相手を見返してやるというくらいの気概をそれぞれに持っていた。

 そんな二人だったが、相手の考えが分かることで、周りからは、

「あの二人、いつも一緒で兄弟みたいだ。よほど性格が似ているんだろうな」

 と彼らを中途半端にしか知らない人間はそういう。

 ただ、彼らを中途半端にしか知らない連中も同じことであり、彼らまでがそう思い込むということは、それだけ二人の関係は実際の二人が考えている関係とは隔たりがあるのだろう。

 二人が知り合ったのは、大学キャンパスの中ではなかった。二人ともアニメが好きで、街のある同人誌の店でちょうど一緒になり、話をしているうちに、

「何だ。同じ大学の同じ学部で、学年も同じなんじゃないか。気が付かなかったな」

 と言って最初に食いついてきたのは、深浦の方だった。

「ああ、偶然ってあるんだな。俺はアニメが好きだなんて、ちょっと恥ずかしくて誰にも言えないから、友達なんか大学ではできないんだろうなって思っていたんだ」

 というと、今度は深溝が、

「俺もそうだったんだ、だから、同人誌の店で同じ趣味のやつと友達になれるかと思っていたんだけど、どうも皆それぞれに警戒しているようで、友達になんかなれる雰囲気じゃないんだよな」

 自分もヲタクの一員のくせして、そんなことを口にする。

 いや、ヲタクだからこそ、ヲタクの本当に嫌なところが見えているのかも知れない。他の人は最初から気持ち悪いと思い、目をまともに向けようとしないのだが、彼らは渦中にいる仲間という意識があるだけに、余計にまわりの目を気にしている姿を自分に置き換えてしまうことで、その限界が見えてしまうのかも知れない。

 そういう意味では二人とも、

「趣味趣向が合うもの同士なら、すべてにおいて気が合うわけではない」

 ということは分かっていたはずだ。

 だが、二人はウマが合った。それが不思議と大学でも一緒にいて、まわりの視線に違和感を抱いていたが、別に嫌だとは思わなかった。

「変な目で見るやつにはさせておけばいいだけさ」

 と言いあっていた。

 二人の間には喧嘩はなかった。喧嘩する理由がなかったからだ。喧嘩になりそうな雰囲気になっても、相手が何をされると嫌なのか、分かっている二人だから、相手の嫌がることはしない。それが仲良くやっていく秘訣だった。

 だが、逆に言えば、相手が嫌がることが何かを分かっているということは、それだけ危険であるということを、頭の中では分かっているだけに、実際にどうなるかなど、考えてみることはなかった。

 お互いに、

「無用だと思ったことをするのは、無駄なことだ」

 と考えていた。

 相手が同じように考えているということは二人には分からなかった。お互いに違うことを考えていれば、そのことについては分かるのに、同じことを考えている時は、相手の気持ちが伝わってこない。二人はそんな関係であった。

 そういう意味では、本当に、

「惹かれあっている」

 とは言い難いところがあったのだろう。

 それは気持ちで惹きあっているのか、違う意味で惹きあっているのかということを理解できていなかったからだ。

 ただ最初は、

「一緒にいて楽しい」

 という本能的な気持ちから仲良くなり、お互いに考えていることが分かってくると、友達などできるはずがないと思っていたヲタク二人にとって、これは運命の出会いだと言ってもいいだろう。

 それを思うと、ヲタクになってしまったことを後悔する毎日だったが、それでもやめられない自分にジレンマを感じ、誰にも相談できない苦しさもあって、四面楚歌を感じていただけに、たった一人と知り合っただけで、人生まったく違う色に見えてきたことが、二人には信じられない気持ちだった。

「アニメだって、立派な文化だし、日本が誇る芸術なんだ」

 と、思ってはいたが、声を大にしていう勇気がなかった二人は、知り合ったことで、声を大にして言いたい言葉に変わっていた。

 実際に言ってしまうと、少数派による負け犬の遠吠えに聞こえそうで、口にすることはなかったが、その代わり、他のヲタク連中が同じ気持ちを発信してくれている。結局二人はその他大勢でしかなかったが、それでもよかった。信じあえる仲間が増えたと思えばいいのであって、それまでヲタクは個別行動に、つるむとロクなことはないという思い込みから、自分で自分を嫌になっていた。

「まずは、自分で自分を好きになることだな」

 と最初に言い出したのは安川だった。彼は、考え方も理論的で、ヲタクには珍しいかと思えたが、実際のヲタクは、

「一つのことに特化して詳しい人たち」

 ということだと理解すると、自分がヲタクになってよかったと思うようになってきた二人だった。

 そんな二人がいつも楽しみに受けている学問が、心理学だった。二人は法学部に在籍していたが、一年生、二年生の間は、一般教頭科目が中心なので、心理学などの科目を選択することもできた。そんな中で二人が興味を持ったのは、

「ドッペルゲンガー」

 というものだった。

 ドッペルゲンガーというのは、ドイツ語で、

「重複歩行」

 とでも言えばいいのか、同じ人間が別々の場所で歩いているという発想である。

 つまりは、同じ時間、同じ次元でもう一人の自分が存在しているということである。

 ドッペルゲンガーというのは、

「その存在を見てしまうと、近い将来に死んでしまう」

 という都市伝説があった。

 しかし、これを都市伝説というべきかどうか、難しいところだ。過去の歴史を見ても、いろいろな著名人が自分のドッペルゲンガーを目撃するととで命を落としている。これを偶然として片づけていいものなのか。

 例えば、日本では芥川龍之介の話が有名である。

 彼の家に原稿をもらいに来た編集者が、机の上にある彼の原稿を読もうとした。すると彼は激高して、その原稿をビリビリに破いてゴミ箱に捨てたという。

 後日、原稿を貰いに行った同じ編集者は、睡眠薬を服毒し死んでいる龍之介を発見する。その時、先日、彼が破り捨てたはずの原稿がまったくの新品同然で見つかった。それが不思議であったという。さらに彼は自分のドッペルゲンガーを幾度か見たと言っているので、それも死に何らかの影響を与えているのではないかと言われる。

 ただ、彼の場合はずっと以前から死に対して考えていたようで、何度も自殺未遂を繰り返したうえでの最後だったようだ。とにかく謎に満ちているのは間違いない。

 他にも著名人で、ドッペルゲンガーを見たせいで死んでしまったという話を聞くが、二人は芥川龍之介の話にとても興味を持っていた。

「死を意識していたから死んでしあったというよりも、ドッペルゲンガーを見たことで、死ぬことが指名のように思えたのかも知れないな」

「じゃあ、彼はこの現実世界と死の世界を凌駕するような気持ちを持っていたということなのだろうか?」

「そうかも知れない、この世を悲観して死んだというのも考えられることだけど、死んだ後、この世に戻ってこれるという意識があったのかも知れないな」

「俺もそう思う。しかも、それは今までいた自分の世界ではない別の現実世界がそこには広がっているんじゃないか? 皆が死を怖がるのは、今のこの世界に戻ってこれないということが一番の原因だとすると、この世界以外の別の現実世界に行けるのであれば、行きたいと思う人があったとしてもいいんじゃないか。それだけこの世に未練もないし、自殺願望があるということは、この世でなければいいという考えに基づいているんだろうからな」

 二人はどうやら、死の世界が過去か未来か、自分の存在する世界があって、そこから戻ってくる場合は、同じ世界には戻れないというタイムパラドックスのような話をしていたのだ。

「でも、死後の世界というのは、どういう世界なんだろうか。天国と地獄とかあるみたいだけど」

 と安川がいうと、

「そうだな、だけど、天国と地獄だけではなく、この世を彷徨っている霊魂もあると聞くけどね」

 と深溝は言い、さらに続けた。

「考え方なんだろうけど、結局は宗教的な考えでこの世の戒めのために使われることが多いような気がするんだ。この世の行いが、あの世に行った時にどう自分に返ってくるかというようなね。俺はあまりそういう考えは好きじゃないな」

 品行方正で自由奔放な深溝らしい考えだ。

 テレビドラマなどでは、あの世の世界を描くことができず、その選択の場所として、何かの施設を描く作品もあった。どこかリアルな感じがするのは、死後の世界をこの世にあるもので表現しようとしているからではないかと二人は思っていた。

 それをアニメで表現すると、今度はリアルさに欠ける。アニメにも主いろいところがある反面、限界のようなものがあるのではないかと思ってもいた。

 二人はアニメヲタクであったが、普通のヲタクとは違い、どこか批判的なところがあった。そこがウマが合う証拠なのだろうが、それでもまったく一緒というわけではない。そうでなければ、二人はそれぞれお互いのコピー人間でしかないからだ。

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