5月16日(風) 脱出ー③


 地面に倒れ伏したウィードは、すぐに起き上がり涙目で怒鳴り返してくる。

「愚痴ぐらいいいだろ!ここまで大変だったんだしよ!」

「ええそうですね。それはそれとして殴ります」

「いやっ!助けてくれ、ランス様!」

 彼がランスに手を伸ばすと、無情にもその手は弾き落され、ランスから汚いものかのように睨まれていた。

「あ、まだ怒ってるんです?だから偶然だって言ってるじゃないですか!」

「ああ、そうだろうね。それはそれとして斬るけど」

「こっちのが鬼だ!」

 ウィードはそう言って地面に膝をつき、呪詛を口から漏らし始めた。

 それを無視して、私はランスに目を向ける。

「それで、こいつは何者?」

「もうわかってるでしょ?こいつは僕付きの諜報員だよ」

「やっぱりそうなのね。でも、騎士団でそういう人材を用意してたなんて初耳だわ」

「騎士団でって訳じゃないよ。非正規だし」

 そう告げたランスの顔は、申し訳なさでいっぱいだった。

「非正規?」

「事情があってね。ウィードは表向き雇えなかった。だから……」

 とランスがそこまで話した時、それを遮ってウィードが前に出てくる。

「ランス様、そっから先は俺が。……えー。まず何から話すか」

 少しだけ悩む素振りを見せて、ウィードはおもむろに上着を脱ぎ始めた。

「ちょっと。急に何してるのよ。淑女の前よ」

「直接見てもらった方が早いかと思ってね。無礼は見逃してくれ」

 そう言う彼の背中には、小さな、成長不全が起きたような小さなコウモリの翼があった。

「あなた、それ……」

「俺は魔人まがびと徒人ただびとのハーフ。それも貧民街スラム出身のクズだ。元々騎士になりたかったが、貧民街スラムのガキがそんなのになれるわけがねえ」

 他種族と禍根を残す魔人まがびとの血。しかも身分証明の得られない貧民街スラム出身。子供の夢を壊すのには十分な条件だろう。

「そんな俺を拾ってくれた男が何とも優しくてね。貧民街スラムの悪知恵を長所だとか言いやがった」

 上着を着直しながら、彼は楽しそうに笑う。ランスの方を見ると、なんとも複雑そうな顔をしていた。

「拾ったって、お前が願ったんじゃないか。それに、優しくした覚えもないぞ」

「ハハハ。確かに優しくはなかったかもな!だがまあ、人生が愉快になったのは確かだ」

 ウィードは機嫌よくランスの肩を叩く。そこには確かな感謝の念があった。

「そういう訳で、俺は騎士の真似事をする機会を得た。その一環で、ここを調べに来てたって訳よ」

「そうだったの……」

 役割としては予想通りだったが、ウィードの過去はこの国でも問題視されていることであった。

 評価されるべき人が評価されないこと。それは確かに問題だが、騎士など貴族位には膨大な金がかかる。更には式典などに参加するための礼儀作法を学ぶ時間も、貧民街スラムの民には存在しなかった。国で支援を出来ればいいのだろうが、そんな博打を出来るほど、この国に余裕はない。

 彼を見るだけで、セシリアがどれだけ特別待遇なのかがよくわかった。

 ランスも本当は正式に騎士にしてやりたかったのだろうが、男爵家では力が足りなかったのだろう。

「まあ、今ではこの地位に満足してるよ。ランス様見てると、騎士なんて俺じゃあ息が詰まりそうだしな!」

「それはそうでしょうね。騎士になったらあんな戦い方できないでしょうし。……後でどんな道具か教えてもらえる?」

「ん?ああ、確かに嬢ちゃんなら使いこなせるかもな。いいぜ」

 ウィードへの不信感もすっかり晴れ、親し気に意見交換をしていると、ランスがわざとらしい咳をして、脱線した話題を終わらせた。

「身の上話が終わったのなら、調査報告をしてくれるか?」

「おっと悪い。ただまあ、研究成果についてはあの小僧に聞いた方がいいし……。ああ、そうだ。こいつらの狙い、戦争だぜ」

 軽く発せられたその単語に我々の空気は一気に張り詰めた。

「そんな情報、どうやって手に入れたの」

 一体何をやればそんな重要情報を知れる地位に近づけたのか。もしやこいつはとんでもない技術を持っているのか。

 そんな期待と畏怖を込めて問うと、これまた軽く返される。

「あの子供の魔人まがびといただろ?俺がハーフだって知って、この国を恨んでるとか言いながら酒飲んでたら、気持ちよく喋ってくれたんだよ」

「……お酒って、まだ子供でしょうに」

 少しの呆れとやはりという納得と共にツッコミを返すと、ウィードは更に驚きの情報を吐く。

「あいつ三十路超えてるぜ。魔人って不思議だよな」

「え」

「あと別の男も同じこと言ってて、そいつは連絡員って名乗ってたな」

「連絡員……」

「それと、この空間がバレなかったのは、幻惑系統の魔法を使える魔人がいたんだよ」

「ちょっと待って」

「ああ、そいつも捕まえに行ったほうがいいか?あれ?もう別の現場に行ったんだっけ」

 ウィードからもたらされる情報の波に耐え切れず、私はそこで待ったをかけた。

「ちょっと待ちなさい!色々情報が多いわ。まず、戦争?あとは連絡員がいるのなら、別動隊もいるのかしら」

 ランスもそれに乗っかってきて、一緒に情報を整理していく。

「幻惑って催眠と同じ感じ?それにあんな化け物、偽竜フェイクドラゴンだっけ?が量産でもされてたら、それこそ災厄みたいだね。いや、量産されているのかも。シリーズって言ってたんだし」

 ランスの言葉を聞いて、ウィードが何かを思い出したかのように手を叩いた。

「ああ、それそれ!あの小僧、俺が災厄になるんだ!とかはしゃいでたぜ」

 情報の多さに少しだけ頭がくらくらし始めた。

 戦争に災厄に、逃げた魔人の事。災厄についてはいいとして、新たに二つのことに対応しなければならない。これは我が家だけで対応できる範囲を超えている。一度各地の黒華(こっか)の者と話し合うべきであろう。

 ランスも何かしら結論付けたのか、ウィードに向けて指示を出す。

「ウィード。さっきまでのことは書面に纏めてくれ。逃げた魔人の人相書きも頼む」

「うへえ、めんどくさい……」

「これからも働きたいなら、こういう仕事も覚えろ」

 ウィードが渋々と言った様子で頷く。

「それと後で、本当に何もなかったのか聞かせてもらうからね?」

 それを聞いたウィードは、今度は青い顔で慌て始めた。

 とにかくこれで落着と、我々は和やかな雰囲気に包まれた。

 しかし、そんな我々の背後から突然、壁を突き破りながら何かが飛び出てくる。

 今までの化け物と違って振動もなにもなく着地したそれは、同じような岩肌を持つが、四肢の生えた長い胴とゆらゆら揺れる猫の尻尾という、素早い豹のような印象を受けた。

 様子を見る間もななく、その小さな偽竜が硬そうな頭蓋を前にして突進を始める。しかも何か魔術を使っているのか、瞬きの間にその身体は私の目の前まで迫っていた。

 身体は回避しようと動いてはいるが、それでも間に合いそうにない。目を閉じ衝撃に備えていると、それより早く横からグイと手を引かれる。

 硬い感触を感じながら恐る恐る目を開くと、私はランスの腕に抱かれ、彼はその背中で突進を受け止めていた。

「ちょ、ちょっとランス!」

「怪我はない⁉……よかった。ちょっと待ってて。すぐに終わらせるから」

 そう言うと彼はウィードに私を預け、ランスは痛がる様子も見せずに、そのまま小さな偽竜フェイクドラゴンと対峙していた。

 あのランスに守られてしまうなんて、何たる不覚!

 こういう思考が女性らしくないのだとは思うが、その裏にある感情を認めると、何かが壊れる予感がしていた。

 速度に翻弄され、まともに攻撃を受けることもあるが、ランスは一歩も下がらない。

 いつだったか、幼い頃の景色を思い出した。小さい頃、私がいつものように彼の手を取って近くの森に入った時。

 今と同じように彼は私を庇い、震えながらも森の獣と対峙していた。その時は私が獣を追い払ったが、今やその役も取られてしまった。

 いつの間にか追い越されていたその背丈に、言葉にしようがない感情が渦巻く。

 そのままボーッとしていると怪しく思ったウィードが覗き込んでくる。

「嬢ちゃん、大丈夫か?ほれ。あの騎士様に任せて、俺たちは下がるぞ」

「あ……。いえ、私も」

 短剣を取り出しながら言いかけたその言葉は、ランスの剣戟の音で遮られる。

 すでにその魔物の身体は、ランスの剣によって貫かれていた。

 どうあの速度を捕らえたのか、何故硬いはずの岩竜もどきベヒモスモチーフの肌を貫けたのか。

 気になる部分は数多くあるが、彼が強い騎士になったのは間違いなかった。

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