第2話 幻の原

 俺のお願いが通用しなかった。


 百歩譲ってそれはいい。

 母さんにだって俺のお願いが効いた試しはないし、世の中にはそういうやつもいるのだろう。


 だが、それ以前の問題として、目の前の女子生徒の言動は明らかに異常だ。


「いやいや、ちょっと待て。魔女? 一体何の話――」

「自分が他人とは違う自覚、あるんでしょ」


 俺の疑問を遮り女子生徒が口にした言葉を聞いて、つい黙り込んでしまった。


 常識的に考えれば俺の疑問は当然だし、彼女の言うことをまともに取り合う必要もないのかもしれない。

 けれど、俺は自分と同じやり方でお願いができる人間を他に一人も知らない。

 自分と他人の間には何か俺の知らない違いがあるんじゃないか。


 今までもそんな考えが脳裏をよぎったことはあるし、彼女がその答えを知っているというのなら興味がないと言えば嘘になる。


「ま、当然よね。さっきの精神感応魔術、粗削りだけど随分と手慣れてるみたいだったし。あれ、使うのは今日が初めてってわけじゃないんでしょ? たとえ知識がなくても、力を自覚してれば他人との違いにはいやでも気づく」

「……何が言いたいんだ、お前」

「簡単な話よ。あんたの力の正体は魔術で、それを扱う者こそ魔女なの。だから、あんたは正式な魔女として私の下で正しい力の使い方を学びなさい!」


 詳しい説明も選択肢を与えることもせず、女子生徒はただ命令だけを口にして強引に俺の右腕を掴んだ。


「じゃ、行くわよ」

「は? 行くって、どこに」

「修行用に用意した空き教室。とりあえず、基礎的な知識を身に着けるために最初は座学からね」


 俺が女子生徒に引っ張られて彼女の言う空き教室とやらへ連行されそうになっていると、後ろから伸びてきた手が俺の肩を掴み屋上のドアを通る直前で体をその場へ縫い留めた。


「待ちなさい。童子君、何を流されそうになっているの。普段は私が何を言っても素直に従うことなんてないくせに、らしくないわよ」


 振り返ればそこには俺ではなく突如やってきた女子生徒の方へ鋭い視線を注ぐ水無瀬の姿があって、彼女はそのまま俺の体を自分の方に引き寄せると間へ割って入るように足を前に踏み出した。


「苅宿かりやどさん、冗談にしても今のは悪ふざけが過ぎるわ」


 水無瀬の声音はいつになく刺々しくて、今の状況を歓迎していないことがありありと伝わってくる。


「水無瀬、あいつのこと知ってるのか?」

「二年五組の苅宿柚葉かりやどゆずは。クラスは違うけれど同学年の生徒でしょうに、あなたの方こそなぜ知らないの」


 そんなことを言われても、水無瀬以外はクラスメイトの顔と名前さえうろ覚えの俺が別クラスの人間を知っているはずもない。


 だが、少なくとも水無瀬がこう言うということは目の前の苅宿とやらはれっきとしたこの学園の生徒であり、いつの間にか忍び込んできた不審者というわけではないらしい。

 あまりにも怪し過ぎる言動を考慮すると、それがわかっただけでも多少は安心材料になる。


「別に冗談じゃないんだけど。そうね、確かに口で言うだけじゃ実感が持てないか。仕方ないから、本物の魔女がどういうものか見せてあげるわ!」


 言うが早いか、苅宿は右手を水無瀬の腰に回すとそのまま自分の方へ引き寄せた。


 驚いた様子の水無瀬は咄嗟に反応することができずされるがままになっていて、そんな彼女の顔に苅宿は躊躇うことなく自分の顔を近づけていく。


「苅宿さん!? 何を――」


 抗議の声を上げようとしていた水無瀬の口を苅宿の桃色の唇が塞ぎ、潰れるようにして二人の唇の形が変わっていく。


 水無瀬は息苦しそうに頬を紅潮させているのに対して、満面の笑みを浮かべた苅宿は実に楽しそうだ。


 いきなりの急展開について行けない……というか、どういう状況なんだ? これ。

 何か黙って見てると悪いことしてる気分になるというか、水無瀬の口から微かに荒い息が漏れてくるせいでどうにも落ち着かない。


「ぷは! いいわね、顔が綺麗だからしてみただけなんだけど、思ったよりたくさん溜まってるじゃない」


 ようやく口を離した苅宿は満足そうな表情を浮かべていて、水無瀬はそんな彼女に呆然とした視線を向けながらよろけて転びそうになっている。


「おい、水無瀬!」

「だ、大丈夫よ。ただ、その、暫くそうしてくれていると助かるわ」


 慌てて肩を掴み体を支えてやると、水無瀬はようやく落ち着きを取り戻してきたようで大きく息を吸い呼吸を整えると苅宿に先程までとは比較にならない明確な敵意の籠った視線を向けた。


「苅宿さん、今のはどういうことかしら。返答次第では――」


 水無瀬は口にしかけていた台詞を飲み込み、肩に置いていた俺の手を強く握りしめた。


 あまり水無瀬らしくはない行動だけれど、気持ちはわかる。


 なにせ、俺たちの目の前には青々とした草原が果てしなく広がっていて、吸い込む空気はコンクリートではあり得ない土臭さと胸のすくような爽快感を伴っている。


 とてもじゃないが、現実の光景とは思えない。


 俺も水無瀬も先程までは間違いなく屋上にいたし、そもそも学校の周囲にこんな場所は存在しないはずだ。

 それなのに、辺りの景色は瞬きの間に見渡す限りの草原へと変わっていて、どこを探しても校舎はおろか俺と水無瀬に苅宿を加えた三人以外は人の姿すら見当たらない。


「性エネルギーを魔力に昇華して幻視や幻聴といった現実とは離れた感覚を得る初歩的な性魔術だけど、こうして実際に体験すると中々のもんでしょ?」


 苅宿が得意気に説明しているのを聞く限り、目の前のこれは幻覚のようなもので本当に見知らぬ草原へ瞬間移動したというわけではなさそうだけれど。

 たとえ幻覚だとしても、常軌を逸していることに変わりはない。


 辺りに広がる景色は単なる白昼夢として処理できる限界を遥かに飛び超えている。


 魔術、或いは魔女。

 胡散臭いにも程がある単語だが、これを見てしまうとあながち眉唾ではないのかもしれないと思えてくる。


「水無瀬、一応聞くけどお前にも周りの草原見えてるよな?」

「ええ……信じ難いけれど、何か私たちの常識を覆すような事態が起きていることは認めざるを得ないわね」

 

 水無瀬と俺が認識を同じくしたところで、苅宿は軽く右足を持ち上げると勢いよく地面を踏みつけた。

 踏みつけたられた地面はまるでガラスか何かのように砕け散り、そこから灰色の床が露出する。


 本当に夢幻の類だったのだろう。

 草原の崩壊は一か所に留まらず、最初に砕けた場所を起点として蜘蛛の巣状に広がっていき、十秒とかからず辺りの景色は元の屋上へと塗り替わった。


「これで、少しは信じる気になった?」

「……まあ、流石にな」

「結構。じゃ、今度こそ行くわよ。せっかくだし、そっちのあんたもついてきなさい」


 苅宿は俺と水無瀬の顔を順に見回すと返事も待たずに歩き出し、そのまま階下へ続く階段を下り始めた。


 正直、苅宿についてはまだわからないことが多すぎる。

 信用できる人物かと問われれば、首を縦には触れないだろう。


 けれど、このまま何も知らずにいるのが嫌だったからだろうか。

 俺と水無瀬はどちらからともなく顔を見合わせ頷き合うと、苅宿の背を追って屋上を後にした。

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